• ベストアンサー

ポルノと言う存在。

arayata333の回答

回答No.21

私が「ポルノ」についての質問をしたのは、表現者としての迷いがあったからで コメントの内容を見ていただいても、対話を求めていなかったことは理解していただけるかとおもいますが、(ですので ある程度迷いが解けた段で締めさせていただきましたが)  こちらでは 性についても総合的表現の専門家として対話を求めての回答をしてみたいと思います。 性のカウンセラーとしての専門家の自信は無いのですが、それだけ深く首をつっこんだ者であり、どうやらその開拓の立ち位置にいる人間として、 つまり新しい創造の迷いや苦悩にむしろ傷だらけのそういう専門家として対話を求めてみたい。 ということです。 (その表現の道を通していつか性のカウンセラーにもなれるものならなって見たいという気持ちはあります。) 最初の頃の 性との出会い(入り口の頃?)ということについても、 私の子供時代にはかなり特徴的なおもろいことがけっこうあるので、機会があれば後に書いてみたいと思っていますが、  まずは、いままでの質疑を見まして、(1)「性愛と憎しみ」と(2)「嫌悪感と、楽しみのつまみに出きる時との差」についての心理や感情の問題の二つをとりあげることで、 悪意によってもぎ取られた翼の修復に役立つか(あるいは、そのマイナス感情を「跳ね除ける」すべとなれるか)を追求してみたいと思います。 中村元という禅の研究者であり学者として有名な禅者でもあるかたが、性愛について「それが深いほど、憎しみも深くなる」という意味のことを書かれていますが、   その考えを全面的に賛成しかねる私にも、禅者らしい実直な観察の深さには感銘するところです。 実は 詳しく書くならば、東洋医学の気脈のながれの 最後のツボである眉間の下というか目と目の間あたりのツボと関ることという理解が今の私の中にはあるのですが、 ともかく目と目の間には 全部の気とか生気とか肌感覚とか肉感的な愛情とかの総合がそこに最後のその全部を集めてあふれてゆくというような感じの 最後のツボのようなものがあるのですが、 そこは同時に動物にとっては(私たちも動物でもあるわけですが)、憎しみとか恐怖の時に全身の気を逆立たせるかのような怒りとかとともに そこにこそ皺が刻まれる部分なのです。 牙を剥く時の あの恐ろしい形相の集中点ですね。 これを 気脈の方から説明してゆくと 長くなりすぎます。 (中途半端に書くと まるで占い師か神秘家のおまじないのような^^お話となってしまいます。) 大雑把ですが 動物と人間の違いで説明させていただきます。(これは感情についての考察にも役立つところです。) 動物にもさまざまな 人間の場合と同じような言葉でも括れてしまいかねないような感情が ちゃんとたくさんあります。 ほんとうは、おそらく解かりきることの出きるような簡単な問題ではないでしょうが、 ともかくそれを説明のために単純化して書くならば、 でも動物の場合の感情は 全部自己の本能の内部事情として起こる意識の形となっている というふうにも表現できるかと思います。 まあ 円の単純な図を描いて考えれば、 その円の中にさらに円をたくさん描き、その小さい円に、 怒りとか悲しみとか憎しみとか仲間意識とか子供への情愛とか、あるいは“毛づくろいの優しさ^^”とか いう言葉もいれてゆくことが出きるということです。 であって、 最初の大きな円は “自己の本能に囲まれている”という意味の円です。 それこそその本能が邪魔された時には、牙を剥きます。 怒りという感情?は素直に頂点にまで上り詰めていきます。 (この前の回答の続きじゃないですけど^^。) この場合恐怖と怒りの感情でしょう。  フウウウウうう っ ウガガガア   という感じでしょうか。 これ、テレビで オスのライオンが交尾の途中で メスライオンに同じ怒りをさそう場面を見たことがあります。 動物でも いや動物だからこそ脳が素直にそれを闘いと勘違いする時があるということでしょう。 動物にも似た流れで気脈があるのですが、私に言わせれば全気脈が動物的である時には、同じようになってしまうということです。 つまり 人間も動物ではあるのですから、 その根は深いということです。 ともかく そういう動物はやがて 進化の過程で人間の脳へと たぶん突然変異します。 私の推理では これは徐々にという感じのものじゃないです。  猿が木から下りて危険を乗り越えながら知恵が進化したという説もありますが、ほんとうは その過程のどこかで さらに一気かどうか知りませんが、突然変異みたいなことがあったと思うのです。 紙数の都合で詳しい考えは書けませんが、ともかくでは何が動物とは大きく違ったのかというと 本質的には「見つめる能力」ということですが、それと同時に感情のいきなりきめ細かに奥深く新鮮になったのです。 この後者についての感情のいきなりの進化説を誰も語ってないようですが、そこが私には学問の不可解?なとことです。 コペルニクスじゃないですが、私の推理の方が絶対正しいです^^。 ともかく、その時人間は 人間となったのです。 円内からいきなり、別の円との関係を「見つめる」ことができるようになったということです。 そして、まだ言葉を知る以前から 一番星にはじめて気がつき目と目でその美を見交わしあったんです。  この宇宙に  意味とか価値が生まれた瞬間です。 テーマから外れた話ではなく、ここが肝心なのです。 やがて人類は 言葉をその同じ「見つめる脳」のちからで獲得しました。 しかし、その言葉によって私たちのもともとの森の中での 「人間性」のほうは失われてもいきました。  文明病の 根深い根深い複雑な発生が徐々にここに起こってしまったのです。 新鮮な 嘘の無い 星を見つめあう子供のような自然な感性で セックスの世界、欲望の世界を「見つめる」力を 失っていってしまったということです。 セックスの不浄感、 道徳的嫌悪感、 それへの反逆心、 不潔なみだらな心、 の二重の分裂した心理の始まりです。 まず、このセックス史観について、ユッキンムムさんに質問要求しておきます^^。  66。 紙数がないので、  ここまでとなってしまうのか、かけです^^。

