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 哲学では答えを出せない!

 仏教では答えを出しています。  それゆえ、多くの人が精神のよりどころとしています。  でも、哲学では、答えがありません。  なぜ、なぜ、なぜ、とこれまでは続いています。  哲学者を尊敬する人はいても帰依しようという人はいないようです。  また、“この哲学者”を尊敬する、という人たちも少数です。  それは理性の理、「理」の世界だからです。(頭のいい人は少数です)  人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。(記憶とかは除いてください)  宗教はこの三つの働きを持って、答えを出しました。  でも、哲学は「理」のみなので、答えが出せない。  という私の主張への、感想を聞かせてください。  お願いします。  

みんなの回答

noname#114483
noname#114483
回答No.7

簡単ですよ、ご自身の「答え」の感覚が違うだけです。 なぜ・なぜ・・・というのは一理ありますがこれは「あるポイントを 『答え』と定義しないから永久に『答え』が出ない」というだけの話 です。

yy8yy8az
質問者

補足

 もう少し意見を伺いたく思います。  よろしくお願いいたします。

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.6

宗教の論理は絶対の回答がまず先にあるわけですから、答えは出るでしょうね。 もし、経典の中に矛盾があっても、それを解釈論によって習合していくという スタイルは、しかしひとつの疑問を抑えることが出来ないのです。 何故その回答が正しいのか?と。 もちろん、それを疑問に思うことが不徳であるとか、理解不足であるとするのが "宗教"のあるべき姿なのでしょう。結論としては、それが唯一絶対の神の言葉だからであるとか、 あるいは修行を積んだ高僧の言葉であるから、とするのが"宗教"です。 つまり、より上の位階にある人間の言葉は常に正しいのだ、という規定こそが"宗教"です。 組織宗教における上位の人間は誤りが無い,と規定するならば。 つまり上位の人間の行動が一般的な基準と異なったとしても『正しい』と強弁するならば。 それが一般的な基準と置き換わり、『正しい』と規定される。これが"宗教"であるのです。 そこに現出するのは絶対の階級制。そこにはもはや万人を幸福にする答えなどはありません。 近代哲学の『理』を祖とする現代国家が目指す、相互互助を旨とする平等の理念・法理は消えうせ、 "正しい強者"が"誤った弱者"を食らい尽くす、中世の暗黒時代が再来するのです。 それでも宗教の論理に微塵も誤りが無い、という解答を真に導き出したのならば 質問者さんはまさしく"宗教家"であると思います。 とまあ、おどろおどろしく書きましたが、これは組織宗教の話であって 質問者さんがそう考えてるなら、それでいいんじゃね?ってのが正直な感想です。 強いて言うなら、人間の行動は意志・感情・理性だけではなく記憶(知識)によっても 規範されるんじゃないかな?とは思います。 たとえば、私は『世の中には証明できない問題がある』という数学的証明を どういうわけかたまたま知っていて、だからこそ全部に答えがあるとする 宗教はあやしいなぁ、と感じるわけです。 もちろん解答を先においてしまうという宗教のスタイルもありだと思います。 ただ、本当に答えの無い問題かは事前に判断できない。 よってそれを追求するのもしないのも、各々、つまり『個』が判断すること、 とするのが哲学なんじゃないでしょうか。 それが、一般的な宗教のように、なんらかの組織の上位者からの命令であっては やはり毛色の違った話になってきますよね。 そして、宗教と組織は構造的にどうしても切っても切れない関係にある、と思うんです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 私が、安易に宗教という言葉を使ったのは、適当でなかったかもしれません。  質問で、仏教ではといっておきながら、その後で宗教は・・・と言い換えています。ここも、仏教は・・・というべきでした。  といっても、仏教と言い換えても同じ、と云われてしまいそうですが。  wiz0621さんの意見は私にとって、とても参考になります。  私は、無意識のうちに、釈尊が顕わした般若心経の世界を、回答と見ていたことに気づきました。  また、組織宗教に対する受け止め方や、『個』が判断すること、それが哲学、という指摘も納得できます。  回答ありがとうございました。

