大澤真幸のキリストを媒介とする神の赦しについて

このQ&Aのポイント
  • キリスト教を生産的に応用するためには、神が人間に対して絶対的に超越していることを出発点とする必要がある。
  • キリストとは、神と人間をつなぐと同時に隔てる障壁でもある媒介者である。
  • キリストが死ぬことによって、神が人間であることが示される。神の赦しは普遍的な共同性への移行を伴う必要がある。
回答を見る
  • ベストアンサー

大澤真幸の《キリストを媒介とする神の赦し》について

 ▼ (大澤真幸:十字架上に死すキリスト・イエスを媒介者とする神の・人間に対する赦しとは?) ~~~~~~~~~~~~  1. だから キリスト教を生産的に応用しようと思えば・・・  まづ 出発点とすべきことは 神は 人間に対して 絶対的に超越している ということである。  2. 神が人間を 一方的に規定し 人間に働きかけることができるのみで 人間は 神へと働きかけたり 神の行動や意思を――部分的にすら――規定することはできない。  3. 《第三者の審級》という概念を用いれば キリスト教を始めとする啓示宗教の神は その超越性を 最も純粋に きわめて論理的に首尾一貫した形式で保持している第三者の審級であると解釈することができる。   ☆(あ) 1~3までは 神が人にとって絶対的に隔たると言っている。   ☆(い) 《第三者の審級》というのは うさんくさいとわたしは思って      いる。前項の《絶対の隔たり》があいまいになる。言いかえると      絶対なる神が 経験世界に降りて来て 相対的な意味内容を持ちか      ねない。――次項は この隔たりを埋めるという問題が来る。  4. このとき キリストとは何であるか? キリストは 神と人間の間の媒介者であろうか? そのように考えた場合には キリストは 神と人間をつなぐと同時に それらを隔てる障壁の印でもある。   ☆(う) 《障壁》≒《隔たり》は すでに理解済みであるのだが。次項      についても そう言わねばならない。  5. キリストという媒介が存在しているということは 神と人間を互いに分離した項として設定することを意味するからだ。  6. 神が人間を 端的に赦した場合には 神を人間から隔てる絶対的な超越性は手付かずのままに残されることになっただろう。   ☆(え) 《赦し》とは 人の逆らい――約束の破棄――に対するそれの      ことである。   ☆(お) 《端的に赦した場合》には 神と人との隔たりが 絶対という      状態のままに遺ったであろうと言っている。端的にそのとおりであ      る。――次項からは その赦し方が 手の込んだかたちになったし     そのようになる必然性があったのだと説こうとしている。  7. しかし キリストは このような意味での媒介者ではない。キリストは 神そのものだからである。   ☆(か) つづく説明を聞こう。  8. 十字架の上で 神そのものが死ぬのである。もう少し繊細な言い方に換えれば 十字架の上で死ぬことを通じて 神が人間であることが示されるのだ。   ☆(き) このような説き方(解き方)だと 《死ぬ》のは 神なのか?      人間なのか? が必ずしもはっきりしない。  ・・・  9. どういうことか? キリストが死んだということは 超越的な神(キリスト)が 内在的な人間だということであろう。   ☆(く) 分かりづらい。もともと 神の子でありみづからも神であるキ      リストが 肉(身と心との自然本性たる人)となったと想定してい      るのだから この《内在的な人間》という規定は 必ずしも明瞭な      説明ではないように思える。  10. その結果は 何か? 人間は 信仰において 神と関係する。人間は 超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが その神は死んでしまい もはやそこにはいないのだから 人間の〔神に〕関係しようとする行為は 人間へと つまり信者たちへと還流してくるほかない。   ☆(け) 分かりづらい。     a. 神が死んだのか? 死んだのは 神か?     b. 信仰とは 神とわれとのカカハリを言う。これは 中立の定義。     c. 人間が《神と関係しようとする》のは 自由だが そもそも絶対      の隔たりがあるゆえ だからどうなるというものではない。     d. 仮りに神が死んだのだとしても・《もはやそこにいない》として      も 絶対のかなたの神との関係が どうして《人間へと還流して来      る》のだろう?  11. このとき つまり神が人間に置き換えられたとき 神の場所に 原理的には 人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現することになるだろう。   ☆(こ) 果たしてそうか? それが《原理的》か? 《死んだ》という      行動の軌跡が 天から神が降りて来たことを証し そこに神の痕跡      としてのごとき――次項にあるように――《聖霊》の場を実現する      ことになる。のだろうか?  12. この共同性を成り立たせる紐帯こそが キリスト教の言うところの《聖霊》(あるいはキリストの身体)であろう。   ☆(さ) 果たしてどうか? ただの想像ではないのか?   ☆(し) 想像ではないとしたらそれは むしろ初めに《絶対の隔たりな      る神》を想定したその神とわれとの――《非思考》における――カ      カハリが 依然として前提と成っていると見るのがよい。のではな      いか?   ☆(す) 《紐帯 ないし 共同性(また 共生)》は 非思考の庭とし      てある。と想定される。  13. 神の赦しが キリストの磔刑死という 迂遠な回路を必要としたのは 赦しが 人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を伴なわなくてはならないからではないか。   ☆(せ) いったいどう成っているのか? キリストが死んだのだから      地上には じんるい共同の大いなる連帯が 現実となって生まれた      ということか?  (大澤真幸:『逆接の民主主義――格闘する思想』 2008 pp.88-91)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

