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ぶっきらぼうは いただけませんか?
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
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bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!
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> RiRong くん どぢゃ? 恋の相手はフィレンツェにおられます。 その方は、度々ソクラテスの名をお話しになるのですが、どちらもすでに、性を無くした方です。神はなくとも、恋人はいます。賢い先人たちが苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたものを数え上げてみると、どうにも悩ましいものを無くし忘れている気がするのですが、どうでしょうか。
お礼
passcard さん ご回答をありがとうございます。 ○ 有神論=無神論。信教・良心の自由。どちらも 対等。 ★ 賢い先人たちが苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたものを数え上げてみると、どうにも悩ましいものを無くし忘れている気がするのですが、どうでしょうか。 ☆ えっ 何ですって? 《苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたもの》ですか? 《がんばって無くしてきた》 ですか? あぁ 取捨選択と言いますからね。 ただし 《捨てる》ことを 《がんばって》したのですか? ★ どうにも悩ましいものを無くし忘れている ☆ あぁ つまり 《捨てるのを がんばらなかった》から 残っているというわけですか。そのものは ★ どうにも悩ましいもの ☆ なのですね? ぢゃ だから がんばろうとはしないということですね? でも けっきょくは 捨てたいのですね? それぢゃあ 捨てましょうか。でも がんばらなくても ふつうに 捨てればいいと思うのですが? すでに――たぶん そのひとだと思うのですが おそらく―― われわれは 容赦なく 棄てたことがあったのではないですか? 同じ要領で ポイ捨てすれば よいのでは? というよりも われわれ人間が棄てようが棄てまいが へのかっぱなのではないですか? そのひとにとっては です。 だから いちいち 触れずにおくことも 何の問題もありません。 あれっ 何の話でしたっけ。
さて、少々くどい、そのわりにやっかいな回答が残っています。「それは 《まなざしを注ぐ・注がれるの上下関係》は きわめて一般的な人間関係であると認めなければならないことが ひとつ。もうひとつには この上下関係を あくまで 人間が その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけないことです」とお書きになったところですが、 認めるとか、認めないとか、これはそういう「認識」の問題ではないという事です。ソクラテスにはわからないと思いますが、人間は恋をするんです。例えば、あなたが「それは一般的な人間関係であると認めなければならない」「その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけない」と、そのように言ったとしましょう。 僕はきっと、そうですねと頷くと思います。 でもね、その理由はそれを「認める」からじゃない。僕があなたに恋するように、それを一般的な人間関係だとすること、意思によって行い作っているとすることに対して、恋しているから、頷くのです。 それが恋であることの証は、あるときは頷いても、またあるときは頷かないというその先が、ついぞ恋する者にしかわからないという、その性質にあるんです。 居着かないとは、そういうことです。
お礼
パスカルデカルト さん ご回答をありがとうございます。 ぢゃ ナザレのひとに恋すれば いいぢゃないですか。 かれは 人間であると同時に 人間でなかったそうです。 人間でなかった部分では 性は 存在していません。 性は存在していないところでは おそらく まなざしも おだやかな やさしい光であったでしょう。あるいは つねに あなたの足元から あるいは みづからの背面を見せてのように・背面をのみ見せてのように どこかから 見護っていてくれる ものみであり 観世音であるでしょう。 といった物語を なんとかして 止揚してまいりましょう。 神のなくなる時代に差し掛かっていると見るべきでしょう。 ナザレのナは言っても キリストのキの字は もう言わない日を早めましょう。そうなれば どんなにたのしいか いまから たのしみです。 RiRong くん どぢゃ?
何というか…わたくしは哲学のどシロウトということでトンチンカンな戯言を厚顔無恥ながらも書かせていただいてきましたが、bragelonne様のおっしゃることは…ちょっとね、40ちょいのわたくしにはとても到達し得ないような「人生の深い円熟期から来る何か得難いもの」を感じてならないのです。 これは天地の差ほどある人徳や教養、知恵を差し引いて、尚、あまりあるのは言うまでもないことですし、たとえばフーコ批判を通じて目指すものは、短絡的でなく、もっと人間の尊厳にかかわるような純粋な思いから発露しているように思えていたのです。 ちなみに、わたくし個人的にはいまだにフーコは≪ハサミ≫という便利な道具だと気にいって使っています。 ん? 何故≪ハサミ≫を思いついたか、ですって?! ま、自分のような≪バカ≫と≪ハサミ≫は、ほら、セットの言葉があるでしょう?(笑)
お礼
mashumaro2さん ありがとうございます。 ブラジュロンヌにとりましては 身にあまる光栄にて まことに忝く候。 向後とも精進してまいる所存でぇーす。 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ いまは 漕ぎ出でな 直前のご回答へのお応えで つぎのように いっぺん 言ってみたかったです。 ――拙者 お主が切れるかな? あっ いや まちがった。 ――お主 拙者が切れるかな? タモリのギャグ いっぺん まねして使ってみたかったです。お礼欄補足欄すべてを使ってしまったものですから。《けんかしている》と言われてしまったからには。―― あぁ これが 男の習性なんですかねぇ。おあとが よろしいようで。
補足