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回答No.5

 yy8yy8az さん こんばんは。わたしが投稿するとたぶん いやがらせだとも受け取られるかも知れませんが まぁ 聞いてください。  最終の答えは 非思考――その意味での 信仰――にあると捉えています。  思考ないし理性ないしその意味での哲学に 最終のこたえは 詰め込めません。  文章あるいは議論としての哲学をとおして 先に述べた《非思考》を捉えることは出来ると考えます。非思考への道を 言葉による表現をつうじて用意することができると考えます。   ★ 仏教では答えを出しています。  ☆ とおっしゃるのは そういう表現〔としての哲学〕を仲介役としているのではないでしょうか? 突きつめたかたちにおいては  ★ 感情  ☆ の問題であるという《答え〔に近いもの〕》を伝えるのは 言葉による表現なのではないでしょうか?  繰り返すならば 注意すべきこととして 次のように思います。  ○ 非思考に最終の答えがあるというとき その答えを仮りのかたちとしては けっきょく哲学の文章ないし物語に表わすようになると思います。  ○ 口伝・直伝ということを言ったりしますが 言葉という手段は けっこう有効だと考えます。つまり哲学が 最終の答えへの仲介者となり得ます。――《教外別伝》ということを そのように言葉で伝えています。  ○ けっきょく 哲学は 感性と理性とを総合した《知解》能力を発揮して主題ごとに推論した結論について その妥当性を判断しています。判断は 《意志》行為です。知解の基礎に 《記憶》もあるわけですが これは触れないでおきましょう。  このような感想を持ちました。どうでしょうか。

yy8yy8az
質問者

お礼

 今回はとても分かりやすかったです。  全くそのとうりだと思いました。  「感性と理性とを総合した能力を・・・」  異議なし。  人は理性にしたがって、行動する動物である。(五割程度)  と気づきました。  今回の質問は、理性を軽く見ているから、ではなかったのですが、もしかしたら軽く見ていたかも知れません。  回答ありがとうございました。      

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回答No.4

哲学は「智を愛する」であり、宗教も広い意味で哲学の一種になります。 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6 フィロソフィアという語 [編集] 古希: Φιλοσοφια(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、希: philos(愛)+希: sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスやプラトンが用いるようになってから、とされている。 <<< さて、哲学では「答えがでない」のではなく、「でないようにみえている」だけだとも捉えることが出来るように思えます。 逆説的に言えば、そのような問題(智のみでは答えられないような問い)のみが、残されてきているとも言えるでしょう。 では、どうして「理(智)」のみでは答えがでないように「みえる」のでしょうか? おっしゃるように「意志、感情、理性」(別名、知情意)といった、ざっくりとした概念で捉えられ得る心の働きがありますが、「一見」答えのでないような問題も、具体的な問題に直面したときには、「その時・その場所」での「意志・感情」が影響するゆえ、「答えがでたような」錯覚に陥ることになります。 でも、後から冷静になって思い返せば、「いゃ、間違えたかな?」などと思うことも多いわけです。 だからといって、決断すべきときには、その時の状況によってそうせざるを得ないわけですから、人は時として「あとづけの知的・理性的な説明」を考えたりするわけです。 人が、人として生きる(死ぬ)過程において、「なぜ」という疑問は、一期一会の出会いに対し、常に真剣に接していこうとする「思い・想い(情や意)」があってこそ、発せられる真摯な問いでもあるでしょう。 常に自らを含む対象、ないし全体に対し、真摯に接していこうとするならば、智・理性のみでは不十分であり、必然的に知情意のバランスが保たれている必要があるでしょうし、そうでなければ、自滅の道を歩みかねないと思っています。

yy8yy8az
質問者

お礼

 「理」のみでは不十分、感情のみでも選択を誤る。  同時進行も難しい。  迷いが生じて、考え始める。  “思考”は理性の世界。  理性の世界に住む人も、感情の世界に住んでみて、言葉に置き換える。また意志という心についても、実感して、言葉に置き換えようと努力してみる。  哲学人たちは、言葉の阿弥陀くじをしているような印象を持っています。  言葉の選択を間違えば、どんな答えにたどり着くのか分かりません。  素直に言葉の選択にしたがって、答えに出会ったとしても、そんなはずではと、思ったりして。  あるお坊さんの言うところによると、仏教には、哲学的な聖道門(禅とか)と、宗教的(情的)な、浄土門との二門がある。とあります。  回答ありがとうございました。  

