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《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

old_shoの回答

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.19

「物象化論の現在」という見出しですので、どのような話の展開があるか、前問ともに読ませていただきました。応答は、専ら「非」社会科学的観点の方々の様ですね。私も偉そうな口を利ける者ではないのですが、「物象化」の使い方が、一寸違うなあ。「経済の論理」を「物象化」と言う訳ではないのじゃないか。という見地から。 wikipediaからのKazhikさんの記述された「定義」の「物象化」からもズレているし、その前にKazhikさんの記述も、その個所で引用されているマルクス『資本論』の文章からも微妙にズレていますね。あわせて、オリジナルのマルクスの意想からみると、「特殊bragelonne的」物象化と呼ぶべきではないか、と思います。只、批判的な観点は、「方向」としては同じ向きであろうとは思います。 人の「こころ」がどれだけ経済の論理に侵食されているか、という課題設定をするとしても、いったいどんな事態を「浸食」と見るのか?課題とされるべき事象そのものは、数えだしたらそれだけで憂鬱な気分になる量があります。bragelonneさんは、そのうちで「疎外」「物象化」と呼ぶいくつかの事例を挙げて居られます。それらが考察の対象とされるべきということに異論はありません。しかし、それらは「疎外」「物象化」という概念を必要とするのでしょうか。「毒入り餃子であっても バレなければよいから売る」のは、犯罪行為です。 さて、ここから、「物象化」と「繭」に関して私の思うことです。 物象化的規整は、経済に関しては、人の深い所に入り込んでしまっていて、ニュースに載る類いの事象の分析には、長い連鎖を辿らねばなりません。それは勿論、疎かにできるということではありませんが、「物象化」と「繭」に関してなら、日々目の前に現れている問題が有るではないか?と思うのです。「特殊bragelonne的物象化」から離れますし、廣松渉の名を挙げて居られますから、事改めて言い出すほどのことではないでしょう。我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか! 「繭」あるいは「楯」と表現されて居られますが、それを「個人」の成立と同じに見ようとされるのですから、「人格」概念と不可分ですね。私は、「人格」の内に防衛機能も含まれるものだと思っていますので、「個」となるからと言って、「感動もしなくなる」方向に向うとは言えない、と思います。というか、「感動もしなくな」ったかに見える人にも、そこに至る経過はあり、……、当たり前か!。  ――アーまた、朝からゴミ出ししたか!?

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないます。  ★ wikipediaからのKazhikさんの記述された「定義」  ☆ ここがよく分かりませんでした。  ★ Kazhikさん  ☆ が分からないのです。  論旨の理解に特には差しつかえないと見てお応えしました。

bragelonne
質問者

補足

 old_sho さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回のご回答は 物象化の現象にかんしてその人間の側に焦点を当ててみるならばあたかも懐深い領域があってその場(奥の院)を垣間見させるはづだといったところでしょうか? その示唆として答えていただいたでしょうか?  ★ 「繭」あるいは「楯」と表現されて居られますが、それを「個人」の成立と同じに見ようとされるのですから、「人格」概念と不可分ですね。  ☆ たぶん――わたしの傾きを加えれば―― 《人格》をとおして《個人》という概念を捉えるなら その(つまり《個人》という概念ないし観念の)浮動性が分かる。こうおっしゃっているようにも受け取りました。  この《人格》というのは むつかしいことではなくて わたしが趣旨説明で述べたような  ☆☆ 《わたしがわたしである》ときの事態 / 一人ひとりの存在のこと  ☆ として捉えればよいのではないでしょうか?    そう捉えたなら 次のご見解も理解が容易になるようにわたしには思えました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  物象化的規整は、経済に関しては、人の深い所に入り込んでしまっていて、ニュースに載る類いの事象の分析には、長い連鎖を辿らねばなりません。   * ( bragelonne 註):深く侵入しているが それと同時に ひとの   心も懐深くなって対応しているとも言えるのではないかと。それが《わた   しがわたしである》という人格の存在つまりその動態である。  それは勿論、疎かにできるということではありませんが、「物象化」と「繭」に関してなら、日々目の前に現れている問題が有るではないか?と思うのです。   * ( br. 註):だとすれば ここで一気に飛躍して それは《繭》   ではなく 《楯》でも必ずしもなく 単に《懐の深さ》つまりあるいは   《ひとのこころは大海である》という現実を知るのみであって 心配す   ることもないと。  「特殊bragelonne的物象化」から離れますし、廣松渉の名を挙げて居られますから、事改めて言い出すほどのことではないでしょう。我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか!   * ( br. :次に引用の外であらためて勝手ながら注釈をほどこします)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 註釈と言っても すでに  ★ 我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか!  ☆ でことは足りていますね。 【Q:物象化論の現在は いかに?】への応答で書いたことですが  ○ かつて《エコノミック・アニマル》と呼ばれても 日本人は経済活動に邁進しました。  ○ つくっても作っても需要に追いつかない情況にあって 三食のほかは・もしくは三食を削ってでも 経済というモノの動きにつき従って生活していました。  ○ 絵に画いたような物象化の情況ですが それでもこの物象化の事態を人びとは たのしんでいたと言うべきでしょう。    さてそれでは 需要が必ずしも増えない情況にあっては どうか。  ○ 楽しむわけには行かないけれども ぎゃくに悲しみ悩むという心の動きは死んでおらず その限りでやはり物象化には 或る種の免疫があると言えるか。  ○ そのように懐の深い事態が 一人ひとりに《人格》なる存在をとおして起こっているか。  ○ それとも 人格はそっちのけにせざるを得ないのであって・実際そうであって ただわづかに《個人》という観念の繭を持ち出すことができて これが 物象化に対してはその猛威から自分たちを守る《楯》になっていると言うべきか。  ○ 人格ないし《わたし》は 個別の存在を言いつつ その存在にとって共通の普遍性をもほのめかしているでしょうか?   ○ そうだとすれば 《個人》は より一層 個別性を強調しているでしょうか?   ○ あるいは けっきょくひとは何らつながりのないばらばらの存在であると言わざるを得ないということを強調しているでしょうか?  さて  ★ 「特殊bragelonne的物象化」  ☆ をも含めて全体として 現状と展望は どういう情況だと考えられるでしょう?

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