mashumaro2 さん No.26への補足です。(4月23日朝) ★ (No.26)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) 偏差値的価値観=他者との相対化=「構造主義」 対して (β) 脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価=アンチ「構造主義」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについて ようやく考えがまとまりました。 基本的には 両者は ――安易なことばですが――次元が違うと見るべきだと考えます。 まづ 遠まわりします。 1. (α)は 世間(loka-dhaatu)に そして(β)は 出世間(loka-uttara) に それぞれ 当たるのではないか。 [ヰキぺ:世間]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%96%93 2. 世間とは 《移ろい行く領域》であり 《なおまだ開かれるべき何ものか(一般に真実のもの)が 覆われている》場であり また 《区別・差別の関係》だと言います。 3. だとすれば 《まなざしの上下関係》は 世間のつねとなります。 4. 出世間は この世間を 《無明=煩悩》から来る縁起(因果関係およびそれが相互に錯綜する構造)の過程と捉え かつ 移ろい行くものに過ぎないと明らかに見る。その空観に立って生きる。そうすれば 何がしか・いくばくか 縁起の言わば悪循環を 好循環に変えていくことができるということのようです。 5. つまり (β)で そういうことを捉えようとしておられたでしょうか? 6. ちなみに いわゆる《出世》とは この《出世間》という語から出た言葉ですが むしろ (α)の世間において 社会的地位が上がることを言うというのは 皮肉なことのようです。 で 今度は 前回に少し触れた《歴史知性》の類型に照らし合わせてですが 7. (α)として やはり どうせすべては 諸行無常で 移ろい行くものなのだから 基本は 《のっぺらぼう史観》に立つと言う。 8. 中には この無常の世界にあっても 階段を上るということ・また 階段を上って あくまで二階から 世の中を見るのでなくてはいけないという《ヨセ史観》にも進出する。 9. 《アマアガリ症候群》と わたしは 言っています。また 二階に行かなくても ヨセ史観の側に立とうとする思惟形式(ナポレオン崇拝のごとく)は 《アマテラス予備軍シンドローム》と呼びました。 10. 《ただそこにいるふつうの人・ふつうのぶっきらぼう市民》としての《イリ歴史知性》は 基本的に(β)ですが 特に《出世間》とは違う捉え方として考えるに やはり 《国ゆづり》の思想があります。 11. 一歩もしくは半歩 ひとに道をゆづります。社会全体のこととしては 国(市民社会なる第一階)をゆづりっぱなしではいけないでしょうが――それでも 歴史は 民主主義=《第一階に主権あり》 になってきましたが―― 一人の人間としては おそらく 最前線にいるのですが常にしんがりを務めるかのように 九十九匹よりは一匹を とうとび 譲歩の哲学を実践するという損な役回りを引き受けているでしょう。 12. このような意味で (α)と(β)とは 次元がちがうと考えます。 13. (9)で アマアガリを ぼろくそに言ってしまいましたが そのアマアガリの階段を上りつつ立派に《イリ歴史知性》を守りつらぬいた人たちも 多くおられます。これを No.24のお礼欄に つづけて 書きこみます。
>けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? そりゃ、そうでしょう? それ以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。 やっと目的を果たしたぞと思い、きれいさっぱり退会するかと思ったら、どうも僕は、あなたと喧嘩していたらしいのを思い出した。一応、僕だって男ですからね。 そう思ってしげしげ見ていたら、どうもブラジュロンヌさん。僕の目に狂いが無ければあなた、ひょっとしてマシュマロさんに慰められていたのですか。それともこの僕が、あなたに打ち負かされて涙を流して悔しがっているとして、同情なされたのでしょうか。 この僕が、そんなに良い奴なわけないでしょうが。 こっそりこうやって回答を見て、この質問はどうなるのだろうと行く末を考えていたのですが、ひとつ自己流で答えを書かせていただきます。 【Q-4】「愛想」とは、もしも本当の「愛想」があるのなら、それはまっすぐ前だけを見つめる勇気だと思います。表情などは要らない。目だけが、まっすぐ前を向いていれば良い。決して、まわりを見回して振りまくものではないし、まっすぐ向いたその目の前に、いつか必ず現れる対話の相手だけに注がれるものです。 その眼差しこそが、愛想にふさわしい。 それができるのは、いったいどんな人かを考えてみれば、おのずとぶっきらぼうがどういうものか、おわかりになるのではないでしょうか。 それと前にもお話しましたが、いい加減《無主体の構造主義》という道具の使い方を覚えてくださいな(パソコンみたいなもんです)。彼らの定義する認識は、論理思考のための道具に過ぎません。あなたの考える認識と、ごっちゃにしてはいけません。 人間は、道具を使って哲学する時代になったのです。その道具は、主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。人間はそんな自分の考えの「便利なところだけ」を上手に使って、自らの信仰とともに現実を生きている。クレタ人の昔から、こればっかりは変わりません。 違いますか?
お礼
補いです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? そりゃ、そうでしょう? それ以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの文とそれへの批評と その全体に関して 言えることは あくまで 《平屋建て》だった市民スサノヲら〔およびかれらの市長としてのアマテラス公民→つまりいづれも イリなる歴史知性である〕の社会における出来事だということです。 もしくは 社会形態が 二階建てになったあとにおいても その一階のスサノヲ市民社会の場では やはり 自由なけんかを 自由に享受していたと言ってよいでしょう。 問題は お二階さんが この一階の庭に対して いろいろお小言を言ってくる場合のその みことのり のことです。わざわざ ひとの犯す罪には この一階人が 二階に対して楯つく行為を 特別の《天つ罪》として 取り上げているところに 顕著です。つまり ですから 総じて言って 《和を以って貴しと為せ》となっています。 われわれは 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったなら 和を乱すことなど知らなかったのです。高がけんかだったのです。ぶっきらぼうたちも 居心地がよかったのです。 土一揆なり 米一揆なりの《けんか》には それとしての情況と理屈とがあるということになります。 わざわざ 波風を立てようと思ってなら けんかなどをしようと思うはづがないぢゃないかと叫ぶ人間たち――《イリ》歴史知性たち――なのですよ。 ☆ 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたち ★ 以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。 ☆ とは 行かない《けんか》も あるぢゃないですか?