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.3

#1 >信仰あるいは信心という点で哲学の無い宗教もあるのでは 私には想像できません。 仏教哲学という言葉がありますが、仏教から哲学を外してしまって大仏に手を合わせていれば救われるということでしょうか。 たいていの宗教には経典があり、その中には人はどう生きるべきかの指針が示されていると思います。 私はこれが宗教における哲学部分だと思います。 これを抜いてしまうなら、信者など単なる狂信者でしかないのではないでしょうか。 それが救われるための答えだというなら宗教に価値は無いでしょう。 >刺抜き地蔵を信仰している人たちのように。 たぶん本人たちが聞いたら怒ると思いますよ。

yy8yy8az
質問者

お礼

 大昔、人は自然の脅威や暗闇に恐怖を抱き、それらを恐れ、そして敬うという態度を表しました。  それを“信仰”と受け止めて。  そこには“感情”が大きく支配してるように思います。  理性の働きによる“信仰”ではないように思うのですが。  よく、いわしの頭も信心、などといいますが、そのレベルのことを云いたくて、刺抜き地蔵を例に挙げました。 決して、見下しているわけではありません。当人達も哲学を通して信仰しているわけではないと思うので、怒らないと思います。  私も人並みに、初詣もしますし、お盆にお墓参りもします。  たぶん、宗教という言葉と信仰という言葉に対しての、使い方に違いがあったのかもしれませんね。  回答ありがとうございました。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

> でも、哲学は「理」のみなので、答えが出せない。  という私の主張への、感想を聞かせてください。 :その内容がどんなものであっても、とりあえず答えが出せさえすればそれでいいのかな? という乾燥を持ちました。   わからなければ、なぜ、なぜ、と問い続けるのは理に適っているのではありませんか? 宗教というのは妥協の産物にすぎないのでしょうか? > 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。(記憶とかは除いてください)  宗教はこの三つの働きを持って、答えを出しました。 :素晴しいです。 その答えをぜひ教えてください。  

yy8yy8az
質問者

お礼

 鋭いですね。痛いところをついてきますね。  生半可な知識を“駆使?”しての主張を見抜いています。  ですから素晴らしいといわれても、答えられません。ただ漠然とそう感じているだけ、なのですから。  また、“宗教というのは妥協の産物”という意見については、これから考えてみたいと思います。初めて摂する“指摘”なので。  般若心経を顕わした、釈尊の世界なら、感情も、理性も、そして人間の生きようという意志さえも包み込んで“教え”ているのではと漠然と受け止めているだけです。  人間は理性のみで生きているわけではないので“哲学”は“感情”や、本能として備わっているのではないかと思われる“意志”なども理性が捉えて、考えを深めているとは思いますが、それだけでは、理性の世界を飛び出せないのではないでしょうか。  “哲学”に疑問を問うなら、感情の力にも、意志の心にも、頼るべきではないかといいたいのです。  こうした受け止め方への批判なども、受けてみようかと思いますが。  批判は無いほうがいいけど。  回答ありがとうございました。  

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.1

哲学のない宗教なんて存在するのですか? >という私の主張への、感想を聞かせてください。 お返事は必ず書いてくださいね。

yy8yy8az
質問者

お礼

 “哲学のない宗教なんて存在するのですか?”  というのが、返事なのですね。  宗教という表現よりも少し範囲が狭まるかと思いますが、信仰あるいは信心、という点で哲学の無い宗教もあるのでは、とは思いますが。  巣鴨の刺抜き地蔵を信仰している人たちのように。  でも私は、宗教は意志、感情、理性、を基に答えを出した、と考えてみたのです。  理性=哲学、と受け止めてください。  回答ありがとうございます。

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