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人の気持ちを決める原因
心理学は詳しく知りません。心理学に詳しい人に質問します。 新聞やテレビでは、現在の社会状況を、人々が希望が持てない社会、絶望的な社会だと言ってます。 老人は社会保障が貧弱だから生活が不安。労働世代は雇用や収入が保障されないから不安。若者は安定した職に就けるか、将来社会保障が破綻するんじゃないかと不安。だから人々が希望を持てない絶望的な社会だといってます。 つまり、直接的には言ってなくても、間接的な表現として、人々が希望を持てるか、絶望するかは、社会の状況で決まる、個人の受け止め方や考え方は関係ないと言ってます。 実際には、逆境にあっても、精神的にくじけず、希望を持って、積極的に生きている人は、たくさんいるし、逆境だったら、精神的にくじけて、絶望して、消極的で投げやりな生き方をする人も、たくさんいるし、ものごとに対してどのような受け止め方や考え方をするかは、個人の性格による差が大きいと思うのですが。 ものごとに対する受け止め方や考え方は、持って生まれた素質により個人差があるのは一般常識だと思うのですが、人の心理は個人差は関係なく環境で決まるという認識は、心理学の学説で科学的に証明されていますか、それとも、新聞やテレビは科学的に根拠が無いか間違ってることを言いふらしているのですか?
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こんにちは、 お礼を拝見しながら、少し補足的に回答させて戴きます。 > つまり、ものごとに対する個人的な受け止め方や考え方が認識や気分を決める主要な原因で、 > 環境条件は補助的な原因ということでしょうか? 「環境条件」という言葉をどのように定義するかによって、違ってくると思いますが、 もしも、「環境条件」が現実の世界の状況ということなら、 >> 絶対の客観が存在しないように、絶対の事実も、私たちは知ることが出来ません。 との主張の私の趣旨と矛盾することになり、少し解釈が違っているように思います、 質問者さまが仰る「環境条件」も誰かが、解釈した結果であり、 それも、自分の事実の中に組み込まれてしまいます。 私たちは世界そのものを、直接感じることが出来ません。 私たちの脳が、五感の電気信号を通して世界を再構築していることと一緒で、 人間である限りこの束縛から逃れることが出来ません。 > 環境条件は補助的な原因ということでしょうか? 「環境条件」は「個々の事実」に取り込まれるために、補助的どころか主流にさえなります。 その比率は、どれだけの人間が無批判にマスコミや評論家の意見を受け入れるかどうか、 によって当然違ってきますし、それを受け入れた人間が再発信しますので、 あるレベルを超えると、時代の空気となり、次第に蔓延していくと考えられます。 当然、世間一般に、マスコミ・評論家の流布する、「絶望感」が広がれば、 右へならえで、その絶望感に追従する人間達は多く、日本人の特質とも相まって 「絶望感」は主流となり、絶望感というフィルターを通して世界を眺めることになります。 こういった状況をチャンスと捉えられる人間だけが、成功する可能性を持っていると思われます。 そして、蛇足ながら… 「物が売れなくなっていること」や「企業が赤字を出している」(←客観的な事実)と そこから、マスコミや評論家が作り出した絶望感(時代の気分)とをシッカリと分離して、 客観的な事実に基づいた考え方が、他人の幻想や妄想を受け入れない思考法です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4241939.html こちら↑の、No.19の私の答え(ゲシュタルト療法のインナー、アウター、ミドル)の考えに 先の思考法のヒントがあります。 マスコミはよく「100年に一度の不況」などと言いますが、100年前と現在とどれだけ、 経済だけでなく、周りをとりまく様々な状況がどれほど違うか、少し想像するだけで、 100年に一度の不況が科学的検証が不可能なのは、明白な事です。 こういった、省略され、歪曲され、(無理やり)一般化された、彼らの事実を無批判に受け入れ 私たちの事実とするのは、如何なものか?というのが、先の回答の趣旨です。
