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プラトンのイデア論の根拠について

プラトンが所謂現実世界に対して、それを支える超越的な世界をイデア 界として想定してしていますが、そもそもイデアの論拠とはどこにある のでしょうか。 同じ超越的な対象を求めるにしてもキリスト教であれば、人間や自然に 対して「神」を唯一絶対の根拠としており、アリストテレスでさえ「第 一起動者」なるものを想定しています。 現実の根拠はイデア。では、イデアの根拠は? 皆様、よろしく御教示ください。

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回答No.2

> イデアは誰が何処に造った という問題の立て方はちょっとちがうかな、と思います。そんなふうに考えていくと「イデア」の理解から遠ざかるような気がします。 なにものかがそこにある、という根拠は、誰がいつどこで作ったという証明以外にもあります、というか、イデアのように、そこにあることはわかっていても、感覚器官で知覚することのできないものは、そのようなやり方で根拠づけることはできません。 簡単に整理してみましょう。 イデア論の成立には、大きく言うと、三つの要素があります。 1.ソクラテスの「アレテー(徳)」の探求を受け継いだ、「徳の原型」としてのイデア プラトンはこれを「正義のイデア」「美のイデア」として立てていきます。 現実の世界においてわたしたちが経験する美や正義は、いずれも「完全無欠」のかたちではありません。にもかかわらず、わたしたちは不正の要素の混入した正義から「正義」の存在をうかがい知ることができる。汚れた要素の入り交じった美のなかに、純粋な「美」を見て取るのはなぜか。 それはこれら現実の世界にあるものが「正義そのもの」「美そのもの」を分かちもっているのではないか。わたしたちの経験の根底には「完全な美」「完全な正義」というものがあって、それらのものは、そうしたものをおぼろげに想起させるのではないか。 2.認識の成立根拠としてのイデア もしもこの世界が流動変化のうちにあって、恒常不変の要素を何一つ持たなかったとしたら、わたしたちはいったい何を認識することができるのか。たとえば「空が青い」というときに、「空」「青」という恒常的要素がなければ、わたしたちは空の青さを認識することもできないでしょう。 3.存在者の存在構造としてのイデア すべて存在するものは、無秩序に、混沌として存在しているわけではありません。 どんなイヌもイヌという特性を持っている。かならずしも肉体の目で見られる形態や色とは関係なく、その「本質」、精神の目でみる形を備えている。そうしてその形が存在者の存在構造としての形相、イデアである。 つまり、人間はあることを定義することによって、概念規定を明瞭にすることができ、そのかぎりでイデアを思うことができる。すなわち正確な定義とイデアは一致する、とプラトンは考えたのです。 ここでプラトンはソクラテスの「徳」を一歩進めて、価値だけでなく、自然界をイデアの世界に論理的に結びつけていきました。 この回答は『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(岩田・坂口他 有斐閣)を参考にしています。質問者さんの助けになるかと思いますので、ぜひご一読をお薦めします。

fmhiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >イデアは誰が何処に造った >という問題の立て方はちょっとちがうかな、と思います。そんなふう>に考えていくと「イデア」の理解から遠ざかるような気がします。 >なにものかがそこにある、という根拠は、誰がいつどこで作ったとい>う証明以外にもあります、というか、イデアのように、そこにあるこ>とはわかっていても、感覚器官で知覚することのできないものは、そ>のようなやり方で根拠づけることはできません。 誤解されるかな、と思いつつお伺いしてしみました。 あくまでも「例えば」でした。 私の理解では、プラトンが霊魂の不滅を確信していた以上、 個人を超越した天上の世界にあると考えれば良いようですね。 あるいはイデアは各自の中にある、 と云うか魂の相の中に分有されているものとも云えましょうか。 誰が何のために造ったのか、あるいは無目的、自然発生的に生成したも のかは生命の発生と同様わかりませんが、プラトンはどう考えていたの かな、と疑問に思ったのが質問の動機です。 『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(岩田・坂口他 有斐閣)、 読んでみたいと思います。併せて書籍をご紹介くださり、 ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.1

単純に、ホンモノとニセモノの区別ではないでしょうか。

fmhiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 プラトンは、現象界に対して何故イデアなるものが存在すると考えるに 至ったのか、イデアは誰が何処に造った(勝手に生成した、でも良いで すが)のか、その辺りの消息を端的にお伺いしたいのですが。

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