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激しい優しさ

mktoolllの回答

  • mktoolll
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回答No.3

「他人のために死ぬ」という行為がもっとも激しい優しさのように思います。 人の命は宇宙より広く重い。(あくまでも人間としての価値観の中ではですが) ですから、その命を他人のために差し出すという行為はとても激しい優しさと言えると思います。 そういう意味では「戦争」は激しい優しさの結集かもしれませんね。戦争を指揮する人間が優しさを持っているかどうかは分かりませんけれど。激しい優しさ同士がぶつかり合うと、それは結局不毛な争いなのかもしれません。 人って難しいですね。でもそれが面白いですね。人間の思考の不思議は永遠のテーマです。

noname#3511
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 以下、御礼も含め、いただいた回答によって、考えれたことですが、応答と、個人的思索の入り混じるものです。★以下は、読んでいただくことも想定して書いていますが、私的な進行途中のしさくの形跡だと思ってください。お礼の一部として見てもらえるとうれしいです。   >「他人のために死ぬ」という行為がもっとも激しい優しさのように思います。人の命は宇宙より広く重い。(あくまでも人間としての価値観の中ではですが) 命とは、人の、植物の、動物の、私の、というふうに、「の」のつくところに、命の本質は浮いて見えてこないと思います。また、それをふまえて、「人の命は、宇宙の命より広く重いか?」といえば、そうは思えません。人は、宇宙の中にいるからです。人の頭の中に、宇宙があるわけではないからです。 だけれども、宇宙の命より狭く軽いかといえば、そうではないでしょう。 人と宇宙は、命において平等だといえそうです。 なぜなら、宇宙もまた、生かされていると、私には思えるからです。 血液の通うものが、命なのではなく、それはやはり、血液が通っているとまでしか、いえないものなのです。 私が、言うところですが、本質としての命には、形が無い。 岩石には命が無く、人体にはあるという見方ではありません。 DNAを命と呼ぶのではなく、やはり、DNAは、生命体の設計図だという認識にとどまるべきだと思います。 生命と、命とは、やはり別の言葉でしょう。 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>  戦争は、結局、激しい憎しみと共に拡大し、後悔と叱責と、何でこんなことになってしまったのか、という果てない、やりきれない思いと共に、終焉を迎えます。 戦争が、激しい優しさの結集の形とは到底、思えません。 何処の国も、他国民の命のために、自国民の命を差し出してないからです。 ★ かりに、地震があったとしましょう。大切な者を失ったとします。 しかし、地震を憎むのは愚かなことです。なぜなら、地震は、人を殺すために起きたのではないからです。地殻が、人を憎んでいるとは思えない。 しかし、場合によって人は、地震を憎みます。   仮に、虎がいるとしましょう。大切な者を失ったとします。 しかし、虎を憎むのは、愚かなことです。なぜなら、虎は、数ある獲物の中で、限定されたその個人を食べるために、その人を狩ったのではないからです。 その人は、数多くの獲物のうちの一つに、すぎないのです。 然るに虎は、獲物を憎んでいないのです。 しかし、場合によって、人は虎を憎みます。    子象を、ライオンに殺された母象は、ライオンを殺すでしょうか? ライオンが脅威だからといって、事前にライオンを殺すようなことはしません。    しかし、戦争はどうでしょう? アメリカは、イラクを攻撃しました。イラクが脅威だからです。そして、石油があるからです。 イラクはアメリカを憎むでしょう。イラクは、自国かわいさに、アメリカを憎むのです。それはやさしさではない。 アメリカは、自国かわいさに、イラクを侵攻するのです。 それは、貪欲です。やさしさではない。 フランスが、アメリカの横暴をみて、そうではいけないと、アメリカのためを思ってアメリカを攻撃するなら、激しいやさしさです。 激しいやさしさによる戦争が、起こっているようには、私には全く見えません。この戦争はイラクとアメリカの戦争であり、中東に生息している人と、北アメリカ大陸に生息する人たちが、参戦する必要は無い。 国は、サイバースペースで戦争すればいいんです。 生身の人間を巻き込むな。 イラク国が、イラク国民のことを考えてると思いますか? もし考えてるなら、戦争を回避するでしょう。 アメリカが、アメリカ国民のことを考えてると思いますか?  もし考えてるなら、戦争を回避するでしょう。 この戦争で、得をするのはアメリカ国家であって、北アメリカ大陸の大地に生息する人間ではありません。アメリカの原住民がこの戦争で得をしますか? アメリカ国民それぞれが、この戦争で幸せになれますか? 無理だ。 我々だって、単に、地球の、ある島の一角で生まれただけであって、日本国に生まれたわけじゃないんです。 それを、生まれたときに、勝手に日本国民として、「国に取り込まれます」 この島に生息する動植物が、日本国籍を持ってますか? それと同じように、この島に生息する人間も、本来は、国籍など無いのです。   我々は、国の外に立って、国を使役しなければならないのであり、国という共同幻想に内包される存在であってはならないのです。 そのためには、個々人が、国という概念の外に、視点を置いておかなければ、国を使役することはならないでしょう。 自分に、自分は何者か?と尋ねた場合、私なら、 「何者でも無い」 と、思えます。 誰かに尋ねられたなら、 「あなたの見たまま、感じるままだ。」 と、言えるものなら、言います。  自分の一部を、国に支配されるのではなく、国に預けるという認識であるべきだと思います。国が、強制的に、個人に干渉することは無いべきであり、個人は、国に一部を預けているからには、それの分だけの責任を、国に対して果たさなければならないのです。 国とは、そうやって、一人では成し遂げれないこと、一人ではどうも効率が悪いこと、一人では、どうもできないということを、皆でやるための、システムです。  私的には、五分の一ぐらいを国に預け、自分の五分の一の生(時間、集中力など)を、その責任を果たすために使えば、私にとって、適度だと思います。無論、国から受ける恩恵も、自分の必要の、五分の一を、満たすだけのものです。 そして、このときの国とは、人類という国です。   国は、民のことを、考えない。国にできるのは、国のことを考えるだけです。そのことで、国に属する民のことを考えていることにはならない。 国は、国民ではないからです。 我々は国を使うのであって、国に使われはいけないのです。 この戦争における激しいやさしさは、人間の盾としてイラクにいる多国籍の非戦闘員たちだと、私は思います。 彼らは、他人のために命を投げ出しています。 不自然な行為だといえばそうですが、人間的だといえば、そうもおもえなくもありません。 純粋な、激しいやさしさを持っている人ならば、アメリカの侵攻の盾になるのではなく、中東に生息する、人間を含めた動植物のことを思い、涙するような人だと思います。このやさしさが激しいためには、 イラクとアメリカ、それを見守る国連を、きびしく叱咤するような、熱烈な情動にある人だと思います。  この戦争は、地球人の内戦です。 内戦をしている場合ではないと、私は思うのですが、同じ統一への経過だとしても、支配による統一と、和合による統一は、やはり異なると思います。 支配による統一は、支配されるものと、支配するものがいるため、また内紛がおこります。和合ならば、それが無いため、内紛がおきにくい。 決裂という形で起きるかもしれません。 しかし、地球は一つの星であり、分断できないので、決裂は不可能だという認識もいると思います。統一に失敗すれば、悲惨でしょう。

noname#3511
質問者

補足

>私が、言うところですが、本質としての命には、形が無い。 この記述の訂正です。 本質としての命には、形が無いのですが、無いゆえに、あらゆる形に命を捧げれるもの、あらゆる形あるものないもの、中途なものに、命があるのだということを、付け加えたい。 よろしくお願いします。