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- Diogenesis
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失礼ながら質問者さんの論の進め方にはいささか乱暴なところがあるように感じます。 揚げ足を取るわけではありませんが,質問文の流れに沿って見解を述べます。 >新聞やテレビでは、現在の社会状況を、人々が希望が持てない社会、絶望的な社会だと言ってます。 経済が(そして人口も)右肩上がりだった時代には 「今日よりも明日の生活は豊かになるはず」という漠然とした希望が多くの国民に共有されていたけれども, 現在はそうではなくなったきたというのが趣旨だと思います。 ひとりひとりの希望が少しずつしぼんだのか,希望が持てない人の割合が増えたのか。 おそらくはその両方でしょうが,いずれにしても, これは日本の社会全体を見渡しての,集合現象としての気分の話です。 >人々が希望を持てるか、絶望するかは、社会の状況で決まる、個人の受け止め方や考え方は関係ないと言ってます。 少なくとも「個人の受け止め方や考え方は関係ない」とは言っていないでしょう。 >ものごとに対してどのような受け止め方や考え方をするかは、個人の性格による差が大きいと思うのですが。 というか ものごとの受け止め方や考え方(≒認知),対処の仕方(≒行動)の個人差を性格(personality)と呼んでいるのです。 個人差を大きいかと見るか小さいと見るかは視点によって違ってくるでしょう。 心理学について言うなら,特定個人や特定集団の成員だけを射程にした研究もあるとはいえ, 人類共通の法則,さらには人類を含む動物一般に共通の法則の探求へと普遍性のより高い方向を目指すのが基本姿勢です。 その場合,個人差は誤差として扱われることになります。 >ものごとに対する受け止め方や考え方は、持って生まれた素質により個人差があるのは一般常識だと思うのですが、 持って生まれた素質,すなわち遺伝による個人差があるのは事実ですが,遺伝だけでは決まりません。 ある形質の分散(≒個人差)のうち,遺伝で説明できる分散の割合を(広義の)遺伝率と言います。 遺伝率は一卵性双生児と二卵性双生児の比較や,実子と養子の比較などから推定されますが, 身体的形質である身長の遺伝率は0.86,体重の遺伝率は0.80であるのに対し, 種々の認知能力や行動傾性の遺伝率はおおむね0.6から0.3のあいだに収まります。 認知的・行動的形質に関しては遺伝以外の要因,すなわち環境の影響が相対的に大きいということです。 また特定の対象について好きか嫌いか,信じるか信じないかといったことを心理学では態度(attitude)と呼びます。 態度は感情を伴うと同時に行動を方向づけるものですが,性格よりもさらに環境の影響が大きいことは明らかでしょう。 さらに特殊な状況下では,性格や態度の違いに関係なく多くの人が同じように行動してしまうことが, アッシュの同調実験,ミルグラムの服従実験,ジンバルドの監獄実験など,有名な(というか悪名高い)研究によって示されています。 人間は「状況の力」に抗し難い存在だということです。 >人の心理は個人差は関係なく環境で決まるという認識は、心理学の学説で科学的に証明されていますか 世間の思い込みに反して心理学は「心理」なるものを扱いませんが, 上で述べてきた性格,態度,感情,行動などをひっくるめて「心理」と呼ぶならば, 「持って生まれた個人差はたしかにあるけれども,環境によって決まる余地は少なくない」というのが 心理学が明らかにしてきた事実です。
お礼
回答ありがとうございます。 >質問者さんの論の進め方にはいささか乱暴なところがあるように感じます。 私は政治的・社会的な主張や、心理学についての主張はしていません。新聞やテレビの報道は質問の題材として例示しただけです。質問の趣旨は人の気持ちを決定する原因として、個人的原因はゼロで環境的原因だけで決まるという認識は、心理学の専門家ではない一般市民の日常的経験に照らしても事実ではないと思うのだが、「人の気持ちを決定する原因として、個人的原因と社会的原因は、具体的にどの程度の質と量の影響度があるか」という質問です。 >心理学について言うなら,特定個人や特定集団の成員だけを射程にした研究もあるとはいえ, 人類共通の法則,さらには人類を含む動物一般に共通の法則の探求へと普遍性のより高い方向を目指すのが基本姿勢です。その場合,個人差は誤差として扱われることになります。 私は心理学の素人なのですが、科学の一般的な考え方として、「個体差」を「誤差」と言いますか?誤差とは統計学の概念だと認識してるのですが。例えば、「個体差」や「同じ形質を持つ個体群」を全体的傾向の中で表現する場合、A形質は40%、B形質は30%、C形質は20%、D形質は9%、E形質は1%、のように、構成比率や分布率で表現することが一般的であり、「誤差」と表現することは一般的ではないと認識してるのですが、私の認識は誤解ですか? >身体的形質である身長の遺伝率は0.86,体重の遺伝率は0.80であるのに対し, 種々の認知能力や行動傾性の遺伝率はおおむね0.6から0.3のあいだに収まります。 認知的・行動的形質に関しては遺伝以外の要因,すなわち環境の影響が相対的に大きいということです。 遺伝率の数値ですがどの出典に基づいていますか? 身体的形質は限度が明確(寿命は120歳、身長は240程度が限界)なのに対して、脳の精神的・知的な可能性は現在でも解明されていませんが、身体的形質と比較して著しく多様性が大きいので、精神的・知的な個体差は千差万別であることは認識しています。ただし、千差万別であっても、大部分の人の精神的・知的な形質は標準的な分布の範囲内に収まり、それが法律や常識として社会の秩序になっていると認識しています。
補足
私が質問した題材は、就労の不安や、貧困による生活苦や、社会保障の不備などの、社会の構成員の誰でも経験する可能性がある一般的な問題が、人々を絶望させるのかという質問であり、特殊な環境下や閉鎖的な環境下での心理ではないので、回答内容は質問の趣旨の論証にはならないと思いますが、そのことはとりあえず置いておきます。 >特殊な状況下では,性格や態度の違いに関係なく多くの人が同じように行動してしまうことが, アッシュの同調実験,ミルグラムの服従実験,ジンバルドの監獄実験など,有名な(というか悪名高い)研究によって示されています。 >人間は「状況の力」に抗し難い存在だということです。 「アッシュの同調実験」、「ミルグラムの服従実験」、「ジンバルドの監獄実験」については、心理学の素人の私でも知ってます。回答者様は「特殊な状況下では,性格や態度の違いに関係なく多くの人が同じように行動」と「全称命題で断言」していますが、私は上記の実験結果は特殊な環境下での実験結果であり、心理学の世界において、全ての人(または大部分の人)に普遍的に成り立つ理論としては証明も認知もされてないと認識しています。 ジンバルドの監獄実験の結果が普遍的法則なら、世界中の刑務所で、全ての刑務官は収監者を拷問するはずですが、現実はそうではありません。先進国の刑務所では一部の不心得者が収監者を拷問することは稀には起こりますが、大部分の刑務官は受刑者の更生のために職務を遂行しています。イラクのアブグレイブ刑務所で起きた拷問は、捕虜の扱いについての教育不行き届きにより、一部の軍人が起こした行為で、大部分の軍人は捕虜を拷問してません。グアンタナモ基地での捕虜に対する拷問は、テロを阻止するために「CIAがアメリカの国内法や軍法を無視して組織的に行った」ことです。第二次世界大戦当時でも、捕虜に対する殺害や拷問は例外的です。 アッシュの同調実験の結果が普遍的法則なら、社会は永久に変化しないはずですが、現実には社会は時代とともに変化しています。今は先進国と評価されている国でも、昔は帝国主義や植民地主義や侵略戦争が国家の政策であり、奴隷制度や身分制度や人種差別制度や死刑や身体刑や拷問が法律または慣習として存在していた時代があったが、奴隷保有者や身分制度の支配階層や人種差別の差別階層や一般市民において、そのような政策や制度に疑問を持つ人が時代とともに増加し多数派になったために、奴隷制度や身分制度や人種差別制度は全ての国で廃止され、死刑や身体刑や拷問は多くの国で廃止され、帝国主義や植民地主義や侵略戦争は大部分の国が廃止しています。 ミルグラムの服従実験が普遍的法則なら、被服従者は永久に服従しているはずだが現実には永久に服従はしていません。奴隷や被支配階層や被差別者や植民地の民衆は、奴隷制度や身分制度や人種差別制度や植民地支配と戦ってそのような状態から脱却し、一般市民の地位や独立を獲得しました。