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田子の浦?

山部赤人の和歌に「田子の浦に うち出でてみれば しろたへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ」がありますが、(万葉集のもとの歌は置いておきます)まず、田子の浦は「田児の浦」とも表記しますか??2つめに、田子の浦から実際に富士山は見えないという話を聞いたことがあるんですが、本当でしょうか?よろしくお願い致します。

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回答No.2

現代の表記では『田子の浦』『田児の浦』どちらもあります。一般的には判りやすさもあってか『田子の浦』がよく用いられますが、詠み人である山部赤人に言わせれば『田児の浦』になるでしょうか。というのも、この歌が収録されている万葉集の巻の三には、『田皃之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留』と記されているからです。ここにある田皃之浦の〔皃〕は〔児〕の旧字体です。つまり原文に忠実に書こうとすると、『田子の浦』よりも『田児の浦』の方が良いということになるわけですね。 さて、この『田子の浦』(ここでは一般的な表記を使うことにします)ですが、いったいどこにあるのかということから考えなければなりません。これまた一般的にいえば、静岡県富士市の田子の浦ということになります。しかし、『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあり、赤人の歌の場面はこの多胡浦を指すという学説があります。「廬原郡多胡浦」は今の静岡県静岡市清水区にあたります。更には、歌人の江畑耕作氏は「田子の浦は安房田子の浦である」という考察をされています。これは現在の千葉県東金市にあたり、赤人塚と呼ばれる山部赤人の墓があることからも、可能性としては小さくありません。 田子の浦は以上の3ヶ所になるわけですが、どの地点からでも富士山を望むことができます。静岡県内の2ヶ所からはもちろんのこと、千葉県からも海越しに望むことができるのです。ただ、千葉県からの場合は視界が良い場合にはという条件付になりますね。万葉の時代にはよく見えたのでしょうが、現在では空気が汚れていて古の空とは違ってしまっているからです。

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  • uhouyori
  • ベストアンサー率35% (21/60)
回答No.6

みなさんの方が詳しいみたいですが、ここで言う「田子の浦」は富士市の田子の浦ではないことは確かです。

回答No.5

No.2です。 No.4の回答者さん、ご指摘ありがとうございます。貴殿のご指摘どおり、「千葉県東金市」は「千葉県安房郡鋸南町」の誤りです。赤人塚の所在地と混同してしまいました。お詫びして訂正させていただきます。 因みに、本説の出典は江畑耕作氏の「壬申の乱と山部赤人」という書物です。万葉研究グループの定例会で紹介されたもので、一般の書店では見つからず古書店で探して手に入れました。本説はその中の本の一部ですが、山部赤人という歌人の人物像を覗うにはおもしろいと思いますので、ご興味があれば一度ご覧ください。

noname#111031
noname#111031
回答No.4

"これは現在の千葉県東金市にあたり、" umimarukunさん、外房の東金ではなく、”内房の鋸南”あたりと、あなたの引用された方は書かれているのではないでしょうか。 鋸南と木更津などの内房でしたら、現在でも富士山はばっちる見えますし、上総の国府推定地(?)にも近いのではないでしょうか。外房からでは、房総半島の背骨に当る丘陵でさえぎられ、高みに上らない限り富士山が見えないと思いますが。銚子からは見えるそうですね。浮世絵であるようです。

  • LN-TF
  • ベストアンサー率53% (320/596)
回答No.3

田子の浦か田児の浦かは既に回答のあった通りです。昔は地名の記述に揺れがあった場合があります。由比か由井かなど。 さて、後半ですが、富士山が見えないと云うのではなく「雪は降りつつ(雪が降っている)」と云う光景をさしているのではないでしょうか? 幾らなんでも今雪が降っているのか積もっているだけかの峻別は難しいのではと思います。万葉集(「まんにょうしゅう」、「まんようしゅう」訓みかたは両方あり)の元歌では積もっているとのみ云っていますから、遠景でも白銀ならば雪が積もっている位は充分わかりますよね。

  • toko0503
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回答No.1

「「田子」の方が圧倒的に多いですが、「田児」もありますね。 「田子の浦」は、駿河湾の海岸沿い一帯(富士市田子付近?)を指すようですが、 歌に詠まれたのは「田子の浦ゆ うち出でてみれば………」 とあるように、田子の浦から/田子の浦を経由して 見晴らしのいいところに出てみれば……… ってことですので、 やはり当時のその付近は富士山の絶景ポイントではなかったかなぁ、と思われますよ。 ただ、現在では駿河湾も他と同様、多少の汚染もあるだろうし、 付近も工場が建ち並んで、当時の面影があるかどうかは、不明ですが………  (^^;; 参考までね

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