アートディレクタは人格が物象(お金)化しているか?

このQ&Aのポイント
  • アートディレクターが実際に行わなければならない業務の詳細について指摘されている。
  • アートディレクターの佐野氏に対する批判が厳しい。
  • 資本主義の申し子である資本主義市場経済において、人格の物象化が起こるのではないかという議論が提示されている。
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アートディレクタは人格が物象(お金)化しているか?

 ▲ 【五輪エンブレム撤回】佐野氏 賠償金回避か ~~~~~   東スポWeb 9月3日(木)5時58分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150903-00000003-tospoweb-spo  (あ) 大阪芸術大学の純丘曜彰教授もアートディレクターを名乗る佐野氏について     「彼はイラストレーターだ。アートディレクターは権利関係から予算、納期、イメージ管理まで行う。それができないのだから名乗ってはダメ。彼は事務所を構えているが、騒動になっても窓口は顧問弁護士ではなく奥さん。STAP問題の小保方晴子さんですら、すぐに弁護士を付けた。ある意味、佐野氏は小保方さん以下ですよ」   と手厳しい。  (い)  「そもそも彼はデザインが嫌いなのだろう。個人ブログから盗用したパンや空港の画像は、自力で何とかできたはず。彼は職人ではなく商売人。名声を高めて金儲けするアーティストセレブを目指していたのではないか」(純丘氏)  (う) 「選考過程も大問題だ。まず審査委員に、盗用が発覚した場合の危機意識が欠如している。この業界にはなれ合いが横行していて、審査員の顔ぶれが一緒だったり、いわゆるデキレースのようなものもある。組織委員会が幕引きを急ぐのも当たり前で、選考過程がバレたらシャレにならないからだろう」(同)  (え) 前出の平野氏(著作権法に詳しい「ファーイースト国際特許事務所」の平野泰弘弁理士)は佐野氏の唯一の功績は「デザイン業界のあしき慣習を表に出したこと」と断言。続けてこう述べる。   「昭和時代は才能のない者でも有名になれたし、ちょっとパクってもバレなかった。そうした先輩を見て後輩も育ってきた。ネットが普及した現代はガラス張りで、悪事は必ずバレる。佐野氏のおかげで本当の才能、オリジナリティーが求められるようになった」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (お) こういう話を聞いてみると――議論としては 極論をわざと好んでおこないますが―― マネー(資本)が滞りなく自己増殖をしつつまわっている限り・そして問題は闇から闇へ葬り去ってしまいうる限りで 資本主義の申し子の世の中である となるのでしょうか。  (か) つまり 資本主義市場経済のもとでは いわゆる人格の物象化(つまり マネーの流通し膨れ上がって行く過程を方程式化したかたちと動きを人格がそっくりそのまま体得する)が起こるというその申し子か。    (き) これだと あんがい分かりやすいと思ってみたのですが 次の本で そこから《物象の人格化》もが起きるのだとかを知りました。   ○ 佐々木 隆治:『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』 2012 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96%E8%AB%96%E2%80%95%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%B4%A0%E6%9D%90%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8-%E9%9A%86%E6%B2%BB/dp/4784518096/ref=asap_bc?ie=UTF8   ○ 佐々木 隆治:マルクス物象化論の核心――素材の思想家としてのマルクス――  http://www.zenkokuyuiken.jp/contents/taikai/33taikai/sasakisanyoushi.pdf  (く) すなわち 《人格の物象化 Versachlichung 》として ミスター・マネー(ミスター資本)となった人格は じつはそのあと別の人格を獲得する。  こんどは 《物象の人格化》が起きる。と言う。(――このあたりは わたしは佐々木を《盗用》しています。解釈内容はわたしの勝手なしわざです。――)。  資本主義システムの中でしかるべき位置づけを得たら その物象を体現するような人格(?)に変身すると。   投資家・株主そして専門化した経営者。   政治家・官僚そしてマスコミ。それに乗る文化人・知識人・評論家そしてさまざまなタレント。   これらに対して アンチテーゼの役割りをになうアマテラス(公民)予備軍〔症候群に罹った大衆〕も けっきょく同じく《物象が 裏返しに人格化したすがた》かどうなのか。  (け) そう言えば アート・ディレクターと言えばいかにも Mr キャピタルというような匂いがします。かも知れません。  (こ) 分かりやすいと思うのですが いささか一面に片寄り過ぎているかもと思い自由なご批判をあおぎたいと考えます。

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noname#221368
noname#221368
回答No.1

