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飛ぶ矢の背理
運動している物体も静止している物体も同じ時間点を規定すれば同じ空間を占める。つまり運動体と静止体の瞬間における区別は無い。しかしその瞬間の積み重ねが一方は運動に、一方は静止になるのか?
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同じ時間「点」という概念から間違っているかも知れません。 「時間の最小単位」があるという概念の下(たとえば「ループ量子重力理論」)では、前提条件が成り立たなくなります。 この辺りの時空間の無限分割可能性に関する概念の差は、実無限と可能無限のどちらをとるかに関わってくるでしょう。
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ならないでしょう。あくまで定義に過ぎません。
- owlsjp
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この質問は、実生活から生じたものではないようですね 少なくとも、日常生活の中で、時間を瞬間の積み重ね 空間を点の集合 だと実感したことはないんですけど... >しかしこれをアホだといって笑ってばかりもいられないと思いますがね。 そうですか、少なくとも http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4966862.html のNo.2 で 完全に理解できると思いますが... >空間を一義的に捉えて生活している人は存在しない そうですか、それは皆 そうなのでしょうか、少なくとも頭で考えたリクツではなく、実感としては 一義的 に捉えて生活していると思いますが。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
アキレスと亀関連で。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4966862.html 個人的には No.2 に納得。
- itsuki7927
- ベストアンサー率0% (0/2)
以下で投稿したところ、文字数制限により改行がガタガタになってしまいました。 修正できないシステムのため、改行を修正のうえ同文を再投稿します。 -------------------------------- 以下のページで 「アキレスと亀のパラドックス」 について論証しました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227040567 「飛ぶ矢のパラドックス」 も同形式の論証で解消するので、 (Yahoo!知恵袋の入力形式ではインテンドができないこともあり、 読みづらい文面で恐縮ですが) まず上のページの回答をご覧ください。 回答者のIDは、こちらと同じで itsuki7927 です。 以下の2点を変更するだけで、上記 「アキレスと亀のパラドックス」 の論証が 「飛ぶ矢のパラドックス」 の論証になります。 ◆「アキレスと亀」 という記述一般を 「飛ぶ矢は飛ばない」 に変更 ◆ (1) の * を 「飛ぶ矢は飛ぶ」 に変更 結論にあたる〔III〕のみを書き出せば、 〔III〕 だから、話者ゼノンは、「合理的説明として問題なく見える一連の有意味な文」 として 「飛ぶ矢は飛ばない」 の挿話を述べる者である。 この結論でなぜ 「飛ぶ矢のパラドックス」 が解消するかと言いますと、 (「偽の言明を 『理解している』 と言えるか?」 という問いを考えると分かるように) 理解の対象は meaning をもつ真の言明であり、significance をもつ文ではないので、 上記 〔III〕 から 「『飛ぶ矢のパラドックス』 は知性の対象ではない」 という判断が 導かれるからです。 gottabさんのご質問に答えるべく、上の判断を書き直せば: 「幼少時より数量的な説明を与えられてきた我々には、 『数量的な説明がなされる限りは合理的な答えがあるはずだ』 という思い込みがある (だから飛ぶ矢のパラドックスでも苦悶する) わけだけれども、 『飛ぶ矢のパラドックス』 はそもそも問題として取り沙汰されるべき対象ではない。 従って、gottabさんのご質問も意味をなさない。」
- itsuki7927
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以下のページで 「アキレスと亀のパラドックス」 について論証しました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227040567 「飛ぶ矢のパラドックス」 も同形式の論証で解消するので、 (Yahoo!知恵袋の入力形式ではインテンドができないこともあり、読みづらい文面で恐縮ですが) まず上のページの回答をご覧ください。 回答者のIDは、こちらと同じで itsuki7927 です。 以下の2点を変更するだけで、上記 「アキレスと亀のパラドックス」 の論証が 「飛ぶ矢のパラドックス」 の論証になります。 ◆「アキレスと亀」 という記述一般を 「飛ぶ矢は飛ばない」 に変更 ◆ (1) の * を 「飛ぶ矢は飛ぶ」 に変更 結論にあたる〔III〕のみを書き出せば、 〔III〕 だから、話者ゼノンは、「合理的説明として問題なく見える一連の有意味な文」 として 「飛ぶ矢は飛ばない」 の挿話を述べる者である。 この結論でなぜ 「飛ぶ矢のパラドックス」 が解消するかと言いますと、 (「偽の言明を 『理解している』 と言えるだろうか?」 という問いを考えてみると分かるように) 我々の理解の対象は meaning をもつ真の言明であり、significance をもつ文ではないので、 上記〔III〕から 「『飛ぶ矢のパラドックス』 は知性の対象ではない」 という判断が導かれるからです。 gottabさんのご質問に答えるべく、上の判断を書き直せば: 「幼少時より数量的な説明を与えられてきた我々には、『数量的な説明がなされる限りは合理的な答えがあるはずだ』 という思い込みがある (だから飛ぶ矢のパラドックスでも苦悶する) わけだけれども、『飛ぶ矢のパラドックス』 はそもそも問題として取り沙汰される対象ではない。 従って、 gottabさんのご質問も意味をなさない。」
