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 哲学では答えを出せない!

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.4

哲学は「智を愛する」であり、宗教も広い意味で哲学の一種になります。 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6 フィロソフィアという語 [編集] 古希: Φιλοσοφια(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、希: philos(愛)+希: sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスやプラトンが用いるようになってから、とされている。 <<< さて、哲学では「答えがでない」のではなく、「でないようにみえている」だけだとも捉えることが出来るように思えます。 逆説的に言えば、そのような問題(智のみでは答えられないような問い)のみが、残されてきているとも言えるでしょう。 では、どうして「理(智)」のみでは答えがでないように「みえる」のでしょうか? おっしゃるように「意志、感情、理性」(別名、知情意)といった、ざっくりとした概念で捉えられ得る心の働きがありますが、「一見」答えのでないような問題も、具体的な問題に直面したときには、「その時・その場所」での「意志・感情」が影響するゆえ、「答えがでたような」錯覚に陥ることになります。 でも、後から冷静になって思い返せば、「いゃ、間違えたかな?」などと思うことも多いわけです。 だからといって、決断すべきときには、その時の状況によってそうせざるを得ないわけですから、人は時として「あとづけの知的・理性的な説明」を考えたりするわけです。 人が、人として生きる(死ぬ)過程において、「なぜ」という疑問は、一期一会の出会いに対し、常に真剣に接していこうとする「思い・想い(情や意)」があってこそ、発せられる真摯な問いでもあるでしょう。 常に自らを含む対象、ないし全体に対し、真摯に接していこうとするならば、智・理性のみでは不十分であり、必然的に知情意のバランスが保たれている必要があるでしょうし、そうでなければ、自滅の道を歩みかねないと思っています。

yy8yy8az
質問者

お礼

 「理」のみでは不十分、感情のみでも選択を誤る。  同時進行も難しい。  迷いが生じて、考え始める。  “思考”は理性の世界。  理性の世界に住む人も、感情の世界に住んでみて、言葉に置き換える。また意志という心についても、実感して、言葉に置き換えようと努力してみる。  哲学人たちは、言葉の阿弥陀くじをしているような印象を持っています。  言葉の選択を間違えば、どんな答えにたどり着くのか分かりません。  素直に言葉の選択にしたがって、答えに出会ったとしても、そんなはずではと、思ったりして。  あるお坊さんの言うところによると、仏教には、哲学的な聖道門(禅とか)と、宗教的(情的)な、浄土門との二門がある。とあります。  回答ありがとうございました。  

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