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政治学 存在論と認識論

政治学 存在論と認識論 大学の政治学入門の授業で分からない事があるので助けてください。 存在論と認識論に関する英語の資料を宿題に出され、一応読んでみたものの いろんな情報がごっちゃになってしまって上手く頭の中でまとまりません。 資料の中で出てきた主な用語は 存在論、認識論、基礎付け主義、反基礎付け主義、 実証主義者、現実主義者、Interpretism(日本語不明) で、今まで分かった事は 存在論は基礎付け主義者と繋がり、認識論は反基礎付け主義者と繋がる。 基礎付け主義者は客観的で、反基礎付け主義者は主観的。 という事だけです。授業始ったばっかりなのにもう既に分からない事 だらけで不安です。どなたか分かる方、それぞれの用語の解説も含め それぞれの関係性を教えていただけないでしょうか。 何卒よろしくお願いいたします。

みんなの回答

noname#131234
noname#131234
回答No.4

政治学の授業を大学で受けたこともない方たちが回答なさっておられるようで残念ながら、こんがらがるばかりのようです。入門の際大事なことはテーマを絞ることです。ひとつの単語に絞って調べ、自分で文章としてまとめてみること。特に政治は、コンパクトな兵庫にまとめることが出来る科目ですから、広げすぎないようにまとめてください。 政治学は、哲学ではありません。社会もしくは・学問=法学のカテゴリーで質問なさると普通の回答が帰ってくるはずです。 哲学では、文学畑の人が多いようではなしがどんどん広がるだけで質問者様の利益にならないでしょう。 日本の政治学には大きく二つの流れがあります。 1官僚的政治学=いわゆる「国家学」的政治学 ドイツ国家学の系譜 2戦後民政的政治学  2について 細かくは フランス政治学・イギリス政治学・ドイツ文化政治学・アメリカ機能主義政治学 です。 政治学において、「存在論と認識論」というテーマは、基礎中の基礎。政治原論でいえば、第一章を形作る「政治学的方法論」の歴史的検証です。政治の動静・政治的行為の把握という事のために「方法論」だけに焦点を当てることが必要です。 さらに 政治思想史という文脈では語らないほうがシンプルに成ります。 あえて政治思想史を付加するのであれば、あらゆる政治思想が、グループへの帰属性という観点から、二重の意味で主観的・利害的制約を受け「ある種の歪」を伴うということ。歴史的に「市民革命」「産業革命」「IT革命」というイベントについて、その影響下にあるということを抑えておくということだけでしょうか。 存在論・認識論がテーマとして出てくるのは、ギリシャ政治学(Politeia および Politika)の問題提起が元です。 古典的存在論は、形而上学的政治様式そのものです。 古典期・中世・前近代(デカルトも含む)は、キリステ狂的形而上学を前提としており、この立場が普通基礎付け主義と呼ばれます。(俺様の権力は、神が与えたもうた!聖書最高!っの立場) 政治学的手法としての認識論にもどると、 形而上学的存在論とそれ以降(歴史的にはキリスト教的王権国家と市民革命後の国家)が政治学の流れ・変遷に大きく寄与しています。 認識論上の 基礎付け論(デカルト的認識手法)と非基礎付け論(カント的対置の二元論:個人の内部の思念・信念vs政治的現実)の対立は、世界的産業革命(19 世紀)以後の主体的(国民的)政治決定の大きな部分を形成しました。 実証主義者= 科学的・分析的にに政治を検証していこうという政治学の一派。 現在アメリカで主流 政治的行動を統計学的に把握しようとする学派。政治参加と政治主体の積極的政治関与を重視する政治学的立場。起源はフランスとされるが、現状では、政治的機能主義と深く結びついている。 現実主義者= 利益・権益・権力機会・物理的心理的暴力を政治的に最大限に利用していこうとする立場・単なる政治的Utiliarism です。積極的マキャベリズムといてもよいでしょう。 Interpretivismは、政治文化論です。「政治および権力は、文化的文脈で展開するため部外者には、合理的には、理解不能である。」というたちば。日本特殊論もころに入るでしょう。叙述による事後的トレース・正当な承認を行うべきでありそれ以外はするべきではないという立場。理解への手助けは、象徴・信義・文脈・文面の文化的解釈であり、叙述の際、価値的判断を除外するべきであるという立場でもあります。(アメリカ・ドイツ・日本で一部流行 人類学・民俗学って最高!というおろかな考え) 細かいつか質問等ございましたら、補足で、追質問お願いいたします。

