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葬式仏教について

もともと仏教のお経は死者を弔うために書かれたものではないと思いますが、葬式や弔いの儀式で、僧侶が役割として読経するようになった起源は、いつ頃、どこの国にあるのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.1

葬式仏教については以下を参照されるとよいでしょう。  葬式仏教 [フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99 平安時代以前は仏教は国を治める教えとしての地位を得ていたのですが鎌倉時代には仏教の意味もわからなくなり、念仏お助け仏教になり下がり、戦国時代を経て江戸時代期以降、葬式仏教になったということでしょうね。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 参照項目の文中にあったお釈迦様の言葉、「僧侶は遺骸の供養など考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる」という中の「供養」が具体的にどういうことを指していたのか興味があります。 多分、単なる遺体の後片付けというほどの意味だったのではないかと思えるのですが…。

その他の回答 (7)

回答No.8

 回答番号:No.6  ヒンドゥ的な観として、地上界(経験界)への誕生には二種類ある。  (1)自分自身の務め(カルマの完遂)  (2)指導、地上的存在意識の引き上げ  ですから、回答番号:No.5さんのご回答で思いついたのですが、他人(他人にいる存在意識)の苦悩やカルマのお手伝いをするための誕生もあるわけでして、回向(えこう)やカルマのお手伝いで片一方を支える人も当然おられるということです。  追善やいろんな供養や回向とはそういう意味では同じ地続きのことになるのでしょうね。  習俗としての葬儀行為を問題にされているのであれば、幕政時期やその前後の葬儀などをお調べになるのでしょうか。  (連関して思いましたことです)  小乗っていうのは一定の正式ではいわないようですね。  上部の教えと修行も、大乗を思わないものはないでしょうし、大乗でも、上部の教えと修行をしないでは不十分ではないでしょうか?  実際に不可能ですものね。  だからこの区別は、つまり釈尊のときのとかどうとかは相対的なものではないでしょうか。  自分は菩提寺が仏教ではあっても、仏教徒ではありませんが。

chongaa
質問者

お礼

No.6、8と詳しい解説ありがとうございます。 実際のところ私の関心は、葬式仏教そのものというより、むしろそれ以前、葬送儀礼が形式化する前の段階で、仏教本来の死に関する思想が、実際の葬送儀礼との折り合いをどうつけていたのかということです。 しかし回答者さんご指摘の通り、仏教のあり方そのものがとても多様化していますし、仏教をとりまく習俗も地域、時代によって様々かと思います。 ただ、すべての仏教の源流であるお釈迦様まで遡ると、むしろ話はシンプルかなとも思います。 皆さんのご回答からも察するに、初期の仏教教団は葬送儀礼とは無縁で、どちらかというと思想家集団的だったかと思います。 一方で、当時のインド社会はバラモン文化の成熟期で葬送儀礼も今の日本のように思考停止状態の習俗化していたのではないでしょうか。 そうであれば、かえって両者が摩擦を起こす懸念はないのかなあと、そんなことを考えていました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.7

追伸 >>それは大乗仏教的な解釈で、お釈迦様の時代にはそういう思想は無かったのではないでしょうか? 後年、弟子の修行も進み霊能力がついたとき、ある弟子が死んだ自分の母が地獄で苦しんでいる姿をみて、釈尊に問うのですね。母を救えませんかと、このとき釈尊が弟子に教えたのが回向という概念ですね。縁ある者が悟りの力を手向ける、それにより救うことはできるといったのですね。ただ、相手の努力も必要で切削同時ですね。 この話にあるように縁ある死後の霊を彼岸に渡すという教え(先祖供養)もあったのですね。 また、釈尊の時代とはいえ伝統的なバラモンが多かったのですね。弟子もバラモン出が多かったですね。在家信者が守るべきは5戒ぐらいですから伝統的バラモン式の供養(儀式を含む)も需要があったのでしょうね。そのような儀式の要求にたいする釈尊の寛容な答えが「在家がやればよろしい。」なんでしょうね。 >>また、あったとして、そういう供養がお釈迦様に必要でしょうか? お釈迦様に「そういう(上記の意味)供養」は必要ないですね。 お釈迦様に対する供養は、感謝をあらわすことですね。 釈尊は生きながら神々の長(仏陀)としての自覚を得たのですから仏陀への感謝としての供養(布施)は受けるのですね。 供養にも釈迦如来に対する供養の意味と先祖に対する供養の意味といろいろあるのですね。 参考程度に

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 後世の伝記や説話の中でのお釈迦様の思想が本物とは思えませんが、回答者さんの仰るように、お釈迦様の供養に関する発言は、生前から受けている布施の延長といった感覚で、「なさりたいのならどうぞ」的なニュアンスはあるように私も感じました。 で、まあ供養は気持ちの問題であるとはいっても、現実問題としてお釈迦様の死後には聖人ブッダの遺体をどう扱うかという問題はあるわけで、そういうところも慮ってお釈迦様は「よきにはからえ」という意味で仰ったのかと思って、No.1お礼で「遺体の片付け云々…」と書きました。