noname#122427
質問者

補足

再びの回答をありがとうございます! お待ちしておりました。^^ >私が「ポルノ」についての質問をしたのは、表現者としての迷いがあったからで  何か表現のお仕事をなさっていらっしゃるのですね。 もう一度、arayata333様の先日のご質問を読み返して参りました。 >成熟した健全な性の世界は あまりにもすばらしい世界です。  >表現者なら表現しないではいられない世界です。   >それは偽善や心の傷をどれだけトータルに癒してくれるかを考えるならば、 >表現者にとってこの問題は避けて通るべき問題ではありません。 そうなのです。性によって傷付いた私も、性によって癒されているのだ、と実感する事がしばしばあります。 嫌悪し拒否しながらも、「本当はきっと素敵なものなのだろうな。。。」と夢見ていた思春期の私も居ました。単に好奇心が強かった、と言う事かも知れませんが。汗 そうは言いましても、先日のarayata333様のご質問は、未だ掴み切れない部分が多く在ります。それは私のこの質問にて解決したい問題でもあります。何だか、まだまだ締め切り出来なさそうです。。。 >これ、テレビで オスのライオンが交尾の途中で メスライオンに同じ怒りをさそう場面を見たことがあります。 あーーー。。。何か興味深いですね。 そう、セックスについて興味深い、と私が思うのは、何故「痛み」や「くすぐったさ」等の「本来不快な筈の感覚」が「快感に転化されるのか?」と言う事です。 そして、互いを「暴力的な迄の感情の渦」が巻き込みます。 私は「性の入り口」から、一貫して、性行為と暴力を紙一重に感じて来ました。これは拒否感で感じている、と言う意味ではなく、もしかしたら、私自身の「性癖」と言う事なのかしら?と悩みつつも、やはり、性行為に含まれる「暴力の存在」を敏感に感じて来ました。 何も暴力に限らず、「相反する両極端の存在」がセックスの中には混在するように感じられるのです。それこそ「生と死」迄もが。 ですから「愛と憎しみ」も「慈しみと怒り」も「細やかさと暴力」も「日常と非日常」も。。。 >では何が動物とは大きく違ったのかというと  >本質的には「見つめる能力」ということですが、 >それと同時に感情のいきなりきめ細かに奥深く新鮮になったのです。 この週末、子ども達と夫と、近所の小さな動物園に行って来ました。^^ その動物園にはオランウータンが居るのですが、何時見ても「魂を感じる」と思ってしまうのです。 タイヤを揺すってジャンプする姿、綱から綱へと渡る姿、ふとした時にこちらに見える背中に、明らかに「他種の動物には無いもの」を感じます。 何と言うか。。。「経験から得る先読みの能力」とでも言うのか、「思考から行動に移る一瞬の躊躇」と言うか。。。他種の動物からは感じた事がありません。 彼ら大型霊長類とヒトは何が違うのか?と言うと、やはり「言葉」かな?と。 その「言葉の有無」を分けたのは、arayata333様おっしゃる「見つめる脳」の有無、と言うか程度の違い、と言うか、ですね。 「物を見る」時に、他種の動物は「見る」。ヒトは「見つめる」。 物に「存在のみを感じる」他種の動物。「存在と同時に意味を感じる」ヒト、と言った所でしょうか。 ヒトにとっては、物の「意義」は存在よりも「意味」かも知れませんね。 「意味」を感じた時点で、「言葉の必要」が生じますものね。 「存在を感じる」のみなら、「鳴き声」で充分かも知れません。 >しかし、その言葉によって私たちのもともとの森の中での 「人間性」のほうは失われてもいきました。 「言葉」にも「意味を求めて」しまったからかも知れません。 でも、文明病が発生し、「自然な感性で見つめる力」を失ったとしても、こうして此処で、その「言葉」によって、その根源についての教えを請う事が出来ます。^^ 無くした物も取り戻す事が可能になるのが、言葉の力であり、ヒトの「見つめる脳」だと思うのです。^^ 私の読み取りで間違いがありましたら、どうぞご指摘下さい。 かなり「飛躍し易い思考回路」をしておりますので、ずれまくっているかな?と不安です。汗 のんびり開けておりますので、また続きを頂けましたら嬉しいです。^^

