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ソクラテスの精神力

noname#82774の回答

noname#82774
noname#82774
回答No.9

 こんばんは、passcardです。  何も謝ることはないと思いますが、再度補足しますと、要するに「無知の知」をよくご存知のあなたに、「未知の知」を回答させていただいたのです。ですから、 >私が自らを「素人」と言ったために、  では、ありません。テクストに描かれる「無知の知」の向こう側に、「未知の知」は見えませんかという事を言ったわけですから、むしろ専門家に見立てて回答し、如何かなとお伺いをたてたのです。ご理解が違っているようでしたから、補足させていただきます。  

noname#130082
質問者

お礼

何度も補足していただいて、ありがとうございます。 >「無知の知」をよくご存知のあなたに ううむ、これは私を高く評価していただいたものだ、と感謝いたします。 しかし、私自身の不安は収まっていない。 病気だから、というのは簡単です。しかし、もし理由があるとしたら何だろう? それはきっと、私が何か間違いを犯しているサインに違いなかろう。 つまりソクラテスの言う「よく生きて」いない、状態ではないか? そういえば、passcardさんの補足に「これは難しい補足だ」と、レスを引き伸ばしている、これは立派なことではなかろう。まず、そこを正そう。 ・・・ということで、吟味はかなりかけていますが、「未知の知」に関して中間報告を補足させていただきました。 この結果がどう出るか(私自身にどのような影響が出るか、など)はわかりませんが、怖いときは怖がりながら進め、という言葉もあります。 補足のお陰でまたいろいろ考えることができます。 ありがとうございました。

noname#130082
質問者

補足

>>私が自らを「素人」と言ったために、 > では、ありません。 失礼いたしました。私が考えていたよりも高く評価していただいていたようです。ありがとうございました。 「未知の知」という言葉の正確な意味は、正直よくわかりません(どうも、人によって意味が異なるように見えます)。ということで、自己流でいかせてもらいます。 >質問者様自らでお答えになった。 何故、答えられたのか? 理由はよく分かりません。 ただ、私は(昔風言い方で)不安神経症あたりのようで、生きるために死の恐怖を克服する方法を探していたのです。その探索のひとつが「ソクラテスの弁明」だったので、かなり考えたからでしょう。 先ほど気がつきましたが、「大切なのは、生きることではなく、よく生きること」とソクラテスは言うが、どっちが簡単だろうか?私は生きるためにこれを読んだが、もしかしたらよく生きる方が簡単なのではなかろうか? という逆説です。そうなれば、少しは重荷が軽くなります。 何故なら、死の問題は無知の知の一種の応用問題であって、ギリシャ哲学なら、真・善・美などに対する無知が第一に考慮されるはずだから。そして、ソクラテスは、これらについて自分は知らないと言っているにも関わらず、言動はまるでよく知っているようです。また、彼自身そのことに絶対の自信を持っているようです。「よく生きる」とはどういうことか知らないはずなのに、自分はよく生きたという自信がある。 例えば、死がもしかしたら素晴らしいものかもしれない、という根拠には明白な論理的欠陥があります。ソクラテスが地獄に落ちる場合を想定していません。 私の想像ですが、ソクラテスは単に自分自身と対話した人々が知らないから皆知らないのだ、と考えただけでなく「こういう根源的なものごとに対しては、人間の知性は『知り得ない』のだ」という感覚があったのではないかと思います。しかし、一方では、知性で知らないことであっても、(一種の感性のようなもので?)「よく生きる」ことはできるのだ・・・知性を超えた部分で「知って」いる、といったような・・・という感覚もあって、それに従って生きてきた(ダイモンの助けもありますが)という自信もある。私流の「未知の知」でしょうか・・・。また、これはソクラテスも賛成してくれると思いますが、知性は自分が間違っているとき、そのことを知る能力はある、という命題は成り立つと思います。

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