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。全体として――例によって ぶっきらぼうに言いますが―― 説明不足ですね。なんとも 責任ある応答をし難いといったところですね。 ★ 違いますか? ★ 【Q-4】「愛想」とは、もしも本当の「愛想」があるのなら、それはまっすぐ前だけを見つめる勇気だと思います。 ☆ 拡大解釈でしょうね。《ぶっきらぼう》についても 同じ拡大解釈が出来ます。 ★ 表情などは要らない。目だけが、まっすぐ前を向いていれば良い。決して、まわりを見回して振りまくものではないし、 ☆ これが そっくり ぶっきらぼうにも 本当のぶっきらぼうとして あてはまると言えましょう。ただし 次の箇所すなわち ★ まっすぐ向いたその目の前に、いつか必ず現れる対話の相手だけに注がれるものです。 // その眼差しこそが、愛想にふさわしい。 ☆ これは ぶっきらぼうなり 愛想なりとは別に 議論の余地があるでしょう。まなざしを注ぐ相手を 特定する必要はないでしょう。出会ったひと みなに それぞれ まなざしを注ぐと言うよりは わたしがわたしであり わたしがわたしするその人格をもって 向きあうのでしょう。その意味で 比喩として 《まなざし》を言ったのなら お詫びしておきます。 相変わらず 用語の使用が あいまいのようですね。 ★ 《無主体の構造主義》という道具 ☆ この表現は 矛盾だらけです。 1.《主義》と言ってしまえば 一般に すでに 思想であり 思想の主体を前提としており つまりは 道具ではありえません。 2.《無主体》というのは 認識論に徹しますよと言っているだけのことです。《構造》という言葉は あくまでも 認識の道具として使いますよと確認するためのものです。 3.つまり げんみつには 《無主体》という思想は あり得ないし 概念としてさえ 《人間》という存在には 当てはまらないと言うべきでしょう。 4.《構造》が 人間の社会的な交通関係を指して言っており しかも その関係には まなざしを注ぐ・注がれるという上下の関係が その交通網として 出来上がっているということを言うとすれば――つまり それが 認識道具であるという意味ですが―― この上下関係が 人間という生物とその織りなす社会にとって 普遍的に見られる宿命の現実であるとまでは 言っていないと 明確にしなければいけません。後者の場合には 主義主張になります。つまり 思想です。。 5.この思想のほうを あたかも道具だと言い張って 分析手段として 社会関係に当てはめている――つまり 勝手な道具の使用法であって まちがっている――のは いただけませんね。 6.★ その道具は、主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。 7.☆ たしかに 上の(5)については このように 微妙に そして 巧妙に いわばアリバイが作ってあります。思想だと言われても 弁明できるように 仕掛けは作ってあります。いわく ★ 主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。 8.☆ すなわち 《思想》だと言われる側面は たしかに《主体と呼ばれて頭のなかの思考を司っている》と言わねばならない部分だが 《そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない》のだとおっしゃる。 9. だったら――つまり あくまで《認識手段》としての《考えごとでしかない》のだったら―― 《主義主張》ではないと宣言しなければいけないし 《思想》ではないと言わなければいけない。このことは どういうことか? 10. それは 《無主体》を説いているのではないと 明らかにして 認識の道具に徹しなければいけないということです。 11. それは 《まなざしを注ぐ・注がれるの上下関係》は きわめて一般的な人間関係であると認めなければならないことが ひとつ。もうひとつには この上下関係を あくまで 人間が その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけないことです。 12. この(10)および(11)の内容と ★ あなたの考える認識と、ごっちゃにしてはいけません。 ★ 縄文人の昔から、こればっかりは変わりません。 ★ 僕の目に狂いが無ければ ☆ 以上のわたしからの批判は まだ 未確定なのですから きちんと 説明なさるべきでしょう。
- pokoperopo
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ブラジュロンヌ大佐はぶっきらぼうではありませんよ。 まずはご連絡まで。
お礼
ぽこぺろぽさん こんにちは。 お知らせをありがとうございます。合点了解しました。 あぁ たしかに お久しぶりですね。前編の【Q:けんかをしては・・・】は 勝手に 締めてしまいました。あしからず ご了承くださいませ。 相変わらず 軍隊階級なんですね。まぁ おもしろみもありますが。 ブラジュロンヌを擁護してくださって ありがとうございます。 では そのうちですね。では。
(1) わたしについての《印象》のもたらした・相手側における気持ちの変化や影響 これは こと《ぶっきらぼう》という一つの性格に限る問題であろうか? 限らないですね。実際のところ、八方美人になろうとしても良く思われない事はあると思います。 (2) ぶっきらぼうであっても 気持ちが良いという場合も ないわけではないという意見に対して どう答えるか? 少なくとも愛想が良い方が可能性として良いのではないかなと思います。 (3) 《あいつは人と仲良くなれないんだと決め付ける》ことは ぶっきらぼうが たとえ《友好の意志がある》としても 起こるとすれば いったい ぶっきらぼうは ぶっきらぼうゆえに その《決め付け》に甘んじなければならないのか。それとも そう決めつける人びとは 相手が ぶっきらぼうでなくても そうする場合があるのではないか。 決め付ける側の問題でもあるとおもいます。出来るだけ決め付けは避けたいです。 一方、それとは別に愛想良くして欲しいと言うのが希望です。 >問題は どうも ぶっきらぼうという性格じたいや態度そのものにあるというよりも 相手が どう受け取るかにあるのではないか。相手との間に起きることは、結局どう受け取るかじゃないでしょうか。 そうかもしれませんね。 それとは別に考えて。改善点でもある気がします。 というのも相手の解釈が「ぶっきらぼうの態度で構わない」ならこの関係では良いんですが、多分皆が皆そうじゃないと思うので、その時には問題がおきそうですね。 だから、それで良い事はあっても、基本的には避けた方が無難じゃないかと考えます。 的外れならごめんなさい。
お礼
kanota さん ご回答をありがとうございます。 ★ 少なくとも愛想が良い方が可能性として良いのではないかなと思います。 ★ 一方、それとは別に愛想良くして欲しいと言うのが希望です。 ★ だから、それで良い事はあっても、基本的には〔ぶっきらぼうは〕避けた方が無難じゃないかと考えます。 ☆ こういった助言をいただいているようですね。 つまり 重ねて確認するなら 次の理解が おおむね 基本である。そして 実際には どちらかと言うと ぶっきらぼうよりは 愛想がよいほうが 無難である。でしょうか? すなわち基本として ○ さらに言いかえると どんな気持ちを抱くようになるにしても その相手が その一定の気持ちを持ってしまえば その原因が ぶっきらぼうであろうが その逆であろうが それほど 大きな差がないのではないか。 ○ つまり まづは どちらがどうとは言えないという見方です。そういう出発点のことだと考えました。 ☆ 人びとの なんとなくだが 一般的であろうと思われる感覚としては ぶっきらぼうよりは 愛想のよいほうが 好ましいといったところでしょうか。 ありがとうございました。
