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世の中あまりにもいろいろな人がい過ぎないでしょうか?

人間の多様性に圧倒されて、不吉な気持ちが起こります。 なぜなのでしょうか? 自分にとって価値がある人、ない人がいます。価値のない人が同じ空気を吸ってすぐそばで生きていること、その事実に恐ろしさを感じます。また、その人たちに価値観を感じることができない自分の感受性にも絶望的になります。 こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか?

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.15

>こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :おそらく・・・、というかほぼ確信的に、人はみな怖れているのだろうと思います。 ただ、怖れ方にいくつかのパターンがあるのでしょう。 基本的に、その自分の中の怖れに対して (1)過大評価するタイプ。 (2)無視するタイプ。 (3)評価すべきは評価し、しても仕方のない面は無視する折衷タイプ。 (3)が一応健全タイプ、ということになるでしょうが完全に区分できるわけもなく、誰もが同じような要素を抱えているだけで、要は配分率の問題になります。 では、 (1)の「怖れを過大評価する」とはどのような意味でしょうか。 最初に「人はみな怖れている」と偉そうに述べましたが、 「自分だけが怖れていて、他人は誰も怖れてなどいない」という認識。 これが「過大評価」です。 つまり、自分の中の怖れを過大評価しているという意味で、この表現を使っています。 しかし、あたかも何も怖れていないかのように、時には傍若無人に振舞っているかのように見えるタイプの人々も、怖れていないわけではありません。 単に「(2)無視している」だけではないでしょうか。 自分内部の怖れとまともに向き合うことができないタイプです。 アイデンティティには足がかりが必要だと思うのですが、この足がかりを(2)のタイプは他者に求めざるを得なくなります。 何らかの乗り越えるべき壁を乗り越えることによってアイデンティティは次第に強固なものになっていくはずですが、自分の問題(怖れ)から逃げるタイプの人には、それができません。 他者あってこその自分であって、他者が自己存在のバロメータになるわけでしょう。 他者が幸福であれば自分は不幸で、他者の不幸によってしか自分を幸せだと認識できない人々です。 このような人々を怖れるのはむしろ自然な感覚だろうと思われます。 (1)のタイプの人は、自分の中に兆したその怖れを絶対的なものだと認識するのだと思われます。 しかし、(2)のタイプの人間も同様に(ではなくとも)人生を、他者を怖れているはずです。 つまり、中間を端折りますが(2)のタイプも(1)のタイプを怖れているわけです。 これ(相手も怖れているのだということ)がわかれば通常怖れは和らぐものです。 しかし、そう簡単にいかない場合も確かにあります。 そこから先は、自我を脆弱にしている要因を探る必要が出てくるでしょう。 しかし、一緒に考えさせていただくにはなかなか興味深いご質問でしたね。 >こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :いや、全くおっしゃるとおりでしょう。 なんと言うか、人間の矮小さといったら良いのか、可能性のあまりの貧弱さに絶望的になりますね。 しかし、壁が高いほど乗り越える快感はあるのではないでしょうかね。 また、矮小さの裏には必ずと言っていいほど悲しみが同居していますし、可能性の貧弱さは常に自分自身の問題としても付きまとい続けるものでしょう。 些末な事柄は放っておきましょう。 「世界に対して主体的に関わっていく」という視点の重要性に最近気づかされたのですが、他者に対する怖れというのはもしかすると自分自身に対する怖れであるのかもしれませんね。 主体的に関わっているようでいて、自身に対する怖れへの反動として外部(=他者)に攻撃を仕掛ける、というパターンも散見されますから留意が必要でしょう。  

garcon2001
質問者

お礼

詳しい解説、ありがとうございます。 分析は大体正しいと思います。3のタイプが理性的で、一番つわものですね。 自身のベストを尽くし続けること、これが恐れに対する最善の策だと思われます。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

だいこん。にんじん。キャベツに白菜。きゅうりにナスにたまねぎ。 みんな美味しくいただけます。 だいこんがにんじん嫌い。キャベツが白菜は敵。きゅうりがナスは天敵。といったところでなんにもかわらないんですよね。 私はアマゾンの奥地では生きていけませんね。いつ鰐に食われるか、アナコンダに食われるか、毒蜘蛛にさされるかと思ったら生きていけないですよね。でもそこでもそれらを美味しく頂いて楽しく生きてる人達がいるんですよね。 私はアマゾンの生活はいやですが、多様な人間は好きですね。多様な人間の文明がこよなく好きですね。 よく買い物に行くとスーパーの入り口に座って交差点を行き来している人の群れを見てますね。なんともいえない多様な人間の営みの一端が見えるんですね。 近代的建物があり、無数の人の群れ、さまざまな姿があり、静かにたたずむ街路樹があり、文明の匂いですね。この空気のなかにいることは喜びですね。 多様な人の群れがないと、寂しい町ですね。私はそんな風に感じますね。