カルト宗教団体やテロ組織や犯罪組織の構成員が、組織の実態に疑問を持ち批判し、自分の利害損得に有害無益と悟って脱退することはよくあることです。イスラム圏の一部の国や地域では女性に対する「名誉の殺人」や「性器割礼」が慣習として行われてきましたが、そのような慣習に服従することを拒絶し、そのような慣習を批判して戦っている人も多数います。家庭内暴力や性暴力の被害者が加害者を告発することはよくあることです。セクハラやパワハラや組織の犯罪や不正行為を内部告発することもありふれたことです。 上記の実験結果が社会の現実に照らして普遍的に成り立たないことは、上記のような現実の事例で多々証明されていると認識しています。特殊な環境下での事件結果や希少事例を一般的法則や普遍的法則と認識することは科学的真理ではないと思います。私の認識と、回答者様の「全称命題で断言」する普遍的法則化とどちらが科学的な真実ですか? >態度は感情を伴うと同時に行動を方向づけるものですが,性格よりもさらに環境の影響が大きいことは明らかでしょう。 >「持って生まれた個人差はたしかにあるけれども,環境によって決まる余地は少なくない」というのが心理学が明らかにしてきた事実です。 社会に問題があるから絶望して自殺や犯罪をする人は統計的には著しい少数派で、失業したら次の仕事や就職先を探す、貧困による生活苦があるなら、社会保障が不備なら、貧困をなくし社会保障制度を充実させるための社会運動や主張をする人が多数派なのが現実です。質問の趣旨は、「人の気持ちを決定する原因として、個人的原因と社会的原因は、具体的にどの程度の質と量の影響度があるか」という質問です。
- tumaritou1
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私は素人ですが、気がついたことを書いてみます。人間は天の邪鬼な所があると思います。社会が豊かになってくると精神疾患が増えたり、自殺者が増えるという事実があります。豊かになりすぎた社会がその豊かさが続かなくなりそうな時には、なおさらその数が増える傾向があると思います。 それは、生きることに困難を感じなくなって、生きてゆく事が簡単という錯覚をしてしまうことかと思います。そのためにもっと楽をしたいという感じになってしまっている姿という気がします。つまり生きる事もに対しての耐性が失われたという意味になるかも知れません。 内戦が激しくて、命の保証などのない国の子供たちや、青少年には自殺者がいないという事実があります。生きてゆく事に懸命になっている状態は、生き抜く力が「自然と」湧き上がってきて、楽に生きて行ける社会は生命力の芽を摘んでいるのかも知れません。 食べ物が無くて飢えている国の出生率が高くて、豊かになった国の出生率が低くなるのと同じ原理かも知れません。 今の日本のマスコミの論じている事は、只今の豊かな生活が脅かされている、という事を言いたいのかと思います。明日の事を、今より悪くなるかも知れない、という事を論じているのかも知れません。内乱の起きている国に比べて、日本は良い国とか、仕事がない国、例えば北朝鮮などや、発展途上国よりはよっぽども良い、という事は発信する必要がないという観点かも知れません。 国民性という観点からみた場合には、日本人では今日の食べ物を確保できない人はほとんどありません、ですが日本人は皆、多かれ少なかれ生活が脅かされるのではないかと「心配」しています。 あべこべに、今日食べるものがない国民は必死で生きているために、返って、明日の事や人生については楽天的に見えます。これは私だけの見方でしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 新聞やテレビの報道は質問の題材として例示しただけで、質問の趣旨は人の気持ちを決定する原因として、個人的原因と社会的原因はどの程度の質と量の影響度があるかという質問です。 自殺率についても、新聞やテレビの報道では、就労の不安や、貧困による生活苦や、社会保障の不備などの社会的原因が大きな原因(もちろんそれも原因の一つである)と指摘されていますが、日本は昔から先進国の中では自殺率が高い国です。厚生労働省の統計によると、1998年以後自殺率が人口10万人あたり20人台になり、社会的原因が指摘されていますが、1950年代も自殺率が人口10万人あたり20人台が続いた時代で、史上最高の自殺率も1950年代に記録れています。