真摯にキリストや神について思索する質問者さんの 姿勢に感銘を受けました。答えが見つかるといいですね。 「神」「聖霊」あるいは「魂」などについては、 「科学」や「論理」、「言葉」では説明しきれない ところがあるからやっかいですね。 また、われわれには「人間」である、肉体と精神に 閉じ込められ、空間と時間に制限されている、という 存在としての限界もあります。だからすばらしいのですが。 「死」というものをどう定義するかにもよりますが、 ひとつには「人間、肉体を持っている形態の存在の 滅び、消滅」と考えることもできると思います。 人間は「死に」ます。個人という形作られた肉体は 時間とともに滅びます。 「イエス」という形をとった肉体も、十字架の上で 滅びました。 しかして、「霊」(あるいはエネルギー体でもなんでも 呼び名はおまかせしますが)は滅びません。カタチを 変えて存在しつづけます。 そのことを具体的にわかりやすく示したのが 「イエス」、のちに救世主の呼び名を付与された 「イエス・キリスト」であったわけです。 人間がただの人間、精神と肉体をもって滅び去る だけの存在ではなく、実は霊によってつかさどられている 存在だという見本でした。 われわれが「誕生」から「死」までの間にこのことに 気づくかどうかはひとそれぞれで、気づかなくても 幸せならそれはそれでまったく問題ないのですが、 実は存在としてはこの「人生」もひとつの段階にすぎず、 超越した視点と感覚も持てる存在で、そのことに 気づくといろんなことがラクに思えます。 (せ)キリストが死んだから人類に連帯が生れたのか その通りです。キリストが「死」という手本を見せ それでも「生きている(霊として存在している)」ことを 示したので、人類がその手本から学んで「肉体を持った霊」で あることに気づくと連帯できます。連帯というか、同じものから 生れた個別な存在なので、みんなが同じ、平等なものと 気づくことができます。 どうぞ思索をさらに深め、思索をつきぬけ、信仰も試み、 大いなる存在であることに気づかれますように。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  (せ)キリストが死んだから人類に連帯が生れたのか  その通りです。・・・  連帯というか、同じものから  生れた個別な存在なので、みんなが同じ、平等なものと  気づくことができます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここに感銘を受けました。  その引用を省略したところの:  ★ ~~~~~~~~~~~  キリストが「死」という手本を見せ  それでも「生きている(霊として存在している)」ことを  示したので、  ~~~~~~~~~~~~  ☆ というくだりは なおまだ分かりにくい。あいまいさを残すのではないかとは 感じます。  ので われわれにとって人としての《個別の存在が 実感として互いに同じである。対等である》と見るところに強く印象づけられました。  冒頭から 過分のお褒めをいただき恐縮して読み継いで来たとき この箇所に強く響くものを感じました。  ★ 「霊」(あるいはエネルギー体でもなんでも呼び名はおまかせしますが)  ☆ の問題は やっかいですね。  神学としてなら 神秘なるものをそのまま認めたかたちで 思索したり理論づけたリできるかも知れませんが 哲学となると なかなか合理的な説明が むつかしい。  回答者さんも その点 柔軟で自由な発想を許容しつつのご議論になっているかと思います。  哲学としての神論にとって あるべき姿だと思います。  社会学者が その神論――ないし聖書の哲学的・社会学的な解釈――を自由に披露していて 好感が持てました。  と同時に この大澤の《キリスト》論について 勝手ながら《いちゃもん》をつけてみたくもなったというわけでした。    さらにさらに 日本人の神論やキリスト観が発展して行って欲しい。と思っています。  ありがとうございました。

