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認識論と看護の関係

『素朴実在論者あるいは抽象的に認識することが全くできない人が看護を行う場合、どのようなミスを犯す可能性があると思いますか?』 どなたかわかる方がいましたら教えてください、お願いします。

  • juyte
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回答No.5

出題の背景によって複数の答えがあります。(最初の前提条件から三通りありますが、二通りのみ記述しておきます) === 1.出題者が「素朴実在論」という用語の取り違えをしている場合 --- >>> 素朴実在論者あるいは抽象的に認識することが全くできない人 <<< この、「あるいは抽象的に認識することが全くできない人」を「素朴実在論者」を言い換えたものとみなすなら、(出題者側の)素朴実在論者という用語についての認識がずれている可能性があります。 >>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96 実在論(じつざいろん、Realism)とは、名辞・言葉に対応するものが、それ自体として実在しているという立場。対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。 (中略) 素朴実在論 認識や観念に対応する客観的なもの、外界が実在するという、一般的に人間が生活する上で前提している立場。 <<< すなわち、素朴実在論者とは、「一般的な人間の認識」と考えて差し支えない立場であり、素朴実在論者の場合でも、「抽象的な概念や観念」を抱くことはでき、かつ認識することは出来るわけです。 この場合、出題者の意図を汲んで、「素朴実在論者」という単語を無視する必要が出てきますが、もし、そうであるならば、 >>> 抽象的に認識することが全くできない人が看護を行う場合 <<< の「人」は「看護師の免許を持っている人」ではあり得ません。看護師の免許を取得できる人ならば、少なくとも機器を取り扱う上で、理数系の問題を解くことができなければならず、理数系の問題を扱う上で、抽象的な認識(概念形成)は、必要不可欠だからです。 万一、そういった素質に欠ける人が免許を取得することができた、ないし、免許取得後、そういった素質に欠陥が生じた場合、機器のデータを読み取って解釈したり、検査結果から患者の容態を把握することが困難になるでしょうから、さまざまな場面で支障を来すことは明らかです。 === 2.「あるいは」を「または」と読む場合、そうして、看護師ではなく、一般家庭での看護を含めた概念での出題の場合。 --- 2-1.「素朴実在論者」が観念実在論者を看護しなければならない場合、相手の言っていることが理解できない、ないし受け入れることが出来ないといったコミュニケーション上の障害を来す可能性が考えられます。このような場合には、「そういった考え方もあるよね」とか「両方の立場ともあり」といった包括的な態度で接することができなければ、看護する上で支障を来すことになるでしょう。 たとえば、「普遍論争」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89 などで、相手を受け入れることが出来ないような場合になります。 もっと言えば、「普遍論争をしている哲学者2名」が入院してきた場合に対応困難になるかもしれません。(適当にあしらっておけば良いのですが、「片方のみ真」といった立場を看護師が取るならば、一方の側に対する看護上の支障を来す可能性があり得ます) 2-2.「抽象的に認識することが全くできない人」の場合、1で述べたような問題を抱えることになるでしょう。

juyte
質問者

お礼

回答していただき、ありがとうございました。 出題の背景によって色々な考え方があるんですね。 出題の背景まで読み取れていなかったので、詳しい説明をしていただけてとても参考になりました。

その他の回答 (5)

noname#131234
noname#131234
回答No.6

ア) 発問の意図としては、 同じ色・大きさ・形状の装置・医薬品を「慣れ」で無思慮に使ってしまう、ということを答えさせたいのだと思います。残念ながら、素朴存在論とは、直接関係ありませんが … イ) 酸素と窒素ボンベの取り違い。構成物質の濃度の違う点滴のうち間違いなど。 ウ)あと考えられるのは、「この薬が投与されるということは、この患者さんもう危ないわね」とか、医者でもないのに診断するというような誤謬も之に含まれるかもしれません。 エ_)なぜこのような設問にいたったのかということの経緯を想定いたしますと… 設問を考えた人が、残念ながら哲学の門外(痴)漢だからです。 例) 国語の先生が、「私は哲学者です。」と思い込んで、「哲学は、経験科学です。」と主張しても、誰も文句は言いません。で、「ギリギリ本当の気持ちとは何か、哲学的に回答せよ」と「現国の試験」に設問し、解答求め、更に補足と偽称しながら、言葉使いを中心に・あげあしを取るように・屁理屈をこねるようにして(非哲学的に)評価採点するのと同じことである、とご理解ください。

juyte
質問者

お礼

出題の意図を具体的に教えていただけたので素朴実在論についてもなんとなくですが、分かったような気がします。 見た目にばかりにとらわれているような人のことをいうのですね。 難しい課題ですが、書けるような気がしてきました。 貴重な参考ご意見ありがとうごじました。

