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道徳規範は 愚の骨頂

shift-2007の回答

  • shift-2007
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回答No.2

>なぜなら 道徳やその規範によって われわれは 生きているのではなく それによって 社会生活をいとなんでいるのでもない。 そうですかね。 私にはこれもまた真なりと思います。 生きるうえで他人の存在を考慮しないわけにはいきません。 その道具としての道徳規範じゃないでしょうか。 生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。 それにbrageloneさんも道徳規範がなければ道徳規範に問題点があるとは気づきえなかったでしょう。 つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。印象だけで ものを言ってよいとすれば たぶん shift-2007さんは この問題を 哲学としては 半分程度にしか 取り扱っておられない。まづ こう感じます。  ★ (No.1) 〔道徳規範にかんして〕 それだけ人はパターン化しているということだと思います。  ☆ この《パターン化》の現象は 今回のご回答を合わせて捉えるなら 必ずしも 法律問題としてではなく 道徳規範の問題として 扱われていると見られます。つまり  ★  生きるうえで他人の存在を考慮〔するため〕の道具としての道徳規範じゃないでしょうか。  ☆ というように 《生きる》という現実に 組み込まれていると見ておられるようだからです。  文章なり片言隻句なり 言葉で表わされたものは 規範としてあるかどうかにかかわらず 記号である要素として 道具になるでしょうし あるいは いわば時と場合によっては 琴線に触れる重みをもって告げられたもののようにもなるでしょう。そのような側面を別として 道徳規範が どういう 意味を持つかなのですが  ですから 回答いただいたところの   ★ 生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。  ☆ を取り上げてみましょう。規範の具体例としては やはり 次が いいでしょう。  △ 和を以って貴しと為す。  ☆ そうしますと けっきょくのところは  ○ なぜ 規範に従うか。  ○ 愚行とは言えない従い方が ひとつの側面としてでも あるか。  ☆ こういう問題になります。  もし規範にしたがうことによって 和が維持されたとすれば 規範の内容を理解したからではないでしょうか。理解によって その規範を超えて みづからの意志行為として 和としての考えやおこないを表現するからだと思われます。それ以外では すべて 《愚行》であるのとちがいますか?   思考停止 あるいは この《和を以って・・・》の音のひびきを聞くとともに ただ条件反射しただけというのでは 愚行にならないですか?   なぜ規範にしたがうか。その内容を みづからの意志の表現として 妥当だと考えるからでしょう。規範がなくても そのひとは 考えるでしょう。規範があるから――世間で その規範を やかましく言うから―― それに従うのでしょうか? もしそれなら 愚考かつ愚行であるのではないでしょうか?   ★ つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。  ☆ つまり人間の知恵と思考とによって 道徳(倫理)を 生活の動態として考え出すのであって また そのように行動するのであって 規範は それとは別に そう(規範化)したい人びとが 勝手に作ったものではないですか? そんなものは 要らないのではないですか?  思考――それが いくら試行錯誤であっても――が 土台であって その土台の動態として 道徳ないし倫理が編みだされるのであって これらの規範化は 何の意味もないのとちがいますか?  道徳規範は 現在の社会において 既成事実です。既成事実であるからと言って この今の質問が その既成事実という土台の上に成り立っているというのでしょうか?  あなたは いま 日本語を使って ものを言っている。その言語は 土台であるはづだ。そのように 日本語を土台として この質問は成り立っているのではないでしょうか。――と言われても おかしいでしょう?  そういう問題ではないはづです。いかがでしょうか。  * 道徳規範が 既成事実であることと 日本語が 土台であることとは 性質のちがう二つのことですが それでも 例示に取り上げたのは  ★ 道徳規範を土台にして  ☆ というときの《土台》という言葉の用い方が 適宜なものではないからだと思います。    * 相手が shift-2007さんなので わたしも 余裕をなくして 論議に夢中になっているかも知れません。そのへんのことは あしからず ご海容のほどを ねがっておきます。

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