• 締切済み

「未来」はよくて「過去」はわるい

横浜の「みなと未来」という地名を聞いて、はっと思ったのですが、なぜ世の中に「未来」というのは、人名でもあるいは地名でも、あるいは一般的概念のプラス思考法的な代名詞として用いられるのに対して、「過去」は何かそれ自体が後ろめたいような、マイナス思考的な響きのものとして認識されるのでしょうか? かならずしも「みらい」などろくなものではないと思います。けだし輝ける「過去」も輝ける「未来」も人により物により、同様に存在します。 また、同様に思いついた例では、「春夏秋」は名前につけるのに、「冬」は非常に珍しいですよね。非常に精神にとっては生産的な季節になりやすいものですし(頭が冴えるとか)、また狩猟時代には狩りの季節でした。 このようになぜ呪文のように、対立語がある一方だけを評価するという認識が出来上がっているのでしょうか。それはあまりにも主体性客観性を両方とも欠いた思い込みでしかないのではないでしょうか。

みんなの回答

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.5

あくまでも、持論です。そして、穴だらけですが、 未来を見通すにあたって、過去は手掛かりになり、未来は目標になります。 未来を見通すにあたって、「過ちを冒さないためには、あのように(過去)しなければ良い」という振り返りは、たたありますが、過去を軸に、逆を考えると非常に難しく感じませんか。私は、「過去の快楽に浸る」くらいしか思いつきません。要するに、快(良)という評価に結びつき難いと。 「より良く生きるため」に引き出される「過去」は、「失敗としての過去(悪の評価」と「成功としての過去(良の評価」ではどちらが多いでしょうか? 次は、未来に関してです。「私は、ああ成りたい」と、目標を抱くことは、常に「未来」です。逆に、「私は、癌でなくなる」なんて考えますか?確かに、「癌になりたくない」と思いますが、それは「今、どうするか?」という現在に結びつくと思います。 目標をみる時(未来)、「悪の評価の目標」と「良の評価の目標」のどっちをよくみますか? 私が、主張したいのは、人間は「生存機械」であるということ、「生きるための機構が備わっている」ということです。 生きるための傾向性としての表れが、過去の悪評価への偏り、未来の良評価への偏りになるのではという考えです。

garcon2001
質問者

お礼

よい過去を思い出すことで、未来へのカテにできることもあります。よいっていうのは色々なレヴェルがありますけどね。なにかほっとすると言うか叙情を感じるような。 やはり、時間軸に沿って生きると言う運命を負っているのでしょうかね。

回答No.4

未来には答えがないうえに、ろくでもない未来なら自殺して人がいなくなる から自然と未来は夢があると思うようになっただけでは? 死のイメージをなるたけ思い描かないようにするのは生き物としては ごく普通の行動パターンだとおもいますがね。 ギャンブルだって何分か先の未来にお金をかけているわけですし、 ろくでもない結果しか出ないとしか思えないなら公営ギャンブル場は 閑古鳥が鳴いているでしょう。

  • morino-kon
  • ベストアンサー率46% (4176/8936)
回答No.3

おお、私の悩みと正反対で、新鮮です。 私は、姑や高齢者に、いつも呪文のように、 「昔は何でもよかった。 今は、何でもわるくなるばかりだ。」 と言われ、うっとおしく思っています。 昔は、郵便局でも銀行でも、窓口で人に言えば何とかなった。 今は、何でも機会を操作しなければならない。 今は、何でもお金がかかる。 ネットが便利、携帯が便利といっても、お金がかかるじゃないか。 高齢者仲間には、だれも公共施設の予約ができない。 昔は、人間も親切だった。 これから先は、悪いことばかり怒るではないか。 ・・・云々。 「輝かしい過去だって・・・・」 なんて言ったら、姑は飛び上がって喜ぶでしょう。 過去も未来も、どちらがすばらしいかなんて、比べられるわけがありません。だって、未来は、まだわからないのですから。 でもね、未来につながっているということを意識するのは、重要なことです。 未来に素晴らしいものがまっているのであれば、今日の苦労ものりこえられます。 が、過去がすばらしかったからといって、今日は苦労してもいいなんておもいますか? 人は、輝かしい未来を信じて、今日を乗り越えていくもんじゃないでしょうか。

garcon2001
質問者

お礼

姑や高齢者が言うような、古のよきところは私も実感するところです。人間的な対応って言うのが、結局は1番元だと思うんですよ。こっちはコンピューターじゃなく感情を持った精緻な人間なんですから。 「過去」の栄光輝きは、そこらじゅうに散らばっています。しかし、それをものめずらしさ以外に採択しようとしませんね。みんな未来未来の大合唱になっている。 過去がすばらしかった、それを心のよりどころとしようという姿勢もありだと思いますね。私の個人史はまったく違いますけど。 輝かしい未来なんて、果たして信じるに足るのでしょうか。

noname#93436
noname#93436
回答No.2

>このようになぜ呪文のように、対立語がある一方だけを評価するという認識が出来上がっているのでしょうか。 その認識が、質問者さまだけの主体性客観性を欠いた思い込みでしかないと思うのですが。 過去はマイナスイメージだけではありません。 「思い出」とか「懐古」というような、プラスイメージもあります。 「冬」も同じです。名前にも多くつけられますし、冬と聞いて「きれいな空気」や「屋内での家族団欒」や「美味しい食べ物」をイメージすることも多いと思います。 質問者さまのおっしゃっていることは、ひとつの事象を片側からだけしか見ていないのだと思いますが。 ただ、過去にいい思い出がない人にとっては未来の方がいいイメージでしょうし、寒いのが嫌いな人には冬は悪いイメージでしょう。 それだけのことだと思います。 そしてもっとマクロの目で見れば、その感覚は平均的に分散していると思いますよ。 質問者さまの言われるような「対立語がある一方だけを評価する」ということはないと思います。それこそが質問者さま個人の思い込みだと思うのですが。

garcon2001
質問者

お礼

私の聞く分野でとくに偏っている印象があるのでしょうか。たしかにところ変われば、「伝統」「古」などそれを売りにしている例は数多くあります。一方で、新都市やら新興住宅的な、それこそ伝統がないところでは、どうしても未来を売るのでしょうかね。また名前でも、あえてこれからの人生に伝統ということではないのかもしれません。しかし、名前の冬はどうも聞きませんね。はるかに例が少ない。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

時間というものがキーワードではないでしょうか。直線状の時間を考えて場合時間は逆戻りしませんから過去は死んだもの、未来は生きたものに対応させるのが自然だろうと思います。もちろん過去は未来の前提になりますから粗末にして良いものではありません。しかしわざわざ過去に重点を置かないでもよいでもよいということではないでしょうか。いわゆる伝統を重んじる場合には過去の長い歴史を強調した命名がなされることもあるのではないでしょうか。たとえば開港100年祭などです。春夏秋冬の方は円環的時間で考えると冬は死を意味しますが春への再生にもつながります。冬子という名前はそれほどまれではないとも思います。価値観自身はそれこそ立場によっても時間によっても大きく逆転することはむしろよくあることではないでしょうか。

garcon2001
質問者

お礼

確かに、過去はすでに「死んだ」「完了した」という意味合いですね。すなわち希望はない。どうしても、時間の矢は一方方向にしかすすまないならば、可変的につかめる可能性を追おう、という姿勢なのでしょうか。伝統を重んじることというのも、それができる例というのは、個人的にも集団的にもはるかに少ないのでしょうね。しかし、冬はどうも名前にないですね。

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