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プラグマティズムへの批判

実生活において上手くやっていく手助けになる思想や理論が真理であるというのがプラグマティズムの思想と考えます。 これに対し批判としてどの様なものがあるでしょうか?

noname#118718
noname#118718

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noname#91529
noname#91529
回答No.4

プラグマティズムは、哲学ではない」というのでどうでしょう… ゆえに真理に関し 言い述べることが出来ない。 例)心理学 ここにきて つりの質問が多いようですがW (哲学カテゴリーの同一性回復の為) 日本では国語の先生・外国語の先生が哲学者を名乗っています。 (勿論アメリカでは、英語の先生だけに絞られてしまうのでもっとひどいのですが・・・) ご存知だと思いますが、マックスシェーラーのやり方で、学問をその影響力から三つのカテゴリーに立て分けてください。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >プラグマティズムは、哲学ではない」というのでどうでしょう… 確かにその指摘はモヤモヤしたものを解消してくれますね。 よく分かんないけど、プロテスタントやバーク主義のニオイがしますW

その他の回答 (4)

回答No.5

そもそもプラグマティズムの考え方の理解が違っているのではないでしょうか?おっしゃっているのは、功利主義に近いと思います。もちろん功利主義とプラグマティズムは相性が良い意味はあるのですが、やはりプラグマティズムの根幹はそういうものではないと思います。 私が理解する範囲では、もともと(パースにおいてはという意味ですが)プラグマティズムの考え方は、概念を明確にするにはどうしたらよいかという文脈でなされたものでした。そのためには実際的な結果を使うのが良いというのがプラグマティズムの考え方です。たとえば「硬い」という概念は「引っ掻いても傷がつかない」というふうにとらえられます。あるいは「力」という概念は、力があることで物体がどのように加速を受けるかとか、力に関してベクトルの足し算が成り立つとかいったようなことで知られるものであると考えます。 また、パースにおいては、真理とは、無限に探求を繰り返したときに極限的に皆が同意するであろうと考えられる意見です。 このように、プラグマティズムとは、(少なくとも私の好きなパースにおいては)実生活に根ざしたものというより、むしろ科学に根ざしたものです。

noname#118718
質問者

お礼

質問する前に自分なりに観察に抜けが無いかチェックしたのですが、皆様、想定外の突っ込みをしてくださるw やはりコミュニケーションは大事ですね。

noname#118718
質問者

補足

回答ありがとうございます。 おっしゃるように、ある用語がどの分野で用いられているのかで微妙に変化して微妙ゆえに扱いが難しいというのは感じます。 基本的な部分で合意しないと議論できないということなのでしょうね。難しい・・・ 基本的ですが重要な指摘ありがとうございました。

noname#100496
noname#100496
回答No.3

合理主義的発想が、社会生活の基礎になっていますが、人の心を癒すためには、無駄な、非合理的な事が必要です。論理的思考、合理的は行動は、脳の活動です。脳が思考してる時は、人と自然の情緒との交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳の思考が休むと、人の心と自然の情緒が、交流するので心が癒されます。情緒は、人の心を癒し、人を育て、社会を調和へ導きます。だから無駄な事、非合理的な事で、脳を休める事が、必要です。また座禅や、日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを、目的にしています。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 非合理を合理的に組み込む。または、非合理を非合理のまま尊重することがなければシステムが回っていかないということかと思います。 文化利権ではなく文化保守という視点は貴重と思います。

  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.2

哲学には大きく分けて合理論と経験論があります。 プラグマティズムは経験論の立場です。 真理とは効用であり、それは経験で検証できる。 これに対する批判は合理論の立場からです 真理とは理性による生得的で明証的な原理から生じ、 感覚や経験による認識は不確実で混乱しているとする。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 視点を変えれば何とでも理論武装できる点が興味深いです。 納得しました。

  • ratesu
  • ベストアンサー率13% (16/122)
回答No.1

真理は我が神のみ。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 その回答は想定していませんでした。 しかし、生きていく為に必要という点では共通点がありますね。

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