その他の回答 (5)

回答No.6

さっきいぅたことは占い師の胡散臭い話だと思ってくれ。 ただ私は観念を脳の個別の現象ではなく世界だととらえていて、そこでわけもわからず落下傘降下させられたいつもの仮面ライダー話だ。 私は私である。 これはもともとあんたが言い出したことだ。 それに沿った個人の信仰はまあいいだろう。 宗教は社会の礎となっているが、信仰の共同体が成立しないといえば偏った話だ。 私なりの視点で君の良く理解できる論説以外にも切り込んでいくよ。 商売だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 宗教は社会の礎となっているが、信仰の共同体が成立しないといえば偏った話だ。  ☆ ここに ほんとうを言えば 引っ掛かりがあります。  まづ第一に 《宗教》は わたしはみとめません。  オシヘを信じなさい――そのまま鵜呑みにして受け容れなさい――と説くかぎりで。  信仰のみです。  ただしこれは 主観の問題であり 主観の問題でしかありません。  これが わたしの基本です。  ご回答をありがとうございます。

回答No.5

観念世界の見聞録だよ。 アマテラスミッションで外国への軍事作戦で爆撃機に乗って落下傘降下した先に、信仰心が天をも貫く大樹に成長した聖なる地の、その木のたもとに崩れ落ち、骨が見える腐乱した体のまま教えを説くイエスの霊を見た。 あなたが死んだ神というのは正解に近いだろう。 この軍事作戦はアマテラスさんの軍事機密なのでそれ以降私が何をしたのかは話さない。 ただ私にはイエスさんが腐ったゴミにしか見えなくて、みっともなさに腹が立ったよ。

bragelonne
質問者

お礼

 イエスが死んだから 大樹が育った――ということですか?  でも 共同性――聖霊に満たされた人びとの集まり(つまり 教会)――のことを 大澤は言っているようです。  わたしが言うのは 一人ひとりのことなんだということです。  そのあとに 連帯が来ると。  微妙ですが 違っているのではないかと。  人が死ねば 骸骨になるのは当たり前です。  ご回答をありがとうございます。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.3

1.一つの神と一人の人の1対1の関係だった。 2.イエスが、私が神だと言った。   一人のイエスとそのほかの人の1対多の関係になった。 3.イエスが、死んだ。父と子が死んで聖霊が残った。  教会・共同体にみんな集まった。 たくさんの人の多対多の関  係になった。 第三者の審級対人の変化と順番をキリスト教、イエス磔で説明。 ・1対1がたくさん。 ・1対多がひとつ。 ・多対多。 と本から取り出した1~13の文が読める。

