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音楽を楽しんではいけないっていわれましたがどうしてでしょうか?

プロテスタントの神学校の先生が神を賛美することは音楽を楽しんではいけません。音楽を楽しもうとすることは、ギリシア哲学から出ていることだから。と言っていました。なにを言わんとしているのか知りたいのですが、どなたか教えてください。

みんなの回答

noname#93639
noname#93639
回答No.6

神学校だからでしょう。 修道院に入ると、音楽は神を讃える目的でしか歌われません。 キリスト教の聖職者は、神を讃える目的以外で音楽をやってはいけないのです。そして、神学校は基本的には聖職者になる人が行くところですから、神学校の中では音楽は神を讃えるためだけにある、ということになります。 聖職者にならない、単にキリスト教の信者である人は、もちろん、音楽を楽しんでいいのです。 ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」では、修道女志願のマリアが音楽を楽しんで歌ってしまうので、修道女たちから、彼女は聖職者に向かないと判断され、修道院を出て、トラップ大佐の家の家庭教師になります。

zaikun
質問者

お礼

なるほど、そういうこともあったのですね。神学校の先生は賛美のために献身している人たちに向かって言ったとも確かにいえるのです。

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.5

> 神を賛美することは音楽を楽しんではいけません は、ちょっと意味が通じません。「神を賛美すること以外の目的で音楽を奏で、鑑賞してはいけない」という意味でしょうか。 神に仕える身としては、そういうストイックな考え方もあると思います。それはそれで、一つの生き方でしょう。私は、神から与えられた楽しみは、すなおに受けるべきだと思います。禁欲主義が行きすぎると、砂糖を入れたお菓子もいけない、ということになります。砂糖は、生きるために絶対必要なものでなく、快楽を得ることだけを目的としたものだからです。

zaikun
質問者

お礼

確かに。ありがとうございます。ストイックがよい事のように考えやすいということですね。

noname#126895
noname#126895
回答No.4

今現在のプロテスタントの方の考え方はわからないのですが。 中世ヨーロッパでは、聖歌を「歌詞」と「音楽そのもの」に分けて考え、歌詞に感動するのはOKだけど音楽を楽しむのは許されない、と考えていたようです。 この時代、芸術などは宗教に隷属する学問で、教会で高らかにうたわれる聖歌のみが公に認められた音楽でした。 聖歌は聖書の言葉をきくためにあるので、歌の文句ではなく音楽に感動することは罪だと教えられていたみたいです。 この時代宗教的に意味のない快楽は罪ですからね。 ですけどもちろん、それは宗教界、学問の高い人々の世界であって、一般民衆は民謡や吟遊詩人のうたう娯楽的なうたを普通に楽しんでいました。 で、グレゴリウス1世は「音楽は信仰の弱い人にキリスト教を広めるのに役立つからOK」と公言して、クラシックが発展することになります。バッハなどが活躍するのはそのあとです。 でもどんなに公認されようが、教会の基本的な考え方は「音楽は宗教の為にある」です。 たいして、ギリシャ哲学というのはキリスト教より何百年か前に発生しています。ギリシャ哲学で大切なことは「世の中のしくみを知ること」で、音楽は主要な学問のひとつでした。音楽の中に世の真理が見えるという考えです。 ギリシャ哲学は一回世の中から忘れられてしまうのですが、中世後期の学者たちが、残された文書を翻訳してブームを起こしました。教会とも対立したんじゃないかと想像できますね。 こんな感じで回答になるでしょうか?

zaikun
質問者

お礼

ありがとうございます。歴史的にご教授いただいて、よくわかりました。

noname#111031
noname#111031
回答No.3

一番良いのは、その発言者に方に質問することです。J.S. BachはLuther教会の非常に厳格な信者であり、教会の礼拝のために無数の曲を作曲しておりますね。その一方、かなり娯楽的な曲も数作っております。そのあたりのことを、その方は如何説明されるのでしょうか。 音楽は 楽しための音楽が 始まりであり、後はそれを利用したものと思います。 諮問への答えにはなっておりませんが、失礼致します。

zaikun
質問者

お礼

ありがとうございます。実はその先生は亡くなられたのです。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.2

快楽を悪とする立場ですね。 「神を賛美するときに音楽を楽しんではいけない」というのは、考えてみれば当り前のことではないでしょうか。 「音楽を楽しむ」ということは、音楽を奏しあるいは聞く己れに快感を覚えている。 地上的な次元にとらわれている。 音楽は手段であって目的ではない、という考え方なのでしょう。 「神に対する賛美」という趣旨から離れてはいけない、ということなのではないでしょうか。 お祈りする時に、祈りの内容ではなくて、その祈りを唱える自分の声にうっとりするために祈りの文句を唱えるのでは、本末転倒であるのと似ているといえるかもしれません。 ギリシャ哲学云々というのは、ギリシャ哲学 → エピキュリアン → 快楽主義 → 快楽中心の姿勢 などというつながりを作って、それを意識しての発言かも (まぁ、そもそもギリシャ文明は、禁欲的なキリスト教と比べたら、まるで解放的な感じでしょう。ニーチェのキリスト教批判を思い起こさせますね)。

zaikun
質問者

お礼

ありがとうございました。参考にして再考してみます。

回答No.1

プロテスタントの立場からみれば音楽は楽しむものでなく、神様ほめたたえるためのもだという、考えなんでしょうか? ギリシア哲学の立場から見ればセラヴィで、人生謳歌!だから音楽も存分に楽しもう言っているのに対して。 とおもいます。 どの主観をとるかは個人の自由だと思うので、神学校の先生が言ったからといって安易に倣わなくてもいいと思います。

zaikun
質問者

お礼

ありがとうございます。参考になりました。

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