bragelonne様、お礼をありがとうございました。 【構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である】 >したがって、構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 >《無主体》説では 困ると思います。 なるほど、そういうことなのですね。 だったら、もっともっと思うところのものを声高にお叫びになればよろしいかと思われます。それに、 >思惟や行動にかんしては――つまり その存在に対してではなく 一般に 思想に対しては―― わたしは はっきりと 間違いなら間違いだと言ったりします。そのとき同時におこなうところの 存在を愛するというのは その人の意志の自由を 自分のそれと同じように 受け容れ守るということですが 思想に関しては 世間の評価が高ければ高いものほど もし批判すべきところがあると考えるときには やはりドンキホーテよろしく まっ正面から 批難します。 というご主張もわたくしは特段異論がありません。 まあ哲学の対話なんていうものは、真っ向勝負する限りにおいては、時間をフルに使った贅沢な人間の「頭脳戦」の側面もあるでしょうし、「たぶん そのような姿勢が デリカシがないということで ガラッパチだと言われるのだと思います。」のフレーズもあえて必要ないと心底思うのです。 己の信念を貫くためなら、なんといいますか…もっと「暴れんぼう」になってもよろしいのではないでしょうか♪ で、憂慮されるべきは、やはりお互いの中傷合戦へ陥りがちになるという、非合理な特性を孕む言語の二律背反によるところが大きいのかもしれないなあ、と思いました。 >ひとつには 議論の問題ではなくて 包容力のそれであるかも知れません。ただし 安易に 甘やかすのも どうかと思うところもありますし。あるいはまた アイドル( idola )としての権威や まして 権力によって なびかせるとなれば ほとんど論外になるでしょうし。 ふむふむ。 上述において包容力だけでなく時には甘やかすのもどうかとおっしゃるのですね。 なるほど、一理あるかもしれません。 ここで、たしか以前の「フーコ『監獄』」質問にてP様がおっしゃられていたことを無許可ながらコピペさせていただきます。お許しあれ。 「フーコーの著作は、現代では社会科学の分野では必読の書物となった。それを学習する事は、ある意味、制度的な義務となったと言っても良い。大学を出て院生を目指す子どもたちは、フーコーの術語を用い、フーコーの考えたフレームで世界を眺め、フーコーの準備した推論から外れないようにする事を強制されています。 これこそが、フーコーの語る「権力」ではないでしょうか。 制度への疑いの眼差しを向け続けたフーコーの疑念、その疑念が、作品を通じてまさに疑われようとしている、その当の制度的権力のなかへと埋没してゆくことに対して、フーコーは如何なる思いを抱いたでしょうか。」 この件につき、bragelonne様が唯一矛先を向けるとしたら一体どれでしょうか。 αフーコの思想(≪無主体≫) βフーコの思想を何らかの思惑のために「制度化、権威化させようとする」ために尽力する(した)彼の支持者たち γフーコの思想もしくはフーコ批判に対しテキトーにそこそこの理解で済ませようとする一般大衆 ζフーコ批判により現代思想の潮流の渦の流れを変えられないジレンマ ちょっと、お聞きしてみたいとかねてより思っておりました。 というのもね、何だかこの「大学内でのフーコ思想の制度化権威化」の話をうかがって、ちょっと「ふうん。そうなんだ…。」とちょっぴりシラケたのも事実だから。 ちょっと動機がbragelonne様の「それ」とは異なる「ひねくれ者の戯言」ですが(笑) 【《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》】 ユニークで面白いお話ですね。 わからなかったところですが、まず、「罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。」という「罪」の概念です。補足をお願い致します。これは必要なのでしょうか。 >結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり交通のひとつのかたちであった。のではないか?どうでしょう? う~ん。 わたくし、この「~がなかりせば」な質問は一番思考停止です。ごめんなさい。 第二階のせいでけんかしちゃったものはしょうがないし、覆せない。 で、どうすれば良いか、としか考えられません。 けんかした衝突から今の葛藤が存在するわけですし。う~ん←頭真っ白け >イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? ちょっと不思議に思ったのは、「あがめられるようになった。」そのあがめる当の主体は一体誰か、ということです。 はたして本当に【《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性】はおっしゃるように【現代には《純粋な》ヨリはいないでしょうね。】なのでしょうか。 たかが人間が形作ってきた「歴史」だから、所詮はご都合主義的な「勝者の歴史史観」的意味合いが強いのではないでしょうか。 聖徳太子も「勝てば官軍」、だからノーテンキなことを言えたと思います。 敗者の歴史史観だって、ありえます。 ただ、勝者に埋もれて「見えていない」だけ。 【ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)】はその後の鎌倉時代における「本地垂迹」のような神仏習合のような形で時折時代に顔を出してきたとわたくしには思えます。 で、【イリなる歴史知性】はどこに見受けられるでしょう。 聖徳太子のような為政者たちの「権力闘争」による「国譲り」という視点からは、たしかにおっしゃるような論理になると思われます。 で、逆に被支配層の民たちに【ヨリ】【イリ】が受け継がれていかなかったか、とまでは言えないようにも思えるのです。いかがでしょうか。 現に今の私達に、全く【ヨリ】【イリ】的感覚がないか、といえば、そこまで否定はできないと感じるのですが。 もしかすると「相対的な視点でないから」とちょっと敬遠されがちな面があるのかもしれませんけども。 >二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。 おっしゃるように「逆立ちしてるよ!」という視点も現代においては貴重だと思います。 ちなみに室町時代の鹿苑寺金閣は一階が和洋の住宅風、二階が和洋の仏堂風、三階が禅宗風、でして、和漢混合の最先端建築物でした。 で、現代において、はたしてそれはどう映りますでしょうか。 構造主義なるのっぺらぼうは、この先の将来、どのようになるのか。 ≪主体を大切にする≫ぶっきらぼうは、この先リベンジができるのか。 誰にも予測がつかないのではないでしょうかね。 また、先の『監獄~』質問に戻って、仮に中世のことは中世という枠組みでしか捉えられない「歴史の断絶性」をもってするならば。 bragelonne様のおっしゃるご信条も現代風にアレンジし直さないと、ともするとold fashionedと映りかねないのかな、というのが正直な感想です。 紳士服はそれほど流行がないのでご理解しにくいかと思われますが、婦人服は20年以上前の流行のリバイバル風味を漂わせています。 この意味において「歴史は繰り返す」とは思うのですが、決して当時と100%同じ流行ではなく、微妙にマイナー・チェンジがなされているため、とても新鮮に映るのです。 もちろん当時のヴィンテージ・ドレスもその希少価値ゆえに高根の花なブランドもあるわけでして、ただそれだけを着るとどうしてもoutなので、最新流行なinな小物とミックスすることで「頭抜けたお洒落」を醸し出せるわけなのです。 Vous ferez cela ou vous direz pourquoi.
