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 哲学では答えを出せない!

wiz0621の回答

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.6

宗教の論理は絶対の回答がまず先にあるわけですから、答えは出るでしょうね。 もし、経典の中に矛盾があっても、それを解釈論によって習合していくという スタイルは、しかしひとつの疑問を抑えることが出来ないのです。 何故その回答が正しいのか?と。 もちろん、それを疑問に思うことが不徳であるとか、理解不足であるとするのが "宗教"のあるべき姿なのでしょう。結論としては、それが唯一絶対の神の言葉だからであるとか、 あるいは修行を積んだ高僧の言葉であるから、とするのが"宗教"です。 つまり、より上の位階にある人間の言葉は常に正しいのだ、という規定こそが"宗教"です。 組織宗教における上位の人間は誤りが無い,と規定するならば。 つまり上位の人間の行動が一般的な基準と異なったとしても『正しい』と強弁するならば。 それが一般的な基準と置き換わり、『正しい』と規定される。これが"宗教"であるのです。 そこに現出するのは絶対の階級制。そこにはもはや万人を幸福にする答えなどはありません。 近代哲学の『理』を祖とする現代国家が目指す、相互互助を旨とする平等の理念・法理は消えうせ、 "正しい強者"が"誤った弱者"を食らい尽くす、中世の暗黒時代が再来するのです。 それでも宗教の論理に微塵も誤りが無い、という解答を真に導き出したのならば 質問者さんはまさしく"宗教家"であると思います。 とまあ、おどろおどろしく書きましたが、これは組織宗教の話であって 質問者さんがそう考えてるなら、それでいいんじゃね?ってのが正直な感想です。 強いて言うなら、人間の行動は意志・感情・理性だけではなく記憶(知識)によっても 規範されるんじゃないかな?とは思います。 たとえば、私は『世の中には証明できない問題がある』という数学的証明を どういうわけかたまたま知っていて、だからこそ全部に答えがあるとする 宗教はあやしいなぁ、と感じるわけです。 もちろん解答を先においてしまうという宗教のスタイルもありだと思います。 ただ、本当に答えの無い問題かは事前に判断できない。 よってそれを追求するのもしないのも、各々、つまり『個』が判断すること、 とするのが哲学なんじゃないでしょうか。 それが、一般的な宗教のように、なんらかの組織の上位者からの命令であっては やはり毛色の違った話になってきますよね。 そして、宗教と組織は構造的にどうしても切っても切れない関係にある、と思うんです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 私が、安易に宗教という言葉を使ったのは、適当でなかったかもしれません。  質問で、仏教ではといっておきながら、その後で宗教は・・・と言い換えています。ここも、仏教は・・・というべきでした。  といっても、仏教と言い換えても同じ、と云われてしまいそうですが。  wiz0621さんの意見は私にとって、とても参考になります。  私は、無意識のうちに、釈尊が顕わした般若心経の世界を、回答と見ていたことに気づきました。  また、組織宗教に対する受け止め方や、『個』が判断すること、それが哲学、という指摘も納得できます。  回答ありがとうございました。

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