回答No.3

(承前) このように「基礎づけ」という考え方自体を批判したり放棄したり、また驚くべきやり方で残そうとする人まで出てくるのですが、これにもさまざまな立場があります。 何か、話が細かくなりそうなので、この話はここまで。 つぎ、実証主義について。 実証主義を代表する哲学者で、さらに社会学の創始者としても知られるのがオーギュスト・コントです。この人は「予見するために観察する。予知するために予見する」と言った、とたいていの本に書いてあるんですが、つまり、それくらいこの言葉は「実証主義の精神」をよく表す言葉だということです。 「観察」という言葉からもあきらかなように、実証主義は、自然科学の方法を適用しようとするものです。自然科学では、物体の複雑な運動も、質点の運動に還元し、それを複合化したものとすれば、数式で表現することが可能です。 それと同様に、人間の心理や社会、歴史、政治や経済など、あらゆる事象の研究が、自然科学の方法を応用することによって、厳密な学問、科学として自立していける、という考え方が、19世紀ごろから出てきます。こうした流れはやがて「実証主義」と呼ばれるようになります。 とりわけ、政治学の分野では、哲学から枝分かれしたのが19世紀後半、実証科学としてスタートします。したがって、政治学というと、まず実証主義で、その上でさまざまな学派に分かれています。ただし、いずれも政治現象を構成する諸要因を明確化し、そこに存在する法則性を発見することによって、政治を合理的に理解しようとする態度が共通しています。 ところが19世紀も終わり頃になると、この実証主義に反対する動きが出てくるのです。 この反実証主義というのは、個別の学問の内部で起こってくる。だから、「実証主義の反対」というのも、その分野で呼び方がちがってくる。批判のやり方も単一ではありません。Interpretivism もそのひとつです。 Interpretismというより、Interpretivismという表記の方が一般的だと思います。interpret は「解釈する」という動詞、哲学で解釈学というと、hermeneutics なんですが、実はこれはいろんな歴史がくっついている言葉で、社会学や法学はそれを嫌って Interpretivism を使います。ウェーバーの理解社会学なんかもこれに当たって、通常は解釈主義という訳語を当てられることが多いのではないかな。結構いろんな呼ばれ方をしています。 上で認識論をざっと説明しましたが、政治学における認識論というのも、さまざまなアプローチがあるんです。 実証主義的方法では、上にも少し書きましたが、分析の対象となる世界と、分析者を厳密に区別した上で、分析の対象となる世界の法則性、規則性を見出そうとします。 そうした実証主義に反対する理論もいろいろあるわけです。ただ、共通するのは「分析の対象となる世界と、分析者を厳密に区別」することはできない、自然科学の研究方法をそのまま社会の研究に持ち込むのは適切でない、という考え方をすることです。 その中で解釈主義的アプローチの特色は、「行為の意味」を考察するという点です。国家や、あるいは封建制というのも、人間の行為が具象化したものであると考える。その行為の意味というのは、直接的な観察や数量化によって得られるものではなく、人びとの行為を「読む」こと、解釈することによってしか得られない。だからInterpretivism. ここらへんを頭に入れておけば、何とかテキストを読み進むことはできるのではないかと思って書きました。ところどころ、あまり正確ではない記述も含まれていると思うんですが、まあ、少しは参考になるんじゃないでしょうか。 あと、基本的な政治思想史は頭に入れておかなきゃなりません。がわたしのときは「『概説西洋政治思想史』中谷猛/足立幸男編著 ミネルヴァ書房」に世話になった。 以上、参考まで。

