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けんかをしては 何故 いけないのか

noname#81313の回答

noname#81313
noname#81313
回答No.35

 けんかは駄目に決まっています。  やっと終わったと思ったら、質問がなくなってしまった(削除のメールが届いた)。もう返事はないのですか。三日後には戻ります。前に書いたのがあるので、回答します。 ================================  論理表現云々という話だけれど、遠回しに宗教の話をされているのではないかという気がします。「信じること」(違いますか)。根拠なきゆえに、信じる。言い換えれば、Credo quia absurdum、不条理ゆえに信じるのでしょう。けれど、信じる――宗教って、本当にそういうものでしょうか。当方とは、根本が違っているような気がします。  しばらく『天国への階段』を数え上げているあいだ(それは地獄へだったかもしれませんが)、ずっと教父の訓えを考えていました。どういうわけか、犬と猫が思い浮かんだ。波の音が聞こえ、それが心臓の鼓動のように感じる。階段を上る足音だったのかもしれない。  Omne siquidem datum optimum, et omne donum perfectum desursum est, descendens a Patre luminum, sine quo nihil possumus facere : sed ipse in nobis facit opera, non tamen omnino sine nobis, cooperatores enim Dei sumus sicut dicit Apostolus.  教父が仰るように僕にとって日本語はいつも、credoではなくdonumだった。――与えられたる最善のもの、完璧なる賜り物は、高みより、神の光から降り来るものであって、それなしに僕は何も成し得ない。僕にとって、日本語はそんなかけがえの無い贈り物だった。  働きかけるのは神であり、だからこそ僕は「信じることなし」に、全てを彼におまかせするのです。先行するものに身を任せる。たとえそれがよくわからないルールであったとしても、世界に遅れてきた僕は、そのルールにおまかせすることができる。  どこでもない世界のまん中に僕は立っている。右手に広がる世界、左手に広がる世界、共時的な世界には広がりがあり、この広がりの体系は、八百万の神々を物語るかもしれない。さらに、前後にも広がりがある。過去、現在、未来という通時的な世界には時間の流れがある。流れの体系は、ひとつの創生から終末へと結ぶ神を物語るかもしれない。  けれど、遅れてきた僕には、世界にどんなルールがあるかなどまるでわからない。わからないけれど、そのルールに任せてしまうこと、身を委ねること――これが、僕の思う宗教です。それが教父に訓えていただいた、僕の立ち位置です。  考えが足りないぶん、身体がそれを感じている。けれどそれがたぶん、一番美しい行いだと、僕は「信じている」。僕の哲学は、ここから始まる。そして、宗教は「信じること」にいつも先行している。考えより、身体が先行している。だから自分の身体に教えてもらいながら僕は、先行するものに従おうと思う。そういう意味で、「信じる」ことから始まる哲学に、自分の第一原理は譲れない気持ちを持っている。  もう一度、いっしょに考えましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。  取りあえずは すでに成った文章にて お応え申し上げます。  直前のご回答でのやり取りでは 《主観内面にとどまらず 信仰をひらくべきだ》という話になっていますが ここでは ぎゃくに 非思考としての信仰の問題になります。その視点から けんかを眺めてみようというところでしょうか。  《信じる》とは 受け容れることです。《絶対》という想定を受け容れることです。  絶対は 経験世界を超えていますから 有無をも超えています。それを しかも 有・無で 仮りに表現しようとします。ですから 絶対を受け容れるとき 有で受け容れるか 無で受け容れるかで 表現に違いが出て来るはづです。つまり いわゆる有神論と無神論とです。これが どちらも 信仰であると考えます。  非経験思考ゆえに 無根拠ですし 無根拠ゆえに その代理表現としては 《神はある》と 《無神はある(つまり神はない)》との 両様の信仰の形態が現われるという寸法だと思います。  むろん 信仰は 経験存在としての人間が非経験存在としての絶対者を受け容れるという経験行為ですが 非経験思考であるゆえに わづかに こころの明けや伸びとして 起きるものである。つまり むしろ なぞの出来事だと捉えられるはづです。ですから それは 身体=精神に先行しています。先行しているものへ からだ=こころが わづかに 開けて 伸びるかに感じられるといった行ないなのだと考えます。  ○ 絶対なる《なぞ》・・・こころの明け・伸び=信仰 ≧ 人間存在(つまり 身体=精神) ≧ 生きる ≧ 生活(思考および行動) ≧ 経験思想および経験科学  第二項と第三項との順序が すこし 落ち着かないようですが こんなところだと考えます。すなわち  ★ 働きかけるのは神であり、だからこそ僕は「信じることなし」に、全てを彼におまかせするのです。先行するものに身を任せる。  ☆ 《信じることなしに》という字句との 字面のうえでの矛盾は 解消すると思うのですが いかがでしょうか。  ちなみに つまりは 宗教は この信仰観もしくは信仰の目に映ったものとして捉えたところの世界観を わざわざ 人間の言葉にして やはり仮りに表現したその内容を ひとにおしえるためのものです。組織集団をつくり 教義としてしまえば 逆に ひととその信仰の自由を 束縛する恐れが出て来ます。一般に 信仰の宗教化は 信仰にとって自殺行為だと考えます。  あとは ぶっきらぼうのままとします。

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