 しょうもない事を言えば法人格という制度があるので、《人格の物象化》《物象の人格化》はたやすく起きるし起こせる。でも佐野氏の件はだいぶ違う気がします。《人格の物象化》とか《物象の人格化》以前の、言ってしまえばひどく世俗的でくだらないところで事態が成立してしまったと思います。 >▲ 【五輪エンブレム撤回】佐野氏 賠償金回避か ~~~~~   東スポWeb 9月3日(木)5時58分配信 は自分も読みましたが、この少し前に「佐野氏はどうしてこんなに叩かれるのか」みたいな趣旨の記事がネットにありました。適宜抜粋します(以下、「それ」と呼びます)。  それによると佐野氏はいわば、オリジナリティーなきオリジナリティーを目指していた、という事です。佐野氏は若い頃に、コラージュ物に衝撃を受け、アーティストを目指したとあります。作品の個々の素材が全て、なんらオリジナリティーのないその辺のパクリだとしても、全体としては独創的なアートになっている。そういうコラボ物です。  自分はアーティストではありませんが、そういう方法論があって良いのは理解できます。しかしそれによると佐野氏の不味かった点は、首尾一貫性がなかった事です。彼は要件(注文)ごとに作風を変えるのが得意だった。それによると、そういうのは最も発注しにくいアートディレクターだそうです。つまり個性がないので、要件にふさわしいかどうか事前に判断できない。逆に言えば、オリジナリティーは少なくともとも見えにくい。コラージュ手法を採用するので、なおさらという事になります。  要件ごとに作風を変えられるのは、もしかすると凄い才能なのかも知れない。ただ問題は「佐野氏はぱくった素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無だ」という点です。だから叩かれるし、コラージュとしての独創性も見えない。だから次のように言われます。 >「そもそも彼はデザインが嫌いなのだろう。個人ブログから盗用したパンや空港の画像は、自力で何とかできたはず。彼は職人ではなく商売人。名声を高めて金儲けするアーティストセレブを目指していたのではないか」(純丘氏)  しかし上記は勝手な評価だ。もし彼がアートディレクターとしてちゃんとしてれば、何とかなったはずだ。トートバックの件しかり、個人ブログから盗用したパンや空港の画像の件しかり。  彼はアートディレクターではなく、若かりし頃思ったようにそのままアーティストを目指すべきだったと思う。たぶんディレクターには向いてない。 >「彼はイラストレーターだ。アートディレクターは権利関係から予算、納期、イメージ管理まで行う。それができないのだから名乗ってはダメ。彼は事務所を構えているが、騒動になっても窓口は顧問弁護士ではなく奥さん。STAP問題の小保方晴子さんですら、すぐに弁護士を付けた。ある意味、佐野氏は小保方さん以下ですよ」  「若い頃に受けたコラージュ物からの衝撃」をもっと大事にすべきだったと思う。  これらは全て、「素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無」という点につながると思う。前回のエンブレム公募では、世界中の有名な7つのデザイン賞のどれかに入賞した事が参加資格だったが、佐野氏はそれらを総ナメにしていた。それなりに才能はあったはずなのだから。要件ごとに作風を変えられるという特殊技能故に。  最後に余り話題になってませんが、IOCが佐野氏のデザインに、調査の末お墨付きを与えたのはじつは大問題ですよ。まさかこんなにボロボロになるとは、思ってもみなかったのかも知れないが。確かに昭和時代なら大丈夫だったかも知れない。  みんなネットで「素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無」という事を、知ってしまったからだと思う。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。ううーん。  まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。  真っ先におことわりのようなことがあってそれは ここでわたしは 《アートディレクター》なる用語を純丘曜彰氏の言うきちんとした仕事をする人としては用いなかったことです。  ぎゃくに何も《監督・管理・経営》をいっさいせずに 仕事の受注とスタッフへの割り振りと出来上がったものを届けることだけを マネーゲームのようなマーケットの中で淡々とこなして行くといった姿として言っていました。これは 純丘曜彰氏の発言をいいだけ引用していますので しっかりとおことわりしておくべきでした。すみません。  《何もしないディレクター。アートにかんする商品の発注から生産の完了までの工程を機械のごとく指示はしつつこなして行く立会人のような》。  まるで《キャピタルなる神》につかえる司祭のごとくおごそかにクライアントとの交渉およびスタッフへの割り振りを淡々とこなして行くといったイメージです。  そう捉えると あんがいご見解と合うところも出て来ます。:  ★ オリジナリティーなきオリジナリティーを目指していた  ☆ つまり 《キャピタル神に仕える司祭》としては もはや《オリジナリティ》といった概念すらなくなっている。それが キャピタルなる神です。その神の心です。  ★ 佐野氏の不味かった点は、首尾一貫性がなかった事です。彼は要件(注文)ごとに作風を変えるのが得意だった。  ☆ これが キャピタル神の聖書のおしえるところだと思われます。  ★ 要件ごとに作風を変えられるのは、もしかすると凄い才能なのかも知れない。ただ問題は「佐野氏はぱくった素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無だ」という点です。  ☆ これは どう捉えるべきでしょう。  けっきょく身の周りの人たちだけではなく 世の中の人間みんなが 《キャピタル神の信徒》であったなら 何の問題もなかった。《リスペクト》などは持ってはいけないというのが そのオシヘですから。《リスペクト》なる言葉は 辞書という辞書から削除すべしということなのでしょう。  ★ 最後に余り話題になってませんが、IOCが佐野氏のデザインに、調査の末お墨付きを与えたのはじつは大問題ですよ。  ☆ IOC は 《物神崇拝》の徒だったのでしょうか。

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