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承平天慶の乱について

「承平・天慶の乱の背景を、国内的、国際的観点から論じなさい。(乱の経過ではない)」という問題が大学で出されました。 もしも、この承平・天慶の乱の経過説明ではなく、国内的、国際的観点から意見を述べることができる方がいらしたら、どうか教えて頂けないでしょうか? 国内的、国際的観点から、どのポイントに目を向けるかでも結構です。 自分が勉強した限り、経過までしか理解することができませんでした。 わかる方がいらっしゃいましたら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。

みんなの回答

  • wildcat
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回答No.3

国内的に 武力を持つものはその頃は武力を殆ど持たない貴族階級の下僕並みの扱いを受けていて不満が高まり始めていた。その中で武力だけでなく統治能力を持つ武人も生まれだしてきていた。彼らは武力を持たない貴族階級の人間にこき使われるだけの世の中の仕組みに倦んでいた。武力を持つ人間が勢力を持つ下地が育っていたということでしょう。 国際的に 今と違って外国との繋がりは殆どないだろうし、遣唐使も廃止されていたと思われる。従って外国の情報などは皆無ではないだろうか? 日本は島国なので直接外敵に襲われることもないのではないだろうか? 奈良時代以前なら朝鮮半島との行き来はあったろうがこの時代では皆無に近いのではないか。 考えられるのは遣唐使が廃止される前に、中国では武力により勢力を持った騎馬民族などの存在は知っていたかもしれない。また、そういう勢力が時の政府を脅かす存在になる場合があることなども。

noname#81218
noname#81218
回答No.2

同じ問題をどこかで見たような気がします。 <国内的観点> ・政府が武士の実力を認識した。 ・政府の軍事力の低下によって地方の武士の組織化が進行。 武士の出現という観点で書けば大枠は外さないでしょう。 <国際的観点> ・刀伊の入寇とあるが、一連の流れ、としたときたしかに関連性はある。(遼(契丹・キタイ)が北方で勢力を拡大し、1004に壇(本当はサンズイだが)淵の盟を結ぶなど、南下した。それによって女真族が押し出され、刀伊の入寇(日本だけでなく、高麗にも)に繋がった。これに対し、国内では承平・天慶の乱によって国の兵が組織されため、撃退できた。) しかし、背景とあるので時代を考えたとき、刀伊の入寇の方が年代的に後であるためこの場合は適当ではない。 ・高麗の成立(あんまり関係なさそう) ・唐の滅亡。遣唐使の廃止などによって朝貢する国がなくなった→(中央の権威の低下)→各地の武士団の自立が促された。 (強引な気もするがこれ関連な気がします。) 大体こんな感じではないでしょうか?

  • tanuki4u
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回答No.1

国内的 たぶん、武士層の成立という観点で論じなさいと言うことでしょうね。 国際的 同時代的には刀伊の入寇が1019年 中国北方民族が勃興したなんてのと絡めるのかな、よーわからん。

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