回答No.2

> 存在論は基礎付け主義者と繋がり、認識論は反基礎付け主義者と繋がる。 これはペケ。基礎づけは認識論の方法です。 > 基礎付け主義者は客観的で、反基礎付け主義者は主観的。 うーん、そもそも「客観的」「主観的」という言い方はあまり正確ではありません。ただ、まあ、これだったら当たらずとも遠からず、ということになるのかな。 あまり単純に二項対立させて考えないことです。「あれかこれか」という分類で無理矢理「わかろう」としている限り、絶対に先へ進めません。わからない状態というのは、いまの質問者さんの理解の枠組みでは、把握できないということです。わからないものをわからないまま、しっかり握って離さないで勉強を続けること。そうやって、自分が立っている理解の枠組みを絶えず広げていくこと。そうして、光が射してくるのを待つことです。大丈夫、そのうちおぼろな光が射してくる(笑)。あきらめなかった人は、みんなそうやってきたのですから。 さて、ここから回答。 存在論や認識論を哲学史の流れに置いて説明しようとすると、かなり大変なので、これはおいおい政治思想史を勉強していくときにちゃんと勉強してもらうことにして、ここではごくごくかいつまんで説明します。 存在論というのは、簡単に言ってしまえば、ものごとの本質、真のありかたを考察する学問です。わたしたちが「何かがある」と言うとき、わたしたちの目に触れるものは、「そのもの」の姿としては現れません。 たとえば、木の葉が一枚落ちてくる。わたしたちはそれを「葉っぱ」と呼んでいますが、木に茂っているのも葉っぱですし、紅葉しているのも葉っぱ、落ちたのも葉っぱだし、芽吹いたばかりの春先のそれも葉っぱです。つまり、わたしたちが「何かがある」というときの「何か」は、かならずある種の「状態」にあるもの。言葉を換えると時間の流れの影響を受けたものです。 わたしたちが目にする「何か」はかならず時間の影響を受けていて、時間の影響を受けていない「葉っぱそのもの」を目にすることはできない。 だから、「葉っぱそのもの」を知ろうとするなら、わたしたちが直接見たり聞いたりふれたりできないものの本質について考察しなければなりません。 わたしたちが知覚できないものの真のありようを問題にするのが存在論(形而上学とも)です。 さて、これを政治思想上の文脈で使うときの「存在論」は、ちょっと使い方がちがってきます。たとえば「南北問題」を考えようとするとき、「南北」という機軸が果たして存在するのか、あるいは「南側諸国」というものが存在するのか、そうしたことを問題にするのが「存在論」です。 ある問題を取り上げる。 その分析の出発点として、「どのようなものが存在すると前提されるのか」(※ここ、アンダーライン)を問題にしていく。そういうときに「存在論」という言葉が使われるのです。 つぎの認識論というのは、存在論と並ぶ哲学の大きな柱です。 存在論が、いきおい目には見えない、知覚することもできないものごとを相手にするのに対し、人間の知識の範囲や限界を見定め、その範囲のなかで知識の基礎づけを目指していこうとする考え方です。 この「基礎づけ」というのは、ある主張の正しさを、その前提となる事実と論理によって証明しようとするやり方です。そう、わたしたちが普通に「論証」と言っているやつ、それが「基礎づけ」なんですね。 Aが正しいことを証明しようとする。それには、正しいBということがらがあって、BであればAだから、Aが正しい、といえる。 でも、ここで問題が起こってきます。 では、そのBの正しさを証明するためにはどうしたら良いのか。Bの正しさを証明できるようなことがらCが必要になってくる。このように、基礎づけというのは「それを正しいと証明できる前提」を求めて無限に後退してしまうことになってしまいます。 近代認識論の祖と言われるデカルトは、この「基礎づけ」の一番根っこのところに神を置きます。神様が保証してくれるから大丈夫(ちょっとちがうけど)、と言った。まあ、デカルトは十七世紀の人ですから、それでも通ったのですが、ともかく、基礎づけ主義は、あらゆる推論の正しさを保証する、大前提が必要となってきます。その大前提というのは、いったいどうやって得られるのか。認識論は、その「基礎づけ」の一番根っこをめぐっていろいろ考えられてきたといっていい。 けれども、やがてこの「基礎づけ」そのものに対する批判が生まれてきます。 「基礎づけ」というのは、どこかで判断停止をして、正しい、と言い切ってしまっているのではないか。さもなければ、この基礎づけ主義は、循環論法を使うか、無限後退に陥らざるをえない。 (つぎへ続く)

回答No.1

 こんにちは。  傍系の議論をしてみます。参考になりますかどうか。  《そもそも 分かるとは何か》という質問への回答だったものです。  分かるとは 妥当性があるとこころで同意することです。  妥当性があるというのは 経験合理性に照らし合わせて間違いがないと捉えることです。  経験合理性という基準に間違いはないのかと言えば それは おのおのの主観がその認識や判断において共通であるかどうかで決まります。  一般に 人間の自然本性――記憶・知解そして意志の三つの行為能力――に共通性があると 無根拠において 捉えられています。  無根拠とは 《自由》がその例であるように そうであるからそうであるといういわゆる公理を言います。経験的なものごととしては 《良心》を例に出すかたちになります。  それでは じんるいの中でもその一部では主観が共通ではないという場合には どうするか?  その状態で 《分かる》ようになるまで ねばりづよく探究しつつ ときを待ちます。  あるいは言いかえると 《分かる》つまり《分けられる》というのですから 《〔妥当性があると〕知っていること》と《知らないこと》とをきちんと分けて認識することがその内容です。  知ればそのぶん知らないことが減るのかどうか これは よく分かりません。けれども 主観を共同化した場合には もはやその妥当性をめぐって――見落としていたと気づく重大な間違いが現われるのでない限り――争うことはないことになっています。  もし問題があるとすれば 次のような場合です。    ○ 《一部の主観が共通ではないという場合》ですがこれは ひとによっては 自分から発信はするが ひとからの受信はこばむという鎖国政策において《共通ではない》ことが起こります。これは 悪しき独我論のことです。  ☆ これは 説得をするのですが こたえないという場合です。気長にみなで知恵と力を寄せあってこの事態に応えていくことになります。けれども 一人や二人の説得ではどうにもならない場合が起こります。 具体的には いわゆる中華思想です。面子やプライドの問題でもあります。  けれども 《良心》はおおむね普遍的です。というのも おのれの心に逆らうというときひとは 顔をあからめ 心に動揺を来たします。そうでない場合にも 厚顔・鉄面皮ということばを持っていて もともと良心がその心にはたらいているという共通性を裏書きしているようです。  《基礎づけする・しない》は このようなむしろ生理的な――その意味で 身体=精神的な――裏づけを出発点とする手もあると考えます。  あと 《自然本性》が 存在論にかかわっているでしょうか。  主観・客観は いわゆる客観というのも 《わたし》の主観においてそう言っているという基礎に立っています。  政治学までは届いていませんが。

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