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《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

old_shoの回答

  • old_sho
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回答No.24

bragelonneさん、ごみ箱行きの文を、丁寧に読んでくださって、礼を言うべきか、謝るべきか、という所です。 人の受け売りにならないように語るのが困難になった、という訳ですが、ほって置くのも失礼かと、「受け売り」を交えてもう少し。 「物象化」という視点は、掘り下げた地点からの捉え返しとしてのものだと思います。が、説明としては、上から見下ろすことでも、分かる。その「分かる」は違う。――これを、受け売りでなく、うまく表現することができないで―― >ただしこの個人という着物を着たひとは 自分の意見を述べることはするけれども ひとの意見を聞くことはしない。という別の弊害が出てくる。右の耳から入ったことは左の耳から流してしまう。 ――この部分に対応するものを書こうとして、躓いてやめたのですが、方向を変えて再度挑戦。 「ホリエモン」の例に仮託して。――ニュースの見出ししか見ていないので単なる図式的例題としてです。 A)彼としては納得できない。なぜ、このような「法の裁き」が起動されるのか。それは何だ。 B)その法は、何を意図し、何を護ろうとするのか?自由で公正な「株売買」を保証する為の機能の一つであるのか。 C)何が公正であるのか。そもそも、護られるべき「株売買」とは何か。 D)それは……。 E)……。 この下降を、単に「観念的」なものとしてではなく追求されたなら、上向に反転出来得る地点に達する。 第三者が行うのではなく、当人が行うならば、豊かな内容を持った、新たな展望を得て復帰するだろう、と思いたい。 ――まあ、背伸びをして回答しているようなものですね、やめておきましょう。 書こうとしたきっかけは、 数多くの質問を提示されているbragelonneさんの今回の質問は、おそらく、「指呼確認」の一種としてあるだろう。ところが、そこで回答されているものは、私から見ると、外している。指を差すということは、三次元空間中に定位しなければならないが、異空間を指しているように見える。そのこと自体は口出すことではないと思いますが、bragelonneさんの「指し方」が微妙に気になる。「物象化」の考え方が、当面はそれで行けても、いずれ躓くだろう代物に、見えた。 「現状と展望は どういう情況だと」に対しては、今は共通の言葉では語りがたいなあ、展望も?、と思っています。 なお、「Kazhikさん」は、wikipediaで「履歴」を見てその個所を記述された方だなあ、というので挙げただけです。「物象化」の一つの解釈を提示されているとして、解釈の相対化をするべきかと。

bragelonne
質問者

補足

 old_sho さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 「Kazhikさん」  ☆ 確認しました。澄みません。  ★ 解釈の相対化をするべきかと。  ☆ むろん 賛成です。    ★ 「ホリエモン」の例に仮託して。  ☆ 何やら頭脳が起きよ・目覚めよと声をかけられたような試みのごとき営為に感じられました。ただし一たんはこの冒険をとめました。まづは 次のような問いをおこなって 現在の地点を固めるのみです。  もう少し触れれば たしかに  ★ 下降と上昇  ☆ は そう言えばよく聞いたものだったと思い起こし認識を新たに始め直そうとはしています。  問いはこうです。  ○ このホリエモン問題にしても 法律の論議もあるでしょうが 超法規的処置と言いますか 国策としてと言うのでしょうか 要するに 資本の論理がつらぬく経済行為関係に対して 経済外の政治(よく言えば共同自治)の視点とちからが介入するという事態であるのではないでしょうか?  ○ だとすれば そのようにもし政治経済学というような一体となった人間の社会行為を想定することが出来るなら モノないし商品関係の独り歩きとしての物象化現象に対して ヒトないしその意志関係の待ったがかけられる。と言っていいのかどうかなのですが?  ○ そこで働かせた人間の意志も じつは 物象化に沿った内容でしかなかった。ということになるでしょうか? どうでしょうか?  ☆ 政治の介入は 今般の経済後退に際しても見られますが この問題を提起するのでは まだ軌道に乗りませんか?  もう一点です。社会的分業が始まってからというもの 疎外が起こりやがて市場経済が自立しひとの手から独立したかのごとく 商品というモノが――同じく商品と成り切ったかのような労働をさえ巻き込んで―― 堂々と街を独り歩きしている。  このとき 分業はそもそも一人の人間ないし家族ないし地域共同体の範囲で協業しつつ総合され 或る意味で上に触れた共同自治のもとに統括されていたと考えられます。(つねにそのような統括する過程にあった)。そして実はこの分業即協業という実態もしくはその自治共同は いまもつねに 働いている。とさえ考えられます。  乱暴に言ってしまえば  ○ 疎外や物象化の作用に対して おそらく同時に反疎外ないし反物象化の作用も ただの反作用としてだけではなく総合的な調整のはたらきとして ひとは持ち合わせているのではないか。  ☆ ちょっと頬がほてって来ました。慣れないことを言うものぢゃないのかも知れません。

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