• ベストアンサー

われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

Y  Y(@yy8yy8az)の回答

回答No.16

 bragelonneさん。  その‘恵み’は、仏教で言うところの‘慈悲心’であると受け止めても、異存はないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 慈悲心  ☆ というのも 複雑なのではないですか?  【Q:慈悲は 経験現実か】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html  をわたしも問いました。まだ釈然としていないところがあります。要は たとえば仏性の不可変性が 諸法無我(つまり不可変なる実体はない)の説と抵触するはづです。  仏性にもとづく自己表現 ここに《慈悲》が伴なわれるかと言えば どうなんでしょう?   もし ブッダはあくまで人間であるという前提に立つならば この慈悲を 理論的には 誰もが人間として実践できると帰結されると思われます。  だとすれば 神の愛としての《恵み》は この人間の実践する慈悲とは別です。  しかもさらにややこしい事態をともないます。  わたしたち人間が それぞれ自分の知性と努力とで ほかのひとに対して そのひとの持ち前のちからを十二分に発揮することができるよう お手伝いをするというそれとしての愛が実践されるとします。この人間の経験的で 悲しいかな 移ろい行く可変的な行為としての愛に 実際に 神の恵みとしての愛が はたらくという現実がありうると考えます。  それは ですが けっきょく 恵みであり われわれ人間のはからいによるものではないわけです。いわば神が勝手に愛としてはたらいている――風が気ままに吹いた――というものです。  ぎゃくにお訊きしますが では このとき《慈悲》はその愛に重なっていますか?  その慈悲の行為の主体は 誰ですか? 人間ですか? ブッダですか?  このように考えます。いかがでしょう?

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