戦後最高の殺人率も1950年代の人口10万人あたり3.5で現在の1.0前後の3倍以上であり、凶悪犯罪の増加や治安の悪化という報道は全く事実に反します。1960年代以後自殺率が人口10万人あたり10人台が続いたのですが、1998年以後は前記のとおりです。つまり、日本の自殺率の高さは現代だけの状況ではない。 自殺率の国際比較でも、高福祉で貧富の格差が少ない北欧諸国は自殺率が高い部類に属し、公的な社会福祉が貧弱で貧富の格差が大きいアメリカは日本よりも北欧よりも自殺率が低いので、就労の不安や、貧困による生活苦や、社会保障の不備などの、社会環境以外の何らかの原因が影響していると思います。
ご質問の文章を読む限りでは、質問者さまが曲解されているように思います。 新聞やテレビで言ってるのは、 >現在の社会状況を、 >人々が希望が持てない社会、絶望的な社会 と、これは、「社会について」どうか?という話ですよね? 社会についてどう思うか?と聞かれたら、社会保障や失業の問題などがあるから、「希望が持てない」「絶望だ」と言う答えをするのではないでしょうか。 それは「私の人生そのものも希望が持てない、絶望です」とは言ってないのです。 社会について「絶望だ」と言ってるのを、質問者さまが「生き方にまで絶望している」と勝手に解釈しているだけです。
お礼
回答ありがとうございます。 社会の状況と個人の気持ちや人生はイコールではないけど、大部分の人は社会から離脱して離島や山奥で自給自足の生活をしているわけではなく、社会の中で就労し生活しているのだから、就労の不安や貧困による生活苦や社会保障の不備は、人々の生活と密接不可分であるから、人々の気持ちにも何らかの影響、どの程度の影響を与えているのか、という質問です。
- harrywithers
- ベストアンサー率60% (199/331)
こんにちは、 > 人の心理は個人差は関係なく環境で決まるという認識は、心理学の学説で科学的に証明されていますか、 そのような学説が証明された、ことはありませんし、これからもあり得ないでしょう。 コミュニケーションの中で、私たちは常に、省略・歪曲・一般化、という作業を行っています。 これは、個人もそうですが、マスコミも同様です。 この文章もそうですが、“省略”すること無しに、質問に答えようとすると、 それこそ、厚めの本一冊分の文章を書かなければならないかも知れません。 しかし、大量の文章で正確に答えようとした時のデメリット(時間、(私の)知識、 文章力や見返り等)などを考えると、そんなことはしていられません(スミマセン) そこで、大幅に、省略し、判りやすく歪曲し、納得してもらうために一般化して、伝えます。 これが、コミュニケーションで起こることです。 そして、私たちは、外の状況(事実)を、自分のフィルターを通して、 省略し、歪曲し、一般化して受け取り、その受け取った仮想事実に対して、 個人の記憶、信念、価値観、経験(記憶)を使って判断を下し、 判断を下した結果として“気分”が現れます。 ちょっと余談ですが… 先日、ちょっとした手術を受けて来ましたが、半身麻酔で行う手術でしたが、 医者に、「痛みにつよいですね~」と関心されましたが、これには(心理的な)コツがあり、 手術中には、「私は人間じゃない、私は物です」と自己暗示をかけていると、 余り痛みを感じないで済みました、そこで、私がちょっと困ったのは、医者自身が 「痛いですよ~」と言って、私の感じることを決めてしまうことでした。(恕) まぁ、その辺は、学んで来ましたから(笑)「俺の感じることを、お前(医者)が決めるなぁ」と 思いながら、対処してまいしたら、さらに困ったのは、人が折角“物”に成っているのに 「○○さん、返事をして!」と何度も意識を確認されることでした…(泣) やれやれ、また人間に意識を戻さないと(笑)と思いながら対処しました結果が、 「痛みにつよいですね~」ということでした。しかしながら、 私個人は、決して我慢強い人間ではありません、腰痛持ちですが、 内からの痛みには耐えられませんし、「拷問で痛めつけてやる」と言われた 絶対、あること無いことさっさと白状します、断言します。 ※多重人格や離人症の理論の逆応用って感じでしょうか、自分がここに居て、 手術を受けている人間だと思わなければ、痛みもある程度軽減できます。 このように、私たちの気分や判断を決めているのは、外の事実ではなく、 外の事実を解釈した、「自分の事実」なのです。 絶対の客観が存在しないように、絶対の事実も、私たちは知ることが出来ません。 私たちは、常に自分の事実によって、気分を構築します。 ※人は自分の事実によって、鬱にもなりPTSDも引き起こします。 質問者さまが、『人々が希望が持てない社会、絶望的な社会』とかのマスコミや評論家の 判断を受け入れるのは自由ですが、本物の社会は、その解釈と違うところで動いていると思います。 ヒョーロンカやますこみの、解釈を無批判に受け入れて、絶望的になるのは、 それこそ無意味…というよりつまらないじゃないですか? 何で、「私の気分をお前が決めるんだ~、お前が飯食って、 俺が○○する訳?」(おっと品性の無さが…)てな感じです。
お礼
回答ありがとうございます。 >コミュニケーションの中で、私たちは常に、省略・歪曲・一般化、という作業を行っています。 >私たちは、外の状況(事実)を、自分のフィルターを通して、 省略し、歪曲し、一般化して受け取り、その受け取った仮想事実に対して、 個人の記憶、信念、価値観、経験(記憶)を使って判断を下し、 判断を下した結果として“気分”が現れます。 >私たちの気分や判断を決めているのは、外の事実ではなく、 外の事実を解釈した、「自分の事実」なのです。 絶対の客観が存在しないように、絶対の事実も、私たちは知ることが出来ません。 私たちは、常に自分の事実によって、気分を構築します。 心理学に詳しくない私が、うまく言葉で表現できませんが、回答者様の解説はなんとなく理解できます。 人は、ものごとに対する個人的な受け止め方や考え方のフィルターを通して現実を認識する。できるだけ客観的に認識しようと思っても、ものごとに対する個人的な受け止め方や考え方という主観をゼロにすることはできないので、「絶対的な客観」はありえず、主観による何らかのフィルタリングやバイアスがかかった「仮想現実」を真実と認識して、その認識に対して、個人的な受け止め方や考え方という主観により判断して「気分」が決まる。 つまり、ものごとに対する個人的な受け止め方や考え方が認識や気分を決める主要な原因で、環境条件は補助的な原因ということでしょうか?
素人ですが、問題点については天候とその対策のようなものではないでしょうか。おもにマスコミが言っているのは「今は天気が悪い」ということで、その対策までは言及していないということだろうと思います。天気が悪いなら外出を控えようという人もいるでしょうし、傘をさして出かけようという人もいるし、合羽を着ていこうとする人もいると思います。別に間違っているところはないように思います。
お礼
回答ありがとうございます。
お礼
追加で回答いただきありがとうございます。 >「環境条件」も誰かが、解釈した結果であり、 >それも、自分の事実の中に組み込まれてしまいます。 >私たちは世界そのものを、直接感じることが出来ません。 >私たちの脳が、五感の電気信号を通して世界を再構築していることと一緒で、 >人間である限りこの束縛から逃れることが出来ません。 >「環境条件」は「個々の事実」に取り込まれるために、補助的どころか主流にさえなります。 >その比率は、どれだけの人間が無批判にマスコミや評論家の意見を受け入れるかどうか、 >によって当然違ってきますし、それを受け入れた人間が再発信しますので、 >あるレベルを超えると、時代の空気となり、次第に蔓延していくと考えられます。 >当然、世間一般に、マスコミ・評論家の流布する、「絶望感」が広がれば、 >右へならえで、その絶望感に追従する人間達は多く、日本人の特質とも相まって >「絶望感」は主流となり、絶望感というフィルターを通して世界を眺めることになります。 >(←客観的な事実)と >そこから、マスコミや評論家が作り出した絶望感(時代の気分)とをシッカリと分離して、 >客観的な事実に基づいた考え方が、他人の幻想や妄想を受け入れない思考法です。 私は心理学の基礎的知識が無いので、回答者様の説明を読んで論理をうまく構築できず、言葉でうまく表現できませんが、回答者様の説明はなんとなく理解できるような気がします。心理学の基礎や社会心理学について勉強してみようと思いました。