お礼
☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 国家という社会形態の時代。したがって 人びとが国民として まとまって歩む時代。このときには 一時期の頂点として 《ただ一人の存在だけが 朕は国家なりと宣言する》という中央集権の極点に達しました。 この時代の進むにつれて 市民一人ひとりが 共同自治の主体として 《わたくしたる市民》(スサノヲ)であると同時に 《おほやけたる公民》(アマテラス)であるという存在の形式が 実現しつつあります。同じひとりの人間が その内面において 《スサノヲ‐アマテラス》連関構造を持つという恰好です。 〔アマテラス理性のみの優位によって 人間と人間との関係が 現実の場面では まなざしを注ぐ・注がれるという上下の関係に陥りかねないようです〕。 ――〔フーコは この上下関係を あたかも人類に普遍的な権力関係だと 果たして 見たのでしょうか? 時代ごとに断絶があり 形は変わっていくけれども あたかも着せ替え人形のように その支配の関係というあり方は 変わらないと言ったのかどうか?〕 こうなると もっぱらのアマテラス公民(つまり 公務員)についても みな 一人ひとりが 市民であり とりわけ人間であるという思想が 必然的に 現実のものとなりつつあります。逆に 《市民おのおのが 〈わたしは国家である / 一人ひとりが 国の経営者である 〉と宣言する》段階にも来ているのかも分かりません。 こうなると ふたたびのごとく 社会は あらためて 平屋建てに限りなく近い形態へと みづからを 作りなおしていくのではないでしょうか。(インタムライスム)。あとは その市町村の連合として 統計やら情報交換やら互いの調整役やらの仕事をこなす昔の国家次元の役所が 共同自治連合政府として 当面 残るかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。 議論をかなり進めていただきました。思った以上に〔 m(_ _)m 〕 radicale でいらっしゃる。 一般に 日本のばあい 人間どうしの交通関係は その社会全体的な様式として 《断絶》は ほとんどあたかも なかったかに思われます。いわゆる国家として 二階建ての《家》が出来てからは 明治維新で 立憲君主制となるまで大まかに言えば 律令制のもとにあったとさえ言われることもあります。先の敗戦で 主権在民となったのは 大革命だと言えるようですね。 ぎゃくに言いかえるなら 民主制は 驚天動地の出来事ですが 世間のならわしは いまだに アマテラス圏(=第二階)の主導によって スサノヲ圏(=第一階=市民社会)が営まれています。 これを分析する道具も なかなか モダンなものになって来ない恨みがあります。 ★ 【ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)】はその後の鎌倉時代における「本地垂迹」のような神仏習合のような形で時折時代に顔を出してきたとわたくしには思えます。 ☆ 私度僧とか 聖(ひじり)と言ったのでしょうか。正式の受戒を得なくても 各地に 公共の利益・民衆の生活のために 橋を作り寺院を建てと活躍したようです。そして 明治維新にも 《草莾(そうもう)の士》として 歴史の舞台に現われましたね。 これを 《いま・そこにいる〈わたし〉》としての普通の市民たる《イリ》歴史知性と言ってよいと思うのですが。 《ヨリ》なる心性について 果たして 歴史知性であるのか なかなか きびしくていらっしゃるようですが ま いまは 保留しましょう。純粋な原始心性であれば やはり 漸進主義になると思います。 そして 言わずと知れたこととして 国家という二階建てが出来る前と後とでは 決定的な《断絶》があると考えられます。 次のように 分析してみました。 《まつり》そして《まつりごと》を鍵語として。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《まつり(祀り・祭り)》とは 土地の神々に 特にはその年の初穂を 差し上げることです。捧げた上で 神々と共に 村の人びとは 感謝をもって 共食します。 たぶん 人びとは 《共生》が その人生の真骨頂だったでしょう。 そのあと 賢い人びとが この《まつり》を 概念として まつりあげました。われ考えるゆえに われありを 《われ考えるなら われのみあり》と言わんばかりに その思考・その理性こそが 神々の現われであると唱えました。その思想を体現した人間も 神々であると 訴え始めました。 したがって このように 村々の共生である《まつり》を 一段と高いところから 束ねるようにして 統治することは 《まつりごと》というわけです。たぶん どうしても大将にして欲しいと だだをこねたのでしょうね。人びとは これには ゆづらざるを得なかったようです。(《国ゆづり》)。 したがって 村々の人びとが 共食するまつりは 二階への税金を払って そのあとの残りで 共同自治し共生するかたちを採りました。これは 《まつらふ》と呼ばれ やがて 《まつろう=服する》という意味の言葉となっていきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【Q:美しい国はどのようなものなのでしょうか】そのNo.10 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3384834.html 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】そのNo.35お礼欄 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html 今後は ○ インタムライスムそして インタナシオナルなインタムライスム。〔ムラ(村)=市町村など自治体の自主的な連合制〕 ☆ として 市民スサノヲ圏が公民アマテラス圏を主導する=つまり 何のことはなく 民主制による――当面はなお 二階建ての――社会形態を目指します。世界に向けても 自治体連合によって 国家主導方式を揚棄して行きたい。