関連するQ&A

  • これは性嫌悪障害?

    私は性嫌悪症でしょうか?24歳の女です。 自分が誰かと性行為をすることが嫌です。 気持ち悪いです。自分を性的な目で見られるのが嫌です。 性欲はあります。一人でならします。 他の人がしててもどうでもいいです。AVも見れます。 ただ基本的に性行為は男性の性欲処理のために女性が付き合わされるもの といったイメージ(偏見?)を持っているため、普通の男女のものより同性同士のもののほうが 見ていて不快感が少ない。 キスはなんとか可能。好きな人からはイヤらしい感じでなければ抱き締められたいと思う。 恋人相手でも自分はしたくないから風俗店で発散してほしい。 浮気は嫌。 性嫌悪症だとしたら、恋愛はどうすればいいのですか? 多くの男性にとって付き合うことに性行為は当然のように伴っていますよね? 恋愛するのが怖いです。付き合っても私が性行為を嫌がることが原因でふられるのではと怖いです。どうすればいいですか?どうすれば嫌悪感を払拭できますか?

  • 男のポルノをゲイコンテンツと称するのはなぜでしょう

    前々から違和感を感じています。 男性をモデルとして扱ってるポルノコンテンツ、男性用アイテムへのフェチコンテンツ。 これらをゲイコンテンツと称していることが目に付くのですが、なぜそう称するのでしょうか? ポリティカルコレクトネスの観点から見ると、正しく無いと思います。 当然、ゲイの人からの需要が一番多いかも知れませんが、他にもバイの人、女性、さらにはもっと違う需要(以下詳細)もあるかと思います。 そもそもゲイというのは、この定義間違ってたら済みませんが、男同士の恋愛感情であったり、その恋愛感情の延長線上にある性的感情のことだと思います。 これは正しくないでしょうか? もしそれが正しいのであればその枠外からの需要もあると思います。 特に、そのコンテンツに性的興奮を覚える必要条件の中に、モデルが男性であることのみではなく、(衣服などの)アイテムであったり、そのシチュエーションであったりが含まれているのであれば、それは「フェチ」だと思います。 フェチは性的指向に縛られない場合もあり得ます。 例えばゲイコンテンツとして扱われやすいフェチの1コンテンツとしては、代表的なのだと男性用競泳水着である「競パンフェチ」というのがありますね。 同性愛者ではない、異性愛者や無性愛者の競パンフェチが無いかというと、それはありえます。 誰かへの恋愛感情は無関係に、競パンというアイテム自体にエロスを抱ける、自分でも競パンを着用するのがこよなく好きだ。 こういう人は異性愛者や無性愛者の競パンフェチになり得ますし、実際に異性のカップルがいるにも関わらず、競パンというアイテムに惹かれていて、着用自撮りをTwitterに上げてる人などを見たことがあります。 だから特にフェチに関して言うと、自分でも特定のアイテムの着用が好きであったり、特定のシチュエーションを体験することが好きであること。 またそれを通じて、同じ様なことをする同性に対して自己投影ができたり、仲間意識を持てるという意味で、その範疇にも性的興奮を抱くことが可能である。 こういうのは性的指向に必ずしも関連しないですし、ゲイコンテンツと称してしまうのは中立性が無いし、全体の実情に即さないと思います。 あくまで男性がモデルのポルノをゲイコンテンツだと言うならば ・コンテンツを見る層が必ず男性じゃないといけない ・モデルに恋愛感情を持っていなければならない ・性的興奮を抱く動機も、その恋愛感情の延長でなくてはならず、自分が同じことをしたい、するという理由で自己投影の対象や仲間意識を持ってはダメ という、ひどく狭い枠内の話になってしまいます。 実際の所そうとは限らないので、男性をモデルにしたポルノコンテンツやエロスを、ゲイコンテンツと称してしまうのには、ポリティカルコレクトネスの観点からとても違和感を感じます。 