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認識論と看護の関係

ghostbusterの回答

回答No.2

「素朴実在論」というのは、簡単に言ってしまえば、見えるものはそこにあり、聞こえるものはそこにある、という考え方です。 わたしたちの多くは、現実に、実在論的に生活しています。誰かが立ち止まって空を見上げている。多くの人は、立ち止まらないまでも、何かあるんだろうか、と、その人が見ている方向を見た経験は一度や二度、あると思います。 外で何かの物音がする。あれ、どうしたんだろう、と外の様子を見たり。 ガス臭ければ、元栓を確かめたり。 ただ、そうではない可能性もあるわけです。 見上げている人は、かならずしも空に珍しいものが見えているから見上げているわけではありません。その人がなぜ見上げているかは、実におびただしい可能性があります。 素朴実在論に立つ人は、その可能性のなかから「何かが見える」以外の可能性を認めようとしません。 何かの物音がした場合にしても、「その音を立てる何ものかが外にいる」以外の可能性を認めない。だから、極端な言い方をすれば、音がする原因を探し出すまで、探すことをやめようとしない。 わたしたちの多くは、素朴実在論的な傾向を持ちながら、同時に別の考え方もしています。 なんでそうなっているか「よくわからない」こと、というのは、日常生活では意外と多いものです。とりあえず、結論を出すことを保留にして、しばらく様子を見てみる。それで、別段問題がなければ、まあいいか、ということで、忘れてしまう。 あるいは、個別具体的な事例を離れて、人間ってそういうものだよね(何かこの言い方はかなりインチキ臭いな)、とか、歳を取ってくると、そういうこと、あるよね、みたいな、一般的、抽象的な考え方に流し込んで、なんとなく納得する。 ここらへんのことで、何かヒントが見つかりませんか?

juyte
質問者

お礼

詳しい説明をしていただき、ありがとうございました。 身近な具体例を出して説明していただけたのでとても分かりやすかったです。 まだ、なんとなくですが素朴実在論がつかめてきたような気がします。

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