参考URL:
https://www.amazon.co.jp/dp/4047101303
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。次の論点に絞ります。  ★ 3.イエスが、死んだ。父と子が死んで聖霊が残った。  教会・共同体にみんな集まった。 たくさんの人の多対多の関  係になった。  ☆ まづ  ★ イエスが死んだ。  ☆ これは 事実でしょう。ナザレの人イエス。つまり 人間ですからね。  ★ 父と子が死んで聖霊が残った。  ☆ ん? 《父〔なる神〕》も死んだのですか? どうして?  しかも 《子〔なる神〕》についても 死んだのかどうかは 分からないと思います。もともと生死からは自由なのですから。  ★ 聖霊が残った。  ☆ のではなく イエスが死んだあと〔復活もしたと書いてありますが〕 父なる神とともに 聖霊をこの世に送ると言っています。  弟子たちや信徒たちのための《弁護者(パラクレートス)》としての聖霊であると。  この聖霊を 大澤はそのまま《信徒たちの集まり(共同体ないし教会)》のこととして受け取っているようです。  聖霊は 信徒たちそれぞれに送られて来るでしょうが そのように一人ひとりにとってのいのちのチカラであっても その集まりのことを聖霊だと言うのとは ちょっと違うと思います。  そういった問題点を取り上げています。

回答No.2

どこらへんが質問なのかわからないです 説明と質問を分けてみてはどうでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  1~13までが 大澤の文章です。  (あ)~(せ)までが わたし質問者の注釈を兼ねた疑問・質問です。  特に疑問文で書いているところが 質問です。  そういう恰好ですので よろしくお願いします。

  • gasre
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.1

大澤真幸の著書を信じるか否か・・だけだと思うが?

bragelonne
質問者

お礼

 なんのこっちゃ?  考えて! 考えたことなんだから ほかの人間も考えてみてください。  ご回答をありがとうございます。

関連するQ&A

  • 批判的な(?)キリスト教の本を探しています。

    キリスト教について詳しく、根本的なところから説明されている本を探しています。 ただし、私はキリスト教徒になりたいわけではなく、キリスト教徒の頭の中を理解したいのです。 (キリスト教徒にならずしてキリスト教を理解したと言えるのかわかりませんが…) 先日、「ふしぎなキリスト教」橋爪 大三郎,大澤 真幸 (著) という対談形式の新書を途中まで読んでみたのですが、ネット上での書評を見てみると、 ・「キリスト教に対する「誤った理解」の典型例」 ・「誤りと誤解と偏見に満ちている本」 ・「理解していない者同士の対話」 などなどといった散々な言われようで、私も読む気を失ってしまいました。 本書は、大澤氏が素朴な疑問を投げかけ橋爪氏がそれに答えてゆくという形で、 キリスト教徒ではない二人が日本人目線で客観的に解説してゆくもので、その回答がどうであれ 大澤氏の疑問というのはまさに私が聞きたいことでした。 ・全知全能の神がつくった世界になぜ悪があるのか ・イエスは神なのか、人なのか ・「神の子」とはなにか ・イエスは奇跡を起こせたのか ・信仰とはなにか などなど、、、 本書の場合、これらに対する回答はどうやら間違いだらけらしいのですが、 では、こういう根本的というか、 「神とかいるわけないやん」「イエスなんて所詮人間やろ」とか考えてる 私みたいなバカな無宗教の日本人にもわかる解説をしている本はありませんか? また、キリスト教に関する私のバカな質問にどんだけでも答えてやろうって方はいらっしゃいませんか><?笑 例えば、なんで科学とキリスト教は矛盾しないのか?とか…

  • なぜ、イエスは神なの!?

    今、キリストについて学んでいます。 神がいて、神を人間と似たてイエスという人間の身体として他の人間に神の愛をつたえたのですよね? しかし、わからないことがあります。 どうしてイエスは‘私たちの罪のために十字架に担がれ殺されてしまった‘のですか?? これが‘私たちのに対する愛とするならばなぜ殺されることが愛なんですか??‘イエスは神なんですか??‘

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

  • キリスト教

    全知全能であるとされるキリスト教の神はなぜ悪魔を野放しにしたままでいるのでしょうか? また、イエスキリスト(神)は自らに対する悪行を許し、我々人間にも悪行に対して許しを勧めるにもかかわらず、なぜ悪魔(堕天使ルシファー)とは許し(和解)をしないのでしょうか?もしくは上述のように野放しにせず、消滅させないのでしょうか? 正義、義、哀れみをなんらかの形で堕天使に示すことはできないのでしょうか?