garcon2001
質問者

お礼

多様な人間像をそのまま受け入れることができる、と言う感性は、よく言えば勇敢であり豪壮、わるくいえば、繊細さの欠如といえませんか。たくましいのは大いに結構なのですが、自己に関係のない人間価値のない人間が、もし、大災害が起これば自分の糧を争う存在になるかもしれないと言う恐怖。気持ちも通じ合わずただ生存を争う。考えるだけでも醜悪きわまる光景です。

noname#100496
noname#100496
回答No.7

この世界は、神の世界ではありません。調和の世界ではありません。この地球は不完全、不調和の世界です。仏教では仮の世界といいます。不調和の自我と、調和の無我が、交わる世界です。だから善半分悪半分、協調半分争い半分、創造半分破壊半分、良い事半分、悪い事半分です、しかし朗報があります。2012年、地球の仮の世界が終わり、脳の自我は分離され、次元上昇して、調和世界になるそうです。

garcon2001
質問者

お礼

まさに、そんな解説をいただけると、わが意を得たりですね。こんな世の中が調和的なはずがありません。ありがとうございました。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

不吉と不安は違うのでは。 人間の多様性を「恐ろしい」と不安がる人がいたとしても、不吉だという人はいません。 とすれば、不安とは何かですよね。 でも、思うんですよ。その「多様性」って、実にシンプルなんじゃないかって。 「二様性」じゃないですか? garcon2001さんにとって価値があるかないかの二択で判断してますよね。 ところが人を見かけるたびにこの人は自分にとって価値があるかないか、をいちいち判断することは気疲れします。 ましてや人は多いのです。中にはその二択で白黒つかない人もいるかもしれない。 逆転の発想をするならば、世の中が殺伐としているというより、garcon2001さんのものの見方が殺伐としているから世の中がそう見えるのでは。 自分にとって価値があるかないか、という殺伐とした判断を捨てれば、案外世の中もそんなに恐ろしくなくなってくると思いますよ。

garcon2001
質問者

お礼

その、二択を捨て去ることができれば、超人間と読んでもいいのではないでしょうか。好きな人、嫌いな人、それ以外っていますでしょうかね。逆に、それができたら、恐ろしく無感覚な味気ない世界が展開されませんかね。たしかに殺伐感はあるが、その殺伐感が世の中を活性化させるのもあるでしょう。しかし、「恐ろしさ」はついて回ります。

  • jojo2011
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.5

「価値」というのは人間が社会生活を営むにあたってつくった ひとつの概念にすぎません。それは地域ごと、国ごとで違います。 宇宙規模の視点から見ればあなたにも他人にもひとしく「価値」という 概念は適用されません。人間同士の約束事に過ぎませんので。 とりあえずあなたにも他人にも価値なんてないんだという諦観から 始めてはどうでしょう。 かといって、人間社会に生まれれば「価値」という概念から逃れる のはなかなか難しいでしょう。 他人同士、ひとりひとりの価値観を比べるときりがありません。 かといって、お互いに信用しきることもできません。 それで先人達が道徳をはぐくみ、法律をつくって 「最低限これくらいは守ろうぜ」と世の中を構築しているわけです。 それは単なるルールです。神から与えられた戒律などではありません。 あなたが他人に「価値がない」と判断するのはあなたの主観ですから 自由です。その感受性はそのままでいいと思います。 ただ、道徳、法律の範囲を超えてそれを態度に表わしてはいけません。 それが人間社会で生きるルールです。 確かに世の中は殺伐としています。 だから犯罪や戦争がなくならないのです。

garcon2001
質問者

お礼

「価値」がない。と言う本質は確かです。しかし、人間はどうしても幻想性≒希望を持ってしまうのですよね。その結果、その幻想にしがみついて生きている。この希望を取り去ったらどうなのだろう?超人間でしょうか。 「道徳」ていうのは、つまり、社会秩序のための方便なのですよね。それだったら実に明快で納得がいきます。無秩序と秩序どっちがいい?お前の嫌いなやつには攻撃できないけど、という条件、妥協の条件です。それはたしかに人間を人間たらしめるひとつの条件です。 そう、やはり、この世の中は、本質的に殺伐としております。