- kigurumi
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飛んでいる矢と同じ速度で観察者が移動すれば、時間と移動距離が同じなので、観察者である自分からしたら、矢は止っていることになる。 人間は視覚の差で動いているか止っているかを認識する。 矢と同じ速度で移動する人は自分が静止しているという認識。 まるで我々はパソコンの前でパコパコ打っているとき、移動していないと認識しているようなもの。 実際は日本にいれば、だいたい時速1400キロで移動している。 にもかかわらず、そういう認識が無い。 何故なら風景に差が無いから。 パソコンも家も自分と同じ速度で移動しているので、差が無く自分がすごいスピードで移動しているにもかからわず、他のものとの差が視覚で認識できないので、静止していると思っている。 人間の目はカメラのシャッターのようにある一定の速度以上は認識できない。 静止画像をみている。 にもかかわらず、カクカクと見えないのは、脳が差をスムーズに処理しているから。 太陽。メガネを使って見たとしても、動いているようには見えない。 でも、太陽は地球のまわりをぐるぐると動いているとしている。 だって、数時間置きに見える位置が違う以上、動いていることにしているから。 実際は地球の方が動いているわけですが、観測地点が動いている地球なので、そこを基点にしたら、太陽の方が動いているという認識になる。 >しかしその瞬間の積み重ねが一方は運動に、一方は静止になるのか? 細かくコンマいくつに限りなくすると、静止とみなされるのですが、差で動いているという認識になる。 時間の移動の中に我々はいるので。 時間が移動している世界にいなければ、静止世界になるわけです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ご質問にあります、飛ぶ矢という運動体において、考えますと、その飛ぶ矢がどの瞬間にもその位置点に来て、そして同時に去っているということでしょうか。 ありてなし。その時間の経過を無限に遅くした状態が静止した矢ということになりましょうか。 その場合の静止した矢というのは、飛ぶのを静止した矢ということになりますね。 ただそこにある矢というのは静止した矢ではないのですね。 でも存在するというのは動作でしょうから、静止した状態とはありえないですよね。 時間と空間は一つの事をいっているのでしょうね。それは物体界の存在動作のことなのでしょうね。
- cyototu
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#5です。 もしかしたら、以下の説明は質問者さんには不必要かもしれませんが、念のために速度に触れておきます。もしそのことについて、すでにお分かりでしたら、この説明は読み飛ばして下さい。 「平均速度」vとは、単位時間当りΔtの間に変化した位置Δxで定義します。したがって、 v=Δx/Δt となります。そして、「瞬間の速度」とはその時間Δtを無限にゼロに近づけて行った極限で定義します。時間Δtがゼロに近づくと、それによって移動できる距離Δxももちろんゼロに近づきます。従って、移動しないことになり、あたかも止まっているように見えますが、それでも速度 v は一般にはゼロにはなりません。多分ここのところで多くの方が混乱するところです。Δxはどんどん小さくなりますが、それをまた、どんどん小さくなる時間Δtで割るのですから、その割り算の結果は必ずしも小さいとは限りません。他とへばΔxがどんどん小さくなってΔx=0.0001 となっても、もしもΔtがどんどん小さくなってその時の値がΔt=0.00001となったら、 v=Δx/Δt = 0.0001/0.00001 =10 ですから、速度は10となり1よりずっと大きな値を持ちます。時間間隔 Δt をもっともっと小さくとても、v がずっと10の値を取り続ける事も在り得るのです。このように時間を瞬間に取ってΔtを無限小に近づけると、Δxも無限小になって移動距離は無限小でありゼロに限りなく近くなりますが、それで速度が一般にはゼロになるとは限らないわけです。瞬時には物体は確かに止まっていますが、それでもゼロでないある度 v を持つこともあり、また別の場合には v=0となっていることも在るのです。 そして、v=0の場合には、その物体はずっと同じ所にとどまりますが、v がゼロでないと場合には物体はその場所から時間と共にずれて行きます。従って、物体の運動の状態は、物体の瞬間の位置の値だけでは決まらず、その瞬間に物体が止まっているように見える時の速度 v の値も決めれやらないと、物体の運動の状態は決まらないのです。 以上
- mmky