ぶっちゃけ、乗用車全てをセダンと言ってしまうレベルのおかしさだと思います。 あとは思うのが、「性的興奮」というキーワードが狭くも広くもなってしまうのもその一因だと思うのですけどね。 広い順から行くと ・見て下半身が反応する ・性行為がしたいので見て下半身が反応する ・恋愛感情を抱くことで性行為がしたいので見て下半身が反応する と色んな枠に捉えられるのも問題な気がします。 見て下半身が反応するだけなら、その段階では理由は様々でしょう。 単なる生理現象に過ぎません。 二番目の場合だと、三番目以外にも、プレイとしてというのがあると思います。 恋愛感情とかじゃなくて、単に誰かにエッチなことをしてみたい、されたい、という意味のものもあるでしょう。 だから、この捉え方があまりにもアバウトすぎるから、「性的興奮」というキーワードに対して全然違う認知をしていることがあると思います。 なお、僕は誰かが確実にゲイであると思えるのは、上の三つだと一番下の場合だけだと思っていますがどうでしょう? とまあ色んな解釈ができるし、男性モデルのポルノだって見る層も理由も様々ですから、そのコンテンツをゲイコンテンツという括りにしてしまうのはポリティカルコレクトネスの観点から正しく無いと感じますし、当然それらのコンテンツを楽しむ層が必ずしもゲイではないと思います。 にも関わらず、なぜ男性モデルのポルノコンテンツを、ゲイコンテンツという括りにしてしまうのが散見されるのでしょうか? コンテンツ全体を指すならば「メンズポルノ」だったり、その中でフェチに関するものならそのフェチの名称で呼称するのが最も中立的で正確な扱い方だと思います。

  • エロそうな女性は、欲求不満に見えますか?

    37歳、既婚♀です。 私は20代の頃から、同性異性を問わず “エロそう、何かエロい” とよく言われていました。 独身の若い頃にそう見られるのはアピールポイントの1つであり、特に何とも思いませんでしたが、結婚して今この歳でそれを言われることに何だか違和感があります。 エロそうな女性は、性欲旺盛で欲求不満に見えるのでしょうか? そうだとしたら、とても恥ずかしく下品な感じがします。 私自身は特に性欲旺盛ではないし(普通だと思います)、欲求不満でもないのですが… 他人からの見え方と、実際の自分に違和感があります。 異性を惹き付けるようなスタイルではなく、細身です。 このギャップを埋めることはできないのでしょうか? アラフォーだしイメージを変えた方がいいとは思うのですが、どう変えるのかも分かりません。 とりあえずは、性欲旺盛で欲求不満に見られていたらイヤです。

  • 児童ポルノ禁止法は妥当か?

    児童ポルノ禁止法は妥当か? 今日、小中学生への強姦の疑いで逮捕者がでました。 それをきっかけに疑問がわきました。 児童ポルノ禁止法はロリータコンプレックスの人たちにとって性欲の行き場をなくし、実際に児童をねらった犯罪に走らせるかもしれないという考えも成り立つかもしれないと思いました。 アダルトビデオがなかったら、成人にたいする強姦はもっと増えるのではないでしょうか? 性欲の開放のひとつの捌け口であるポルノを禁止するのは、実際に犯罪に走る人を増やすだけではないでしょうか? もちろん、性行為を題材とするポルノは、実際にさせるのは児童にとって苦痛でしょうから、ヌードだけを開放するというところです。 あなたはどうお考えになりますか? 下のリンクも参照してください。 http://homepage3.nifty.com/hirorin/loli00.htm

  • 同性愛についてですが。

    同性愛についてですが。 同性愛の人は相手のどこを見てムラムラするのでしょうか? 姉の友達はレズでミニスカフェチだそうです。 それともう一つ。 男は性欲で性交渉 女は脳で性交渉 と聞きました。 しかし男女共に同等の性欲はありますよね?