回答No.6

 供養って、いろいろにつかわれるけれども、所謂る追善供養というものですね。  人生のことを述べ、慰め、誉め、たたえて、安らかに向かいなさい。  み仏よ、どうか受け入れてください。  という趣旨の思想ですよね。そういうことのための読経(どきょう)とか仕草ですね。  仏教国でも(でも)、これは長くやっているようです。  死者の書(The book of the death)でも、道案内して、迷わなくいけるように導くところもありますね。  思想専門分野の仏教も、あるし、やはりそういう導き(両者は流動的、関連的)の分野もあるのは当然ですね。  長い歴史があると存じます。  民俗(族ではない)の問題ですね。  死者の慰めと祈り、導きの所作や職業は、孔子の時代の巫祝職業集団にもありましょう。埋葬に関連して。  そして仏教も習合して、読経もあげるようになったのでしょう。  中国では道教(タオ)とはいっても、そういう職業層の方が居まして、先日お会いしました。  南無阿弥陀仏を称えていました(なむあもたーぽー とか)。  特定の民俗の仕草の歴史は、そのやりかたを遡ることになるでしょう。  幕藩のお寺が住民届けや戸籍がかりみたいなことをやっていた時代からの今日のやり方を遡るのであれば、仏教史よりも民俗学などになるのでしょう。  職業的仏教葬儀の歴史になりましょうか。回忌などもからむでしょう。まぁ葬儀史となりますよね。専門史ですね。

  • dulatour
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回答No.5

少なくとも奈良時代までは、仏教は葬送の儀礼とは関わっていなかったようですね。 南都宗という言われる、「倶舎・華厳・律・・・・えーと忘れました。 ともかく、南都六宗のお寺には墓地もなければ、葬式の儀式も主催しません。興福寺や薬師寺の管長の弔いの時に奈良でなく平安仏教の僧侶が葬式を執り行います。 こんなことを考えると、仏教が葬式に関わるようになったのは、平安時代以降でしょうね。つまり、真言宗や天台宗といった平安新仏教ができてからでしょう。 日本の先輩である中国ではどうであったか、ということに関してはやはり唐の時代以後のことではないでしょうか。 葬式仏教の誕生はやはり、中国での浄土信仰が起源ではないでしょうか。それ以前の仏教は国を治めるための学問であったと思います。浄土教の民衆への浸透が、葬式へと繋がったのでは・・

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですか、南都六宗のお寺にはお墓がなくて、身内の葬儀もやらないいんですね。 浄土信仰と葬送儀礼の組み合わせはとてもしっくりくるように思えます。 真言や天台は加持祈祷のイメージで、どちらかというと現世利益的に民衆化した感じがしますね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

「僧侶は遺骸の供養など考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる」 この本来の意味ですね。 この意味を説明するには多少釈迦時代の話が必要ですね。釈尊の弟子には出家弟子と在家弟子がいたのですね。釈尊はまず出家弟子を教化していたわけですが在家弟子もたくさんいたのですね。在家弟子には竹林精舎の寄進で有名なカランダカ長者などがいますね。有名な文殊も在家といわれていますね。初期の段階では釈尊は出家弟子も在家弟子も分け隔てなく教えを説いていたようですが教団も大きくなったころには出家弟子が在家弟子を教化していたようですね。そういう状況であったから「出家弟子は真理の追求に専念せよ、供養は在家の信者がしてくれる。」といっていたのですね。 ここでの供養は死者を弔うという意味ですね。屍の処理ということではないのですね。死者の霊を弔い説得してあの世に行かせるということが供養という意味ですね。立派な出家弟子がやることは供養ではなく回向ですね。回向というのは悟りの力で死者の霊に光を手向けるということですね。光を手向け反省を促すことですね。 現代では供養といえばお供え物や読経を指しますが、お経を聞いても意味もわからないのでこれでは死者の霊は救えないのは明らかですね。ただ、葬式を通じて自身が死んだことはわかるということですね。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >死者の霊を弔い説得してあの世に行かせるということが供養という意味ですね。立派な出家弟子がやることは供養ではなく回向ですね。回向というのは悟りの力で死者の霊に光を手向けるということですね。光を手向け反省を促すことですね。 それは大乗仏教的な解釈で、お釈迦様の時代にはそういう思想は無かったのではないでしょうか? また、あったとして、そういう供養がお釈迦様に必要でしょうか?

noname#83528
noname#83528
回答No.3

仏教について特別な知識はないのですが、気になったので。 「供養」 >多分、単なる遺体の後片付けというほどの意味だったのではないかと思えるのですが…。 これはいくらなんでも。「懇ろに弔う」という言葉があるではないですか。そこに仏教やお経があろうとなかろうと、親しきものは死者を悼んだのです。それが宗教の始めらしいですね。 「供養」という言葉は仏教専用かどうか知りませんが、なかなかいい言葉だと思います。供はやはりお供えを連想します。養は養生という言葉を連想します。充分な癒し。心だけでもいいのですが、お供えをすることによって心を形にする。 仏教が、それ以外の宗教もでしょうが、国家や民族のためのものでなく、個人にとっても意味のあるものになれば、当然、死を悼む個人の気持ちに応えるようになるのは、疑いのない道だと素直に感じるのですけど。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 回答者さんの「供養」に対する考え方はよく理解できます。 私がNo.1さんへのお礼でいいました「供養」は、一般的な「供養」ではなく、お釈迦さまが自分の死に際して、自分自身になされるべきこととして述べた「供養」です。 お釈迦様自身、自分の死を多くの人が悼むであろうことは分かっていたと思いますが、在家信者によるとはいえ、自身への供養の必要性をお釈迦様自身が語るというのは、どうもしっくりこないのです。 また、生死に向き合って真理を悟り「覚者」となられたお釈迦さまのもとめる供養とはどんなものなのか、興味深くもあります。

noname#117439
noname#117439
回答No.2

供養と言うからには仏様に死者を迎えに来て欲しいから読経するのでしょう。そうして死者が全て迎え入れられて仏となるのならば、迎えに来る仏さんはご先祖様でいいのでしょう。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 分かりやすいと思ったのでつい「葬式仏教」という言葉を使ってしまいましたが、私は現代日本でお経が葬送に使われることを批判的に捉えているわけではありません。

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