bragelonne様、わたくしにはあなたが「ぶっきらぼう」とは思えません。ましてやどこが「がらっぱち」なのです? >mashumaro2 さんにおかれましては その《過激なご回答》を わづかに 突き抜けていただけば よいのではないでしょうか? あたたかいお言葉を頂戴して本当に嬉しかったです。 実はわたくしはpros and consの間を自由に泳ぎまわるのを好む主義なので、「哲学」「科学」のどちらにも思い入れをもちたいと望んでおります(=つまり欲張り)。 また、こちらのように様々な意見が集約される場においては、嬉々としてminorityやアンチ優等生的回答を選ぶひねくれた面があります。 ですので、bragelonne様のご意見は大変参考になり、得難いものがあるのです。本当にありがとうございます。 >☆ たぶん まづ このように基本的な概念であればあるほど その定義内容(もしくはその解釈)が あいまい(つまり 多義的)になるようです。この多様性と言いますか あるいは 従って 個別性というもの これを 哲学は 数学とちがって あつかうのではないでしょうか。 ああ!なるほど、そうなのかもしれません。 基本的かつ抽象的な概念であればあるほど、「それ自体」が空でありナンセンスに近づくということでしょうか。 であれば、その多様性により個別の思索を深めていくものと思えてきます。 であるならば「cogito, ergo sum」もそれ自体は何ら意味するものではない、と。 【人間存在というその個別性ないし多様性を扱い続ける】 う~ん。 この意味においては、哲学とは科学よりも古く脈々と、古代から未来永劫まで繰り返される人間の慎み深い営みの一つなのかもしれません。 むろん、何も考えずとも一生を終えることを自ら欲する人間もいても何ら非難し得ないものとは思われますが。 また、「科学」であれ「哲学」であれ、専門性を深めていくにつれ閉鎖性を帯びるようにも映ります。 >《わたし》は 《かけがえのない存在》と言います。数学では どうですか? 《いま・ここにいる〈わたし〉》というそれだけの存在であって しかも ほかに その存在は いないということ・代わりの存在はありえないということ これを 数式で表わし 扱っていきますか? う~ん。 ただのアマチュア愛好家の戯言に過ぎないので恐縮ですが、 いくら宇宙物理学で宇宙を論じようとしても、所詮は全宇宙論を論じることが出来ない、つまり、「人間のユニークな目線」でしか宇宙を語ることができないわけでして、この「人間らしいユニークな目線」というものがおっしゃるところの≪かけがえのないわたしという存在≫に相当するのではないのかな、と思うのです。 >フーコーが もし《無主体》を前提としているなら そして 数式が 《かけがえのなさとしての一》を表わし得ないとするなら そしてさらにそのことで 世界観にとってじゅうぶんだと言うのなら 哲学は そして わたしは 抵抗し 批判をすると考えます。おっしゃっていることは そういう問題だったでしょうか? このフレーズの中で【世界観にとってじゅうぶん】というあたりにわたくしは強く違和感とナンセンスを感じるのです。 同様に「科学」についても言えることでして、宇宙観にとってじゅうぶんだ、という法則など何一つあり得ないし、表し得ないようにも思えるのですが。 但し、わたくし以外の他の方々がどのようなお考えを持とうと、それはご自由ですし、それを尊重したいと思っております。 逆に、様々な自分と異なる考えを見聞したいと願っているに過ぎません。 >数学は 道具である。あるいは 認識の領域にとどまる。のではないでしょうか? いえ たしかに判断の領域にも正当にも進出します。するのですがその判断についての認識はひとが世界史においてそれぞれ ただひとりの存在であるという側面を表わし得るかという問題になるでしょうか? はい、そうですね、おっしゃる通りかもしれません。 でも、逆に、自らが対峙せざるを得ない現実社会へのよりよき対処や洞察の手段の一つとして、フーコーやメルロを「道具」の一つとして取捨選択する自由があってもよろしいのではないでしょうか。 もちろん、「使えない道具だ」と思う自由もあって当然かと思いますが。 そしてこれとは別に、bragelonne様がおっしゃるところの「ただひとりの存在であるという側面を表す」際には、それはそれで適した哲学思想を適宜好めばよいのではないでしょうか。 >百科事典がひとを包み込むのではなく一人のただのひとがその存在としては百科事典や数論を含んでしまっている。どれだけ《未整理・未整頓》であってもこの《人間存在》のほうが《えらい》のです。ひとは哲学者も数学者もいづれも はい、ただ、何をもって≪えらい≫と申しましょうか、自身のたゆまない真剣勝負で葛藤し生を終えた先人たちが遺してくれた「数々の恩恵」も同様に≪人間存在≫同様に評価する余地があってもよろしいのではないでしょうか。 彼等の遺した「過去の業績」に、仮に彼等の存在以上の想い=信条が込められているとするならば、「実際にその恩恵を受けているにもかかわらず」≪えらくない≫というシビアな評価を下すのはあまりに酷いようにも思えるのです。 人間なんていうものは、自分の生きる時代に抗えない以上は、それほど器用に立ち振る舞えないと思います。 ≪えらくない≫と言いきってしまうのは、そんな愚かで不器用な人間たちを切り捨ててしまう排他的なものを感じるのです。 それほどまでに≪わたし≫は≪他人≫よりも≪えらい≫のでしょうか。 >一人ひとりの人間を みづからの心に 自己と同じ程度には 受け容れる。《わたし》という百科事典を つねに 開いている。動態としての事典である。どこからでも ページを開くことができる。という問題を 哲学は あつかうと思われます。 なるほど。そうかもしれません。お話、よくわかります。 では、≪わたし≫の問題はさておいて、わたし以外の他人との関係においてはどう哲学の問題を捉えたらよいのでしょうか。 科学・数学においては客観性をもってして自他とのコンセンサスが得られやすいように思えます。 ですが哲学の場合は客観性に則るとまでは言えないと思われますし、極めて≪わたし≫といった個人的な信条に繋がる性質上、自他との軋轢は免れ得ないと考えます。 ですからおっしゃるところの「ついに対話を放棄する事態に到りました。」というのも、わたくしにしてみたら至極自明のことであり、ですからbragelonne様が何ら杞憂するに至るものは何もない、と当初から疑っていないのです。 そしてわたくしが当初から何ら哲学的な思考へと進展が進まない至らない点につきましても疑う余地もありません。 Ah! ca ne marche pas.