  • 自分のセクシャリティについて。

    自分のセクシャリティについて悩んでいます。 性が目覚めたきっかけは小学生の頃女性の先生の下着が透けるのをみてとても興奮しました。初めて体を触れたのも、キスした相手も女の子です。これまで好きになった人は全員異性でしたが今ではなかったことにしたくらいの思い出です。まだ処女ですが異性と同性との性行為にはどちらとも興味があります。同性同士の性行為を見るのに嫌悪感はありませんし、同性同士とのエッチな妄想も普通にみんなしているものだと思っていました。異性愛者の人は、同性を性的に見ることは全くないのでしょうか?自分はバイセクシュアルだと思っていますが、まだ経験が足りない分、自分がそうであるという確信が欲しいです。

  • 性の悩み、同性愛など

    24の男ですが、 (1)性欲が強くてムラムラして仕方がなくなる時と、全くといっていいほど性欲のない時があるのはどうしてでしょうか? (2)男性は自分で性行為、つまりオナニーする前はまわりが見えなくなるくらい興奮してしまうのはなぜでしょう? (3)行為前は気分が良いのに、終わった後に虚無感、つまり「なんであんなにワクワクしちゃってたんだろ、バカみたい」「時間もったいなかったな」と思うのはどういうメカニズムでしょうか? (4)高校の時、性って素晴らしいものですと言ってましたが、オナニーとか性行為も人に迷惑を掛けなければ素晴らしいものなんでしょうか? (5)同性愛である自分がいまだに全部受け入れられません、脳の異常なんじゃないかとか、「気持ち悪いだ?悪かったな」とか、異性愛より出会いが無いなとか・・・。 人を愛するのに性別が関係あるんだと誰が決めつけたんですか?

  • 性的嗜好

    私は、自分が同性愛者、あるいは両性愛者ではないかと思い悩んでいます。 勿論異性が好きな事が前提ですが、異性だけを好きになる事が出来ません。どちらかと言えば、同性の方が素直に好きになれます。 しかし、はっきりとゲイ(ホモやビアン)とも言えず、バイなのかと思っても何か違和感がありしっくりきません。 実は、初めて好きになった人がバイセクシュアルでした。 異姓とも同性ともやたら距離が近いため訊ねてみると、意外にあっさり認め教えてくれました。しかし今考えると、ゲイである事を隠すためにバイだと言った可能性もあるため、よく分かりません。 また同性愛者の友人から告白され、短期間ですが付き合った事もあります。しかも1回ではなく複数回あり、1人ではなく複数人と付き合いました。 私は腐男子や腐女子と呼ばれるような、同性愛に憧れたり感銘を受けたりする感覚は持ち合わせていません。むしろ以前は、違和感や嫌悪感すらありました。今でも受け入れられない事はありませんが、あまり好みません。 自分の性的嗜好が何なのか分からなくなり、混乱しています。ちなみに私はトランスジェンダーではありません。 これらの悩みついて、ご意見をお願いします。真面目に悩んでいますので、批判や誹謗中傷はお断り致します。

    • ベストアンサー
    • LGBT
  • 児童ポルノ法により少年愛者、少女愛者の性欲はどうなってしまうのでしょうか?

    こんにちは 昨今の児童ポルノ法において単純所持をも罰する改正がなされようとされています。 以前から疑問に思っていたのですが、生まれながらに子供しか愛せない人にとってこの法律はものすごく厳しいものだと思いませんか?? ともすれば、少年少女愛者のQOLを著しく阻害するものだと思いませんか? たとえば、女性にもてない男性はお金を出せばその欲求が解決できます。男性と関係をもてない女性にしても出張ホストなどのようなものがあります。同性愛者もそれぞれに性欲を満たす店があります。 ところが少年少女愛者には性の捌け口がないのです。 これってイスラム文化において同性愛者が苦しんでいるのと同じ問題だと思いませんか?そしてイスラムの人々はアメリカにでも渡ってしまえばそれで済む話ですが、少年少女愛者に関して言えば世界中どこに行ってもこの性欲がみたされることはないんですよね。 もちろんこの法律が作られるより昔から起きている少年少女愛者による児童殺害などもあり、相手が明らかに自分より弱者であるということも加味すると規制が厳しくなるのも致し方ないことだとは思いますが、 良心的に生きている少年少女愛者も多いと思います。 その人たちにとって 今の世の中は虚無感以外の何物でもないと思いませんか?? だって性ってつまりは本能的な生きる喜びにつながるはずなのにムラムラしたら世間から冷たい目で見られるってことですよね。 この法律、今の社会はどのような形であることが理想なのでしょうか? 規制が厳しくなったらそれによって満たされない欲望はより多くの事件を生み出す結果にはならないのでしょうか?? この二つを教えていただければうれしいです。 お互い同意の上であったとしたら法には触れないというのは異性愛者の間でも同様なので今回は少年少女愛者も相手の子供も同意のうえだったら大丈夫という例は除外してお考えください。