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追伸: ちょっとわかりずらいですかね。 >>しかしその瞬間の積み重ねが一方は運動に、一方は静止になるのか? 一般的にはそうはならないといいたいのですね。そのように見える特殊な状態もあるということなのです。 質問者さんが目にする日常、例えば電車などは止まっているか動いているだけの差に見えますよね。 でも例えば流星なんかは一つの塊ですが太陽のそばを通ると長い紐条になってますね。太陽のそばを通るときと離れたときでは形が違うのですね。同じものでないような姿になるのですね。こんなのは質問者さんのイメージする剛体の静止・運動とは違うものですね。 つまり、本来的に運動しているものと静止しているものは違うものといいたいのですね。ストロボの比喩では分かりづらいですね。 糸をぐるぐる巻いて作った丸いボールは剛体のように見えて、加速運動を始めると糸が解けて一本の長い長い糸になることもあるわけです。これボールじゃないですね。紐でしょ。 ボールと紐じゃ比べようもないし、その瞬間の積み重ね(積分)をいかにしようとも紐はボールにならんでしょ。でも減速すると紐はボールに戻るという形状記憶紐ですね。 これ電子の粒子性と波動性の比喩ですが、電子に限らず全てのものはそんなものなんですね。普段はそんなに早く運動することないからそうは見えないだけですね。 これ色(物体)即是空(紐)・空(紐)即是色(物体)なんですね。 加速するか減速するかで可逆的なんですね。でも色と空じゃちがうもんですよね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
質問者さんが、「空間」、「時間」、「運動」という言葉を使っているので、この言葉の意味は分っているものとして話を進めます。物体は空間のある「位置」を占めています。単位時間当たりの位置の変化を「速度」、そして単位当たりの速度の変化を「加速度」と呼びます。その単位時間の長さの選び方は任意ですが、物理ではその単位時間の長さを有限の値に取った時には、それぞれ、「平均の速度」、「平均の加速度」と呼び、その単位時間の長さを無限小にとった時だけ、それぞれ、その位置での「瞬間の速度」、その位置での「瞬間の加速度」と定義します。そして、特別に断らない限り「速度」とは「瞬間の速度」、「加速度」とは「瞬間の加速度」を指すします。 以下に説明しますように、この宇宙では、運動の状態を完全に決めるのには、瞬間の位置だけでは駄目で、それと同時にその瞬間の速度も分かっていなくてはならない事が確認されています。したがって、 >同じ時間点を規定すれば同じ空間を占める。つまり運動体と静止体の瞬間における区別は無い。 という主張は、少なくともこの宇宙では成り立たない事が分かっております。同じ空間点を占めていても速度が違うとその後の運動の状態が変わってしまいますから、速度の違いによってく区別が着くのです。 さて、運動の状態を決めるのに、どれだけの情報が必要でしょうか。頭だけで考えるなら、即ち、論理だけで考えるだけなら、その可能性は無限にあり得ます。最も簡単な可能性は、(1)運動の状態とは位置が決まれば決まってしまう、です。これが、質問さんの仮説です。もっと複雑な可能性は、(2)運動の状態とは位置と速度が決きまれば決まる、です。もっと複雑な可能性は、(3)運動の状態は、位置と速度と加速度が決まれば決まる、です。もっともっと複雑な可能性は(4)運動の状態は、位置と速度と加速度と、さらに、単位時間当たりの加速度の変化が決まれば決まる、です。これを繰り返して行くと、運動の状態を決める可能性は論理的には無限にあり得ます。この可能性は、もちろん我々の頭の中で考えた可能性なのですが、実際の自然界では、そのような無限に多くある可能性の中の、実はたった1つだけを実現しています。 ところが、上の可能性の(1)か(2)か(3)等々のうちの何れが実現しているかは決して自明ではなく、どんな理屈や論理をこねくり回しても分かりません。それを決めるのは論理ではなく、実際に実験をしてみる以外にはないのです。このように、論理だけでは解決できず、必ず自然界の中で実験や観察をしてみなくてはその是非の決着がつかない現象を取り扱う学問のことを、自然科学と言います。この点が、自然科学が数学や論理学とは違う最も需要な点です。そして、実験や観測で上の可能性のどれがこの宇宙では実現しているかを確認できたときに自然科学者は、現に我々が埋め込まれているこの宇宙の個性が理解できたとして、満足するわけです。 そこで物理学者達は、上の可能性に関して色々な仮説を立てて、実験や観測を繰り返して来ました。その結果、加速度は、必ず、位置と速度の二つ量だけの関数になっている事を突き止めました。従って、この宇宙の個性は、上の可能性の中の(2)を満たしている、即ち、位置と速度の二つが定まると、自動的に加速度も定まってしまうので、その後の運動が完全に記述できることが経験で分かるようになったのです。すなわち、運動の状態は位置だけが分かってもその後の状態が決まらず、また、速度だけが分かってもその後の運動の状態は決まらないが、その二つが決まると、その後の運動の全てが決まってしまうようにこの宇宙が出来ていることを突き止めたのです。 実は、そのように宇宙が出来ていることと、この宇宙に「慣性の法則」が在る、即ち「力の働いていない物体は等速直線運動をする」という法則が在るとは同じ事なのですが、そのことに関する詳しい議論は ポアンカレ著『科学と仮説』(岩波文庫) の中の「古典力学」のところで成されておりますので、それも参考にして下さい。
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補足
ゼノンを笑う人が多いようですね。 「瞬間の積み重ね」という表現がそんなにおかしいでしょうか? ゼノンはある任意の点の隣には「次の点」が来ると考えた。 しかしこれをアホだといって笑ってばかりもいられないと思いますがね。 なぜならこの世の中で空間を一義的に捉えて生活している人は存在しないでしょうから。