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ウパニシャッド哲学(零)

ボクは,ゼロの概念の基になったと思われる言葉を, 見つけました.ボクの考えでは,バガヴァーンこそ ゼロの正体であり,実体であり,普遍の存在ではな いかと思ったのですが,これで良いのでしょうか? 以下,バガヴァッドギータより引用. バガヴァーン・クリシュナは言う. わたしは,あらゆる感覚を持ち,何処にでも存在する. しかし,わたしは,感覚器官を持たない. あらゆるものは,わたしから生まれた. 今,生きている命が,かつて生きていなかったことが あるだろうか. 命は,それが纏う肉体こそ老病死を経験する事あれど, 命は,昔も今も不滅である.

noname#150036
noname#150036

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  • ベストアンサー
  • sarasuva
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回答No.1

零の概念とは大日如来様ではなかったでしょうか?

noname#150036
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます. ボクが友人から聞いた話によると,ゼロの概念はインド哲学 から始まったんだよ,ということでしたので,調べもせずに 信じていました. これは調べる必要がありそうです.有力な情報を頂きまして 感謝いたします.

noname#150036
質問者

補足

良きアドバイスを頂きましたが,調べるのには まだ相当の日数がかかりそうなので,いったん 閉めさせて頂きます.(数ヶ月かかるかも)

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  • カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

    カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?