補足
mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 なるほど。コギト派・数学派・自然科学派は ただ装っただけであって あくまでも 情況に応じて 対処しておられる。こういうことのようですね。それが見通せなかった ですねぇ。 どうも この情況は――わがくにだけでしょうか?―― たしかにおっしゃるように まだ長く続くかのように見えますね。自然科学は自然科学で その分野において 大いに 究めようとする人たちは出て来ているのに でしょうか。ということは おっしゃるように 総合的な視点が 一人ひとりに備われば 鬼に金棒といったところでしょうか。それには ぶっきらぼうと のっぺらぼうとの 或る種のたたかいがあるのかも知れません。 そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。ぎゃくに言いかえるなら 男は もともと 同じように ぜんぶ持ち合わせているのに いづれか一方に 片寄って行ってしまうのでしょうか。それは 世間というものが そういうあらそいをしているからなのでしょうか。片寄っていくから あたかもだまし合いのような世間になっていくのでしょうか。 ぶっきらぼう論は 女性論なのでしょうか。 大地にしっかりと根を張っているということなのでしょうか。それにくらべ 男は さなぎから変態すれば 単純に 飛びまわることをたのしむようになってしまうのでしょうか。あるいは でも 女性も 飛びまわるようになって来ているでしょうか。どうなのでしょう。飛び回り方が ちがうと言うべきでしょうか。 たとえば――いくらか 世間に合わせるための故意にでもありましたが―― 男のわたしは 一方が他方に対して 《えらい》という言葉を用いました。そういう見方・考え方が まだまだ つよいようなわけでして どうしたものでしょう? あるいはまた 思惟や行動にかんしては――つまり その存在に対してではなく 一般に 思想に対しては―― わたしは はっきりと 間違いなら間違いだと言ったりします。そのとき同時におこなうところの 存在を愛するというのは その人の意志の自由を 自分のそれと同じように 受け容れ守るということですが 思想に関しては 世間の評価が高ければ高いものほど もし批判すべきところがあると考えるときには やはりドンキホーテよろしく まっ正面から 批難します。 たぶん そのような姿勢が デリカシがないということで ガラッパチだと言われるのだと思います。 でも のっぺらぼうと わたしの名づけた思想つまり 無思想 に対しては 批判がとどかない。知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くしても なお 限界があるとさとりました。無思想と言うと しゃれた感じですが 非思想でしょうか。自己の生の軌跡について 索引をいっさい作らない。その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうが あやまたなかったであろうが あとから検索することなど どうでもよい》主義。顔がない あるいは 自分の顔をつくらない という意味で のっぺらぼう史観と名づけました。 ぶっきらぼうは 負けました。鬼に金棒の出番のようです。 Ca ne marche pas? Pourquoi pas? ひとつには 議論の問題ではなくて 包容力のそれであるかも知れません。ただし 安易に 甘やかすのも どうかと思うところもありますし。あるいはまた アイドル( idola )としての権威や まして 権力によって なびかせるとなれば ほとんど論外になるでしょうし。 そして わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりも やはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう?
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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武羅寿論縫さん。こんにちわ。12番です。 ご返信ありがとうございます。 すっぴんな回答に紅をさしていただいた気分です。 >誰でも 持ってはいるのですね。 :はい、ということは >ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? :については「そうではない」かもしれないとも思います。 生まれたての赤ん坊をご覧になったことがありますか? 生まれたその日に目を閉じたままニコッと笑うのですよ。 玄関(出入り口)のない木造や鉄筋の箱は、 おうち、とは言わないです。 玄関(出入り口)は、おうちの「大切な一部」であり、 そして「たかが一部」です。 ふたたび、 >ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? :ずっと慢性的にぶっきらぼうでいる、というのは たぶん、できないのじゃないかと思います。 必ず、喜びを表現しないではいられなくなるはずです。 ただ、ぶっきらぼうでいる時間がある、それだけであり、 その時間は長かったり短かったりすると思いますが、 わたしとは無関係なところで始まったり終わったりもするし、 わたしと関係のあるところで始まったり終わったりもします。 >ぶっきらぼうは いただけませんか? :たまねぎとか、らっきょうみたいなもので、 おいしくいただける方法を試行錯誤すると思います。 >ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? :鍵のかかっている玄関や、 手入れをサボって錆びかけて重いドア、 に出くわしたような気分です、 やれやれ、開くまで待たふ・・・あるいは、 油でも注して開かしてみよう・・・と思います、 それが愉快であることも、あります、わたしの都合で。 >★ 「江戸女風」 ☆ とは どういうふうですか? :「武骨」「さばさば」「カラっと」ということのようです。 先ほどの回答が、そのまんまですね。
お礼
根雨十螺琉さん ご回答をありがとうございます。 あぁ 浅はかだったか。搦め手の忍びが控えているのを読めなかったか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「武骨」「さばさば」「カラっと」ということのようです。 先ほどの回答が、そのまんまですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ 《入り鉄砲に出女》と言ったそうですが 《江戸女風》も おそろしや。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? :については「そうではない」かもしれないとも思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 赤ちゃんでも 生まれたてから 愛想の何たるかを知っている。ですか。 愛想が 地なのですね。かくて ★ 玄関(出入り口)のない木造や鉄筋の箱は、/ おうち、とは言わないです。 ☆ 玄関だけを見ていては いけないということのようですね。 でも いつかは 一度や二度は ★ 必ず、喜びを表現しないではいられなくなるはずです。 ☆ なのですね。 ★ :たまねぎとか、らっきょうみたいなもので、/ おいしくいただける方法を試行錯誤すると思います。 ☆ わたしは たまねぎを みじん切りにして 納豆と一緒に食べるのですが そのようなぶっきらぼう食用法は やはり いただけませんか? 味付けはないですが からだにいいですよ。 ★ :鍵のかかっている玄関や、 / 手入れをサボって錆びかけて重いドア / に出くわしたような気分です、 ☆ でも すでに 《玄関》を入って 《居間》にとおしているのですよ。坐ってもらっているのですけれど。 いただけませんか?
