• 締切済み

ハイデガーの「存在それ自体」について

old_shoの回答

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.3

読まれたお二人に割り込んで、申し訳ないですが。 「存在」が類・種ではないとして、それが、「あらゆる主語の術語になる」とどう繋がるか、読めば分かるかも知れないですが。読む前から、それは単に「主語」と言う概念の規定によるもので、「主語」を特別なものにするという前提になっている、と感じます。したがって、「存在」を主語に「何か」と問うのは、それこそ「何なんだ」。 ――中公の原・渡辺訳と、ちくまの細谷訳、引用された個所でもずいぶん違いますね。easy_allさんは、日本語訳で理解できるかと言う文を引用されていましたが、日本語としてこなれているのは、どっちでしょうか?両方を読むのはしんどいので。 jojopop999さん、失礼しました。

jojopop999
質問者

お礼

まず、岩波の桑木務訳はやめたほうがいいです。 訳がドイツ語に忠実すぎて何を言っているのかさっぱりです。 その点、ちくま版はある程度噛み砕いた表現をしているのでわかりやすいです。 中公版のほうが註が充実しているとのことで、 そちらを重視する方はそちらのほうがよいでしょう。

関連するQ&A

  • 存在と時間

    ハイデガーの「存在と時間」の中の記述です。 アリストテレスのいう、「類や種は、種差の述語になりえないのに対し、「存在」は、類種はもちろん、種差に対しても述語づけられうる。」 というのはどういう意味ですか?

  • 「存在と時間」の一節について

    ハイデガー「存在と時間」について質問があります。 ちくま学芸文庫、細谷貞雄訳のp288~p289に「世界=内=存在ということによって本質的に構成される存在者は、みずから各自の「現」(「そこ」)を存在している。(中略)《ここ》や《あそこ》が可能であるのは、ひとえに、ある《そこ》(「現」)においてである。すなわち、《そこ》(「現」)の存在としてすでに空間性を開示している存在者が存在するときにである。(中略)この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現=存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在しているのである。」とあります。 私の素朴な感じ方から言うと、「この私」自身の存在が開示され、引き受けられているのは「ここ」においてである、と思うのですがなぜハイデガーは「そこ」だと言うのでしょうか。また「Da=Sein」の「Da」を「そこ」ではなく、「現」と訳すのは、どうしてなのか、またどのような意図が組み込まれているのでしょうか。 どなたかご回答をお願いいたします。

  • 『存在と時間』のレポート

    大学でハイデガー『存在と時間』を読むという授業を取っているのですが、レポートをどう書いたらよいのか困っています。授業自体は分かりやすい説明をしてもらえるのでなんとかついていけてると思うのですが、それをレポートにするとなるとどういうふうに手をつけていけばよいのかわかりません。『存在と時間』を読んで関心を持ったテーマについて論ぜよ、という課題ですが、とっかかりが全く思いつきません。レポートを書く上でどういう風に考えを纏めていけばよいのか、参考になるご意見をもらえたらうれしいです。

  • 哲学における「実在」の概念について

    「実在」という概念は、哲学上、どのように捉えられているのでしょうか? 「存在」はハイデガーの論考に代表される大問題ですし、「実存」も、バリバリの大問題です。ですが、素人的には「実在」って、そういうレベルでは考えられたことがない気がするんですが、どうでしょうか? とはいえ、「存在」とも「実存」とも違うのは確かなので、そういう概念自体には意味があると思うので、それなりに考察に値するはずだとは思うのですが。。。 わたしはいま、「生物の種の実在性」ということをちょっと考えているんですが、そういうことを考えるのに、そもそも、「実在とは何か」っていうのをはっきりさせないと始まらないと思うんですが、どこから手をつけていいのかわかりません。それに、そういうのは生物カテで聞く問題でもないと思うので。 詳しい方よろしくお願いします。

  • ウパニシャッド哲学(零)

    ボクは,ゼロの概念の基になったと思われる言葉を, 見つけました.ボクの考えでは,バガヴァーンこそ ゼロの正体であり,実体であり,普遍の存在ではな いかと思ったのですが,これで良いのでしょうか? 以下,バガヴァッドギータより引用. バガヴァーン・クリシュナは言う. わたしは,あらゆる感覚を持ち,何処にでも存在する. しかし,わたしは,感覚器官を持たない. あらゆるものは,わたしから生まれた. 今,生きている命が,かつて生きていなかったことが あるだろうか. 命は,それが纏う肉体こそ老病死を経験する事あれど, 命は,昔も今も不滅である.

  • 『存在と時間』の実存概念について。

     ハイデッガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)に出てくる、「実存」という概念について質問します。48ページに、「現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合っている存在そのものを、われわれは、実存(existenz)となづけることにする。」とあります。  これは現存在自身の存在、現存在以外の存在者の存在を含めて、現存在が何らかの形で了解しつつ関わりあっている存在のことを「実存」と名付ける、ということでしょうか。  またもう一つ質問があります。48ページから49ページにかけて、「現存在は自己自身をいつも自己の実存から了解している。すなわちそれは、自己自身として存在するか、それとも自己自身としてでなく存在するかという、おのれ自身の可能性から自己を了解している。」(中央公論社版「世界の名著シリーズでは80ページ下段)とあります。  「おのれ自身の実存」とは現存在自身の存在のことか、それとも現存在、現存在以外の存在者の存在も含めた意味でのことでしょうか。  また、「自己自身として存在するか、自己自身としてでなく存在するか、」とは具体的にどのようなことでしょうか。「自己自身」とは現存在自身、「自己自身としてではく」とは、例えば、鉛筆という存在者は自己自身ではない、といったほどの意味でしょうか。  ご教示よろしくお願いします。

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • パソコンの起動音を当時のユーザーはどう思っていた?

    昔はPC-98やMacintoshなど、ハードウェア自体に起動音が存在するコンピュータが多かったと思います。 今となっては一種の文化として捉えられ、外付けハードを用いて意図的に再現しようという概念すらありますが、当時のユーザーは起動音についてどう思っていたのでしょうか?

  • ハイデガー 死への存在

    一人称の死としてハイデガーの「死への存在」を論じる、とはどういうことでしょうか? また、「死への先駆」について論じたのはハイデガーですか?