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感謝の理由
こんにちは。 以前読んだ本(たぶん仏教関連の本)に、 「他人に深く傷つけられても、その人に感謝する。その感謝によって怒りや恨みを掻き消す」 みたいなことが書かれていました。 自分のことを考えてみると、 傷つきも浅く、相手も親密な人であれば、そのような感謝はいくらでも思いつきます。 しかし、傷つきが深く、相手も疎遠な他者となると、なかなか思いつきません。 どんな人でも何かしら感謝に値する存在だとは思うのですが、 怒りや恨みを掻き消すほどの感謝となると、なかなか思いつきません。 自分を深く傷つけた疎遠な他者に対する怒りや恨みを掻き消す程の感謝とは、 具体的に、どのようなものなのでしょうか? それは、自分を傷つける人の何に対する、どのような感謝なのでしょうか? 宜しくお願い致します。
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文章を読んでて、他の方の返事でそうだなーと思ったんですが、 なので以降の文章は、他の方々の文章の焼き直しのようなもんです。 でもいくつか思いつくこともあったんで、書きますね。 たいして自信はありません。 すべてに感謝する、というのは、人が持って生まれたものです。 愛、だと思います。赤ちゃんならだれでもやってます。 というか、人は本来、そうしたい、そうありたい、と本音では思ってるはずです。理想論としては。 なので、これは、勇気を出して自分に正直に生きる、と訳してもいいかなと思います。 僕自身は、残念ながら感謝という言葉は違和感あるんですが、それは僕のキャラクターの問題で、 愛という言葉だと全くぴったりなんです。 元々すべてに感謝し愛したかった子供が、身内と他人は違う、ということを覚えさせられ、 質問文で書かれている、疎遠な他者と、親しい親密な人、と言うような違いを、自分の本音とは裏腹に作り出します。(というか僕もやってしまいましたー) それがスタート地点になります。僕自身も、こちらを傷つけてきた人も、同じスタートです。 一度この自他分離の地点を踏んでしまっては、もうあと何があっても不思議ではありません。 機械のような感情の仕組みに逆らうことなどできないからです。 それは、発想や直観、感情を司る、人格のメカニズムと関係ありますが、細かいところは僕も考え中なので、ごめんなさい。 どっちにせよ、今の2次的な自分人格を本当と思うのは変ですし、 本音に立ち戻って、元々抱いていた愛と感謝は思い出したいところです。 確か~~、唯識の本で、書いてありました。有名な話で、 自分の右手が大けがしたら、左手は急いで傷の手当てをするだろう、とか何とかです。 自他同一の状態では、発想はそうなりますし、小さい子や、感謝できる人においては、それが自然な発想です。 >傷つける人の何に対する、どのような感謝 その人が、ただあること、存在してることに対する、形のない抽象的な感謝、と無理に訳せばそうなりますか・・・ 「論理的に正しい」ということは、全く正しいことではありません。 それはその人の人格の枠と土台のなかでおいてのみ成立する、狭い正しさです。言い換えると、経験則、でしょうか? あるいは「現実」とも言えると思います。 自分を傷つけた相手に感謝なんて実にばかげた発想と、今の僕の人格では、思ってしまいます。 でも、人格が変われば、自然な発想は変化します。 その視点だと、この感謝は、人格の組み替え(無駄なものをそぎ落とす)、の方法論の一つ、といえないでしょうか? ある種の自己暗示、といってしまうと、何ですが。 そういう方法もあります。 すべてに感謝している状態、という一つの目標に対して、感謝できる、という受け身の状態と、感謝する、という能動的状態が対峙します。 そして、受動か能動、どちらのルートをたどってもいいわけです。 というより感謝している状態、というのは、まさにこの感謝できる、というのと、感謝する、というものが2つ同時に成立しています。 なので、中心である、感謝状態に持っていくのに、 主体的に感謝する、という行為をするのは間違いではないと思います。 ただそれのみでは、自然に感謝している状態ーつまり恨みが無くなってる状態、というのは、一つの極限の到着点といえます。それは無限の遠くにあり、普通に考えて、着けません。 この辺りが微妙で、僕は考え中です、ごめん。 それは、ただ感謝に集中して、集中の度合いが上がることによって起こる人格や発想の変化、として捉えてはいます。 以前こちらで、リラックス=集中、という質問をしたのですが、 感覚の極限を超える現象は、自分の意志で直接起こすわけにはいきません。と言って受け身で起きるわけでもありません。やはり両方がそろうときに、哲学で言うところの止揚、のようなものが起こることで、始めて極限の壁を越えるかなー、と想像します。つたない経験上。 そのあたりは、いろんな宗教書にありますが、 自分をあきらめる無にする~~仏教など。 自分で解決することをあきらめ神にゆだねる、~~キリスト教など、 今の自分、つまり2次的に成長過程で作り出した自分の人格をうそだと気付いて、本当の本音に立ち戻ること、の方法論は、どんな宗教でもたくさん説かれているところです。この感謝の行に限らずですが。 ただ、いまいち厳密性、論理的緻密さに欠けるんですよねー。あとはやって見ろ、という投げだしの様な・・・ そのあたりが気に入らなくて考え中です。 ではでは失礼します。おもしろかったです!
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- h1r0s13
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その方が身を呈して、あなたにお教えして下さっておられると思って下さい。事実、菩薩がそのように顕れることがあります。 お釈迦様が、飢えた虎を前にして、我が身を捧げられた逸話がありますよね。人は、読みかけの本を読みにくるものだと思います。そのページが、その方の悟りの境地でもあるとも思いますが…。 尚、お釈迦様の教えに十善戒と言うのがあります。不殺生、不ちゅう盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見、です。
お礼
ありがとうございました。 >飢えた虎を前にして、我が身を捧げられた すごいですね……
- kasanyo
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その人が与えてくれないと、そういう怒りや恨みを抱くこともありませんよね。 多分、怒りや恨みは自分に与えられた試練なのだと思います。 辛い経験を与えられたことにより、傷ついた時の苦しみとか、悲しみとかがわかる人間になり、大きくなれることに対しての感謝。 与えられてる最中はとても辛いかもしれませんが、 乗り切った後、いい勉強になったと思えば 感謝の気持ちになるのではないかと、私は思います。 乱文で大変失礼しました。
お礼
ありがとうございました。 >辛い経験を与えられたことにより、傷ついた時の苦しみとか、悲しみとかがわかる人間になり、大きくなれること おっしゃるとおりだと思いました。
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お礼
ありがとうございました。 参考になりました。