  • 「フェチ」と「同性愛」の関係に前から疑問を感じます

    いくつか、フェチと同性愛(ゲイセクシャル)の関係について、前々から気になっている事があります。 まず、男性用競泳水着や男性用スクール水着に対するフェティシズムという物が存在しますが、当方が知る限りそれの大半が往々にして、同性愛者向けであるとされ、フェティシズムの範疇を超えると思われるようなやり取りもなされている事も往々にしてある様です。 しかし、それが微妙にしっくり来ません。 あくまで、フェチというのは人ではなく、物に対する性欲である為、同性愛や異性愛というくくりとは全く別個の物に感じるのです。 当方、(肉体的な意味で)男で、当方も男性用の競泳水着・スクール水着にフェチを感じますが、男が好きとかそういうのと全く関係がありません。 当方、幼児時代から高校時代ぐらいまで水泳をやっていました。 ある日、無性に海パンをずっと穿いていたい気分になったり、穿いたまま自慰行為をしたいという気分が起き始め、小学生高学年の頃にその性的趣向に目覚めました。 それ以降、海パンに性的興奮を抱く様になり、穿いて自慰行為をする、更に色々なレアな海パンをコレクションして部屋に集める(レトロデザインや、スイミングスクールの特別デザインなどを特に)、また性的な行為を抜きにして水辺に行く用事がある時に、殊更競泳タイプの水着を着たがるという様になってしまいました。 どう考えても、男が好きである事に無関係に思います。 が、こういったフェチが同性愛者向けの物と見なされがちなのはなぜでしょうか? もう一つ気になるのが、素人投稿系のフェチ系Webサイト(前述の水泳パンツのフェチに限らず)で、男性がモデルになっている物が「同性愛者向け」としてくくられている事です。 確かに、同性愛者も見るかも知れませんが、実際のところそれとは全く別枠(異性愛、同性愛、無性愛の枠で収めるべきではない)の人が多数利用している様に思います。 例として前述の水泳パンツの話を挙げると、こんな海パンを手に入れたよ・穿いてこんな事をしている・早速穿いてみたんだがどう思う。 こういう主旨で、同じフェチ趣向を持つ人と画像や情報を交換したい、話し合ってみたい、画像投稿をしてみたいと考えるのは、男女、異性愛同性愛無性愛問わずあることだと思います。 だからそこを利用することと、同性愛には関連性がないと思います。 また、そのフェチに性的趣向がある人であれば、同性のそういった画像を見て性的興奮(性的欲求とは異なります!)を感じる事だってあり得ると思います。 むしろ逆に同性である分、見る側が脳内で自分自身のプレイと入れ替えてしまえば、異性がモデルになるよりもずっと効果は絶大だと思います。 ロールプレイングゲームの主人公の性別を自分と同じ性別にして遊ぶ人が、異性を選ぶよりリアリティを感じられて楽しいと主張するのと同じです。 むしろ、そういうコンテンツが先に「同性愛者向け」というレッテルを先に貼られてしまう傾向にあり、そのカテゴリのフェチに興味はあるが同性愛者ではない人が、違和感を感じながらも自分のフェチを気にせず表現できる場がそこにしかないので、渋々そこを利用している状況にあると感じます。 だから、フェチを覚える人やその対象に関連するものと、同性愛異性愛の性趣向が同じくくりで扱われている事に違和感を感じますが、なぜそうなっているのでしょうか? そもそもそれ以前に、同性愛=男、異性愛=女としてカテゴライズされてる事自体、一方の性の視点からに限った物になっているだけに、それもおかしいっちゃおかしいと思うのですけどね。 でも、それを抜きにしたとしても、やはり前述の理由で違和感を感じてしまいます。 もっとも、「同性愛」という語の定義が同性への恋愛感情に限らず、そういうフェチに興味を持つ人、興味の対象云々までを包括した定義であるのならば、前提が変わってくるので間違いではなくなるでしょうけど、いくらなんでもその定義は間違っていると感じます。 どうなのでしょうか?