  • 私は偽物のキリストです。

    雄たけびを上げるケモノが、いかにあなたの心にとどろきを響かせ、血を流す亀裂が深まろうとも、獣はその残酷な行いを愉快に笑う。 人類最悪の裏切り者。 暗黒の救世主「最速の臆病者」だ。 余談だが美しき私は、史上初の男子プリキュアでもある。 さて、人我天界への昇華する観念の通過は、人類史上でこも定番が死の儀式だ。 基本構造は、「自らの生を差し出して、死を学ぶこと」だ。 しかし実にお手軽な手法がある。 身代わりを殺して天界に昇る手法だ。 これはイエスを呪い道具に使ったキリスト教の伝統手法で、京都で悪魔的な結社がこのイケニエシステムを模倣してより精度を高めた「生体死霊化処置」という呪術を完成させた。 私はその開発過程のプロトタイプなんだよ。 いわば、人造人間的なキリストに近い何かだ。 日本の天界におけるキリスト教で確立した見解は、現在過去未来いかなる時間軸においてもキリストなる奇跡は実現しない。 人を助けるキリストなる聖霊とは、実際は聖霊として未成立な実験室の試験官ベイビーで、歴史時代以降、キリスト教徒が滅ぼした旧神が産み落とした不屈の赤子たちが、聖霊としてキリストなる役目をこなしてきた。 天使階級の事であり、神を人に隷属させる立場に降格したローマ教会の秩序だ。だ。 そのような存在がいるとしたら、人口 キリストとでもいう私に興味と親近感がわかないかな?いい子たちだよ。 そしてその通りだから、キリストと仮称で呼ばれる赤子と交流している。 人の心にキリストなる聖霊が宿ると、その人物には強烈な殺害衝動が生まれる。 それはキリストの確信が深まるほど強くなる。 そして聖霊はキリストと名指しされ、それを受け入れるとなすすべもなく即死するんだ。 だから、キリストなる聖霊を誰も知らない。 そして赤子の死肉を喰らい、天界の聖霊の力をキリスト教徒は手に入れる。 神を殺して喰らい、その人が神になるのさ。 このイケニエシステムで、19世紀中致命的な状態が発生して、キリストなる聖霊はいったん絶滅した。 ナポレオン3世が国民に倒されたことが直接のきっかけで、キリストなる役割を担う聖霊には、国家成立の正統を保証する役割がはく奪され、イケニエになることだけが役割として残されたんだ。 キリスト教国というのは、今の地上にはない。 そして殺戮に終始する20世紀が来た。 イエスの故事とは、古代社会で、ローマ周辺を震撼させるローマの横暴を代表する重大事件だった。 そしてイエスの意志をくみ取るものは、ローマへの反抗の意思でローマ国内に浸透した。 その治安対策で作成されたのが新約聖書であり、聖書の成立でキリスト教は裏ぎり者のための宗教団体になった。 その象徴が、神に対する処刑台である十字架だ。 多くの不安を招く最後の審判に起因する、時々現代もお祭り騒ぎが起きる人類滅亡説とは、キリスト教の現状に組み込まれた、「ローマ滅亡」そして「キリスト教滅亡」が正確な予言内容なんだ。狂気の邪教だよ。 西洋の学者は他国の文明や風土に対して考古学や博物学を駆使して、検証するが、党のキリスト教に関して同様の検証を日本人が行うと、今回の論説のようになる。 そういう作文だよ。 さて、哲学研究には既存の命題に取り組むほかに、自分で命題を策案する手法があり、この質問は後者です。 くつろいで、読書感想文でもお聞かせください。