回答No.4

こんばんは、garcon2001さん。 他所で、蚊のお話を読んでいたせいでしょうか コレ蚊のつぶやき?と 思いながら、本ご質問を読みました。 自分たちというところの自分を蚊とした場合 蚊にとって価値があるとするのは、蚊の卵の成長に欠くことのできない栄養素(タンパク質)をもつ動物(人)の血液。種の保存。 ●価値のない人が同じ空気を吸ってすぐそばで生きていること、その事実に恐ろしさを感じます。 ↑ この場合の価値のない人は、二酸化炭素濃度の低い人 同じ空気を吸ってということから 人は酸素を吸って、二酸化炭素を放出する。蚊のセンサーは、より濃度の高い二酸化炭素を放出している人へ反応する。二酸化炭素濃度の高い人へセンサーが働いている間はそれ以外の人へは意識が向かない。意識が向かないということは、それ以外の人に対して蚊はある意味無防備。ということは、蚊が人の血を吸う行為をとる片側で蚊はつねに危険にさらされている。蚊の身になれば、「…その事実に恐ろしさを感じます。」と、蚊の鳴くような声(つぶやき)。 【蚊について】 http://puh.web.infoseek.co.jp/aboutmosquito.htm 【呼吸】 http://kusuri-jouhou.com/physiology/breath.html 振り向けばヤツがいる 【感覚遮断環境におけるヒトの心拍変動・脳波ダイナミクスと意識の状態に 関する研究】 https://dspace.jaist.ac.jp/dspace/bitstream/10119/899/3/869paper.pdf

garcon2001
質問者

お礼

生物的なレヴェルでよりプリミティブな観点から考察することもできますね。

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.3

人間の多様性を感じるのなら、個人の存在を認めることです。そしてそれは、自分にとって価値のあるなしにかかわらず、存在しているのです。 まず全ての人から、価値観を除いてみる。すると、全ての人の存在が、平等に認められるようになるでしょう。存在意義とは、善悪にかかわらず、価値なのです。 価値のないと思っている人も、負の意味での価値(つまりは正の力を引き出す元となる)を持っているかも知れません。あるいは、価値のある人を際立たせて、選出しやすくしてくれているのかもね。

garcon2001
質問者

お礼

負の価値を持っているというのはありますね。 そこまで相対的に物事を捉える、という超人間的な感性が必要なのでしょうかね。人間的な感性では、どうしても、人間集団に対して、「毒」を感じざるを得ない気がします。

  • dondoko4
  • ベストアンサー率12% (1161/9671)
回答No.2

人間の尊厳は、そんなことで決めれるものなんでしょうか。

noname#95574
noname#95574
回答No.1

それなら、自分に合う価値観の人物だけで、世の中回したらどうなるかしら。。。 人間、人類は多様だから面白いと思いますが。 私の趣味は、人間ウォッチングなのです。 見ていて、その次どう行動するのか、予測を立てその通りなら、予測が当たったとゲーム感覚です。 もちろん、話さず見ているだけなので、実害はゼロ。 物心付いた時からの趣味なので、もう相当数のカテゴリー分けが出来ています。 時々、予測外の動きや言葉を発する人物が居ますが、そうなるとますます、面白いと思うのでこの趣味は、いいでしょ。 それに霊感があるので、予知するのも得意。 オーラも見えるので、カテゴリー分けも得意。 相手は、分けられているなんて思いも依らないですよね。 価値の無い人と書かれていますが、貴方にとって価値が無いのであって、他の誰かには、価値がある。 ですから、結婚出来るのですよ。皆ほとんど。 感受性は、人に見出さず、美しい物を常に見る、聞く、話す、手に取ることで磨かれます。 対象物を人間に限るのも、浅いと思います。 世の中には、人が創り出せない「自然」が沢山あります。 動物、植物、風、水、空、空気、虫の音、花の色、形、そんな自然を捉え貴方の感受性を磨くのが良い方法でしょうね。

garcon2001
質問者

お礼

ありがとうございます。 ご回答者さんのお人柄がわかります。とてもバイタリティ豊かで芯が強いですよね。人間ウォッチングを平常心でやると言うのは、相当人間がしっかりしていないときついと思うんですよ。少なくとも私は、あ、この人実に醜態だというのをわかってしまうのが辛い、精神に害を及ぼします。 「自分にとって」価値の感じられないもの。これは結局、自身の生存を危うくする要素なんです。なぜなら、この人がいるために私が生きるカテが奪われるかもしれないと言う、「口減らし」の理論と言うのは常に生きているからです。 ご指摘にある、自然物への感性にたいして、これって逆に磨くほど、人に対する許容量は小さくなる気もするのですよね。

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