bragelonne様、お返事が遅くなりました。ごめんなさい。 わたくしの方こそ、お礼を申し上げなければなりません。 本当にありがとうございます。 【例の質問の件】 承りました。わたくしの思い込みも過ぎたところがあったとのこと。 ですが、今以上に自重してまいりたいと思った次第です。 【《絶対という想定としての神》】 bragelonne様がご教授下さった《あやまつなら われあり》を拝見し、この≪神≫の正体がどうやら「一般に想起される神」ではなさそうだ、と認識しつつあります。 もし間違っておりましたら再度ご教授賜りたいと存じます。 【フーコーとバルト】 こちらの質問内にてふれるのはテーマから大きくズレかねないので、やはり自重していきたいと思っております。 いかなる思想であれ、最善の選択はあれど、唯一絶対、一義的といったものがはたしてありうるのかと考えますと、昨今の思想状況を鑑みますと、別質問においてのbragelonne様の御姿勢はなかなかに得難いようにも思える一面がわたくしにはあります。 【「訳あり」な Je ME pense, donc je suis.】 >☆ さらに解明されるのを望みますと言って ひとごとの如くになるのが ちょっぴり悲しいです。 これに関して、もう一度だけ以前の別質問にふれさせていただきます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4503143.html わたくしはこのカテで恐らく誰も主張したがらないであろう、過激な回答を試みました(mashumaro2=noname#76229)。 お礼でご教授下さった「同情」の語彙「sympathie」一つであっても、実に多義的で交錯する意味合いを包含するかが認められます。 しかしそれは、数字の1が2になり得えない「合理性」に寄り添う余地はあれど全く則るものではない以上、ともすると精神上の作業、更にはただ言辞だけから発する観念世界の作品になり下がりかねない、とも思えるのです。 「一方では、自然科学の獅子奮迅の躍進から刻々に圧迫、突破、急襲をうけ、また一方では、文献学者、言語学者たちの丹念克明な業績からは、最も古く最も牢固たる(またおそらくは棄てていささかも惜しくはない)伝習も不安と脅威に晒されては、哲学はどうなるのでありましょうか。 ≪我れ思う≫はどうなるのでしょうか。 ≪我れ在り≫は、どうなるのでしょうか。思えば虚中に堂々闊歩してきたあの空にして摩訶不思議なる動詞Etre(アル)はどうなりますのか、いや、どう立ち直りますのか。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法170~171頁) この文面にふれるたび、幼少より自然科学の図鑑に夢中であった性分のわたくしとしましては、いまなお迷いもなくレオナルド賛歌せずにはいられません。 ですが先の質問において、わたくしの回答後の意趣返しのようなa様のご回答内容と、先の「フーコー質問」のbragelonne様のご回答が不思議と交差するように思えてならなかったのです。 そして、この問題と【je ME pense, donc je suis.】がリンクするかどうか、はっきりとはわからないのですが、何故か気になって仕方がないのです。 【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】 こちらの質問を拝見させていただきました。ありがとうございます。 とてもわたくしには理解の範疇を超えております。 自分独りの論理表現と対話形式の論理表現とでは、また微妙にケースが異なってくるのでしょうか。難しいですね。 【百科事典派】 >ぶっきらぼうの辞書の定義も まだ 見ていなかったです。 そういえばフランス時代に友人・知人宅を訪れた際、不意の訪問にもかかわらずどの部屋も「整理整頓」が徹底されていたことから、いかにも百科事典を編纂するお国柄なのだなあ、と感慨にふけったことがあります。 ひるがえって我が日本の各家庭のライフスタイルはどうなのでしょう。 どのご家庭も寸分の隙もないほどこざっぱりと整頓されているのでしょうか(特に地方) 言語の論理性と「整理整頓」における国民性との間に何か因果関係があったりなんかして(まさか)。 Ca y est, je suis prete!
補足
mashumaro2さん ご回答をありがとうございます。 ▲ (レオナルドと哲学者たち p.172) ~~~~~~~~~~~~ 実在とはなにか と哲学者は自問する そしてまた 自由とはなにか と。 彼は こうした実在とか自由とかいう名詞の 比喩的であるとともに社会的でもあり また統計的でもある淵源に関しては いっさい与り知らぬという状態に自分を置いているのであるが こうした名詞がさまざまの定義しがたい意味のほうへ傾斜してくれるおかげで 彼はみづからの精神をして もっとも深奥でもっとも微妙な組合わせを産出させることができるようになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん まづ このように基本的な概念であればあるほど その定義内容(もしくはその解釈)が あいまい(つまり 多義的)になるようです。この多様性と言いますか あるいは 従って 個別性というもの これを 哲学は 数学とちがって あつかうのではないでしょうか。 【Q:哲学と言葉】では わたしの嫌いな回答者(c…)の回答で そういう意味合いが触れられていましたが たしかに 哲学は あたかも永遠に答えの見つからないままにでも 特には 人間存在というその個別性ないし多様性を 扱い続けるのではないでしょうか。《わたし》は 《かけがえのない存在》と言います。数学では どうですか? 《いま・ここにいる〈わたし〉》というそれだけの存在であって しかも ほかに その存在は いないということ・代わりの存在はありえないということ これを 数式で表わし 扱っていきますか? というような問題だと思うのですが いかがでしょう? フーコーが もし《無主体》を前提としているなら そして 数式が 《かけがえのなさとしての一》を表わし得ないとするなら そしてさらにそのことで 世界観にとってじゅうぶんだと言うのなら 哲学は そして わたしは 抵抗し 批判をすると考えます。おっしゃっていることは そういう問題だったでしょうか? 数学は 道具である。あるいは 認識の領域にとどまる。のではないでしょうか? いえ たしかに 判断の領域にも 正当にも 進出します。するのですが その判断についての認識は ひとが 世界史において それぞれ ただひとりの存在であるという側面を 表わし得るか という問題になるでしょうか? たぶん わたしが思うには こうではないでしょうか? 数論としての道筋ないし道理は 宇宙にまたがって つらぬかれていると思いますが そしてそれは 人文科学においても たとえば百科事典に結実しますが おそらく 百科事典が ひとを包み込むのではなく 一人のただのひとが その存在としては 百科事典や数論を 含んでしまっている。どれだけ《未整理・未整頓》であっても この《人間存在》のほうが 《えらい》のです。ひとは 哲学者も数学者もいづれも ▲ 実在とか自由とかいう名詞の 比喩的であるとともに社会的でもあり また統計的でもある淵源に関しては いっさい与り知らぬ ☆ のだと考えます。神の問題にもなるでしょうが かけがえのない存在の問題にもなると思います。百科事典を 生活の次元で 編みつつ積み重ねていくとともに それと同時に しかも いくらかは それ以上に重要なこととして 一人ひとりの人間を みづからの心に 自己と同じ程度には 受け容れる。《わたし》という百科事典を つねに 開いている。動態としての事典である。どこからでも ページを開くことができる。という問題を 哲学は あつかうと思われます。 というこのわたしが 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】のやり取りでは ついに 対話を放棄する事態に到りました。ページの開きようがないとの結論にたどりつかざるを得ませんでした。この地点から さらに新しい段階へと進めればよいと思って この今の質問を設けました。 mashumaro2 さんにおかれましては その《過激なご回答》を わづかに 突き抜けていただけば よいのではないでしょうか? 質問者が 或る種の主張をしましたが むろん 意見交換のラリーですから。
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。