回答No.4

難問です。  どんな文脈でこういう論題が選ばれたかが分からないので、たぶん的外れになるでしょうが、参考までに。  そこに「コップ」があるとします。それを「コップ」以外の何物でもないと見るのが「素朴実在論」だと思います。でも、そのガラスの器に「花」を挿せば、それは「花瓶」です。アプリオリに(無前提に)「コップ」や「花瓶」があるわけではない。「コップ」の存在を疑うという単なる「懐疑論」の方向へ向かうのではなく、「そこにコップがある」は「水を飲む」という「人間の視点」からのみ見える事象であると考えるわけです(こうした議論の仕方は「存在論」だと思うのですが、課題を出した人はこの方向を「認識論」と呼んでいるのだと思われます。)。「花瓶」と見るには、ほとんど無数の「文化的・歴史的な前提」(花の美しさを愛でる心)が必要です。子供なら「金魚鉢」と見るかもしれません。また、とっさの場合には「尿瓶」と見ることができなくては!  上記の「コップ」を「患者」ないし「被看護者」に置き換えて読んでくだされば何かのヒントになりませんか。  「看護」の世界では、いちど、素朴実在論=常識=紋切り型を打ち壊しておけということではないでしょうか。「看護される者」は、通常の世界(健康そのものだった世界)を自らの意志で破棄し、新たな世界を追求・構築していかねばならない人です。素朴実在論の脳天気な人はたぶん、そういう命がけで新たな道を辿ろうとしている人の邪魔にしかならないのだと思われます。  「どんなミスを犯すか」というより、やることなすことがすべて「患者」を傷つけているのではないかと、それこそ「自己反省」(抽象的に考えるとは、この自己顧慮のことだと思います。そこにあるモノを何か のモノとして見ている自己はどういう存在なのかと)してみるべきなのではないでしょうか。

juyte
質問者

お礼

回答していただき、ありがとうございました。 本当に難問です。ですが例を用いて説明していただけたのでとてもわかりやすく参考になりました。自己反省してみることが重要なのですね。

noname#118718
noname#118718
回答No.3

回答ではなく考え方のヒントを述べます。 身近に居るミスをしやすい人を看護士や医師にしたらどうなるか想像してみてください。 そして、20ぐらいのミスパターンを集めて、抽象的認識に関わると思うものを抜き出し考えてみてください。

juyte
質問者

お礼

回答していただき、ありがとうございました。 わかりやすいヒントでとても参考になりました。

回答No.2

「素朴実在論」というのは、簡単に言ってしまえば、見えるものはそこにあり、聞こえるものはそこにある、という考え方です。 わたしたちの多くは、現実に、実在論的に生活しています。誰かが立ち止まって空を見上げている。多くの人は、立ち止まらないまでも、何かあるんだろうか、と、その人が見ている方向を見た経験は一度や二度、あると思います。 外で何かの物音がする。あれ、どうしたんだろう、と外の様子を見たり。 ガス臭ければ、元栓を確かめたり。 ただ、そうではない可能性もあるわけです。 見上げている人は、かならずしも空に珍しいものが見えているから見上げているわけではありません。その人がなぜ見上げているかは、実におびただしい可能性があります。 素朴実在論に立つ人は、その可能性のなかから「何かが見える」以外の可能性を認めようとしません。 何かの物音がした場合にしても、「その音を立てる何ものかが外にいる」以外の可能性を認めない。だから、極端な言い方をすれば、音がする原因を探し出すまで、探すことをやめようとしない。 わたしたちの多くは、素朴実在論的な傾向を持ちながら、同時に別の考え方もしています。 なんでそうなっているか「よくわからない」こと、というのは、日常生活では意外と多いものです。とりあえず、結論を出すことを保留にして、しばらく様子を見てみる。それで、別段問題がなければ、まあいいか、ということで、忘れてしまう。 あるいは、個別具体的な事例を離れて、人間ってそういうものだよね(何かこの言い方はかなりインチキ臭いな)、とか、歳を取ってくると、そういうこと、あるよね、みたいな、一般的、抽象的な考え方に流し込んで、なんとなく納得する。 ここらへんのことで、何かヒントが見つかりませんか?

juyte
質問者

お礼

詳しい説明をしていただき、ありがとうございました。 身近な具体例を出して説明していただけたのでとても分かりやすかったです。 まだ、なんとなくですが素朴実在論がつかめてきたような気がします。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

医療機器や臨床検査などを行わないというような前提なのでしょうか。

juyte
質問者

補足

回答していただき、ありがとうございます。出された課題がこのように書いてあったので、医療機器や臨床検査などを行わないというような前提なのかは分からないのですが、もしそうした前提を含む場合もしくは含まない場合はどのようになるのでしょうか? わからないだらけですみません。(>‐<)

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