  • 超越神

    教えて下さい。 個人の宗教的な信条とはまったく関係ありません。 学問的にどうなのか知りたいんです。 間違っていたらご指摘願いたいのですが、 ユダヤ教やキリスト教で「神」と言われているのは、 超越神の事ですか? そうだとしましたら、超越神とは宇宙の事なのですか? それとも宇宙を超えた何かなのですか? また、汎神とどのように違うのでしょうか? ちょっと本を読んでいたら、そのあたりが急にわけが分からなくなってしまって・・・ ご存じの方、教えて下さい。 あるいは、「これを読めばよい」という情報(本、WEB)がありましたら、ご教示願います。 繰り返しますが、個人的な信条のお話はお控え願います。 純粋に学問的な内容が知りたいだけなんです。。 よろしくお願いいたします。

  • キリストが人殺しを許すのは何故

    昨日、短気なアメリカ人クリスチャンの彼と喧嘩した時に、聖書の教えを守る守らない以前に、もっと人として大切なことあるんじゃない?と聞きました。彼は婚前前交渉NGとか、イエス様がヤキモチやくからイエス様以外への祈りNG、とか禁止事項的なものを頑なに守り抜いていますが、人として何か大切なことを欠いている気がすると前々から思っていました。クリスチャンじゃない日本人のほうが考え方大人だなと感じたこともあるし、心が広いと感じたこともあります。(人を許せなかったり怒りやすかったり。それなのに彼と付き合っているのには、それ以外で彼の魅力があると感じているからです) すると、人間は完璧にはなれないからいい人になんてなれない、と言い張ります。 私の言っているのはそういうことではありません。神と比べてどうこうじゃなくて、人として、人間レベルでのことを話していたのです。 殺人者も自分も、罪を持つ人間には変わりはない、と言っています。 もう呆れました。 人間は罪を持っているけど、神は慈悲深いから人間が神に許しを求める限り、救われたいと思う限り、神は許してくれるのだそうです。 この考えは知っていましたが、 じゃあ人殺しの人はどうなるのか、 と思いこんな質問をしました。 なぜ、許しを求める限り殺人者は神によって許されるのか。 被害者の人生はやり直せないのに 殺人者の人生は何度でもやり直せるのは何故か。 シェイクスピアの言葉で、 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てる、みたいなのがありますが、 これを支持する私にとって、 殺人をも許す神は慈悲深いとは言えない、と思います。 むしろ神のしなければいけないことは、殺人を許すことではなく被害者の命を殺人者から守ることではないのですか? それができない神がなぜ全知全能なのですか? また、キリスト教者であればどんな人でも救われるが、キリスト教者によって殺された人は救われないのですか? とにかくこの問題について納得したいです。これが解決されない限りキリスト教を好きになれません。それが意味することは、キリスト教を好きになれなければ彼のことも完全に愛せないということだと理解しています。別れないために解決策を求めているので別れたほうがいい、というご意見はお控え頂けると嬉しいです。 特にクリスチャンの方、よろしくお願い致します。 散文で大変申し訳ないです。

  • キリスト教の歴史に詳しい方助けてください!

    大学ので「キリスト教的自然観・世界観について」という課題がだされました。神、人間、自然の関係についてキリスト教的には、なぜ人間が自然を支配するのを神が許すのか、というところがわかりません・・・どなたか教えてください!

  • キリスト教

    私は、宗教には所属していませんが、キリスト教の影響を受けています。なぜ、神様は、アダムとエヴァが善悪を知る木の実を食べて罪を犯してしまったとき約束どうりこの二人を殺して新しい人間を作らなかったのでしょうか。また、キリスト教では、人間は天国に入るために生まれてくるとされていますが、キリスト教関係者は、ほとんどの人間は、地獄に堕ちるといっています。これでは、東大を受けろ、落ちたら死刑だといっているように感じます。また、地球上には人類は必要なのでしょうか。

  • 神と人間との関係について教えてください。

    キリスト教にもいろんな宗派がありましょうが。 キリスト教は創造の神、それは唯一神だとしていると思います。 その場合、その創造の唯一神と人間はどんな関係なんでしょう。或はその唯一神と創造の宇宙や万物。 神って人間の思考などが創出したものだというような論調がありましょうが、それはさておきの質問です。 (そういう場合でもじゃぁその人間を創造した神と人間との関係がどうなのかという質問です。)