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ソクラテスの精神力
reki4649の回答
- reki4649
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思わず笑ってしまいました、スミマセン。 だってここにソクラテスが居たらきっとあなたは質問攻めにあうはずですよ。 「君は死について何を知っているのかね?」と。 恐れを乗り越えたのではなく死を知らない事を知っていただけです。 ソクラテスの弁明より引用 「思うに死とは人間にとって至福とならざるものかどうか何人も知っているものは居ない 然るに人はそれが最上の悪となるものである事を知っているかのようにこれを恐れるのである」 引用終わり 私は知らないという事を知っている これが彼の基本スタンスです。 知っている事と知らない事をキチンと分けて知っている事の積み重ねで人を論破して行ったので 知ったかぶりの人達の恨みをかったのです。 江戸時代の町民に「明日からお前はハワイに行くのだ」と言って真っ青になって恐れる人が居るでしょうか? 「へ?はわい?どこそれ?」ですよね。 断片的な知識で「溶岩があふれて地面が湧き出し鬼の様な大男がたくさん居るらしい」 なんて縮み上がっている人が居たら大笑いです。 死を恐れる事も同じ事ではないでしょうか?
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お礼
わざわざ、回答、ありがとうございます。 どうも、reki4649さんにとって当たり前の話を質問してしまったようですね(^^; でも、私にとっては当たり前でなかったので、ご容赦ください。 当たり前でない理由は補足に書かせていただきましたが、お礼が遅くなったことはお詫びいたします。
補足
笑うのは全然問題ないと思いますが、ちょっと気になったのは、笑った後、 >だってここにソクラテスが居たらきっとあなたは質問攻めにあうはずですよ。 とおっしゃったことです。もしかして「質問攻めにあって、あなたの鼻っ柱をへし折られますよ」という意味でしょうか?(読み間違っていたら、無視してください<(_O_)>)。 それって、災難でしょうか? むしろ、これほどの幸福はなかなかないのではないかと思いますが。 その上、こっちも教えて!gooに質問するまでもなく、本人に訊くこともできるんだし。それもただで。 まあ、「ここにソクラテスがいれば良かったのに、いないということは可哀想な奴だ」とお笑いになったのなら、まったくその通りと同意しますけど(T_T)。 それはともかく、例えば、引用された部分は本当に納得しますか?「これって詭弁じゃない?」と思ったことはないでしょうか? 死が分からないから怖い、という人も多いのではないでしょうか。 >江戸時代の町民に「明日からお前はハワイに行くのだ」と言って 普通は、どこに連れて行かれるか分からないから怖がる人が多いのではないですか。それなのに、ソクラテスだけは、どこに行くか分からないのだから怖いという根拠もない、と平然としている、という話は面白いと思いますが・・・。 また、哲学書といえば分厚い本が沢山積み重なってるというイメージがあったのですが、文庫本1冊で生死の問題や正義の問題が分かりやすく書いてあるなんて、悪質商法でさえこれほどの大言壮語は言わないという考え方もあり得ます。鵜呑みにしていいんでしょうか?