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ユダの福音書の何が注目されるのか

arayata333の回答

回答No.16

この「ユダの福音書」自体についての質問は ユダについての興味(弁護の心)からつい回答を書いてしまいましたが、  私にはその内容について読んでみて難しすぎます。 わたしに解からない「たとえ話」をキリストが話したからといって それは私には解からないだけかもしれないだけです。 ですのでグノーシスの考え方とかその福音書とかを否定するというのではないんです。  でも わからないものを 何か回答するということは? 難しいというより不可能に思えます。 書きましたようのアウトゲーネスのあたりから後は まったく理解不能だということです。    (多々 他の点で、いくつか面白い点とかは無いわけではないのですが、とりあげるまでのことと思えないということもあります。) もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。 その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。 でも それ以前には 私には 論議なら無理そうです。 私に解かる 興味のある点というのは、 この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか という疑問だけです。

noname#80116
質問者

お礼

 No.12の補足欄に掲げた次のサイトの《グノーシスの神話 》を読みました。取り上げるに足る内容を見出せ得ませんでした。 ■ 《グノーシスの神話 》~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismythtop.html 神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』 神話2 『ポイマンドレース』 神話3 ヴァレンティノス派プトレマイオスの教説 神話4 『三部の教え』 神話5 『アルコーンの本質』 神話6 『この世の起源について』 神話7 『バルクの書』 神話8 シモン派の教説 神話9 『魂の解明』 神話10 マニ教の教説 神話11 『シェームの釈義』 神話12 マンダ教の教説 神話13 『アダムの黙示録』 神話14 『フローラへの手紙』  神話15 『ユダの福音書』  神話16 『大いなるセツの第二の教え』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 評価が低い理由あるいは それらの特徴を記します。  (1) おおむね 聖書(旧約・新約)の記述を基軸に据えている。  (2) 言いかえると 聖書の創作に先行するものではなく あとで 《神智学》のごとく 瞑想・観想・分析・思索をおこなった結果だと考えられる。  (3) 独自の内容を主張しうるかに見えるところは 天地創造を始める神(エローヒームないしヤハウェー)の その前史ないし前身ないしさらに奥の神の世界を プレーローマ世界として いくらか ゆたかに描き出した点である。  (4) けれども それも 神の観想にしては あまりにも 心理的また心理学的な記述内容に片寄り ほとんど 取り上げる価値がない。  (5) ヘブライイスムとへレニスムとの融合というべき中身があるかに思われる。けれども 前者からは 霊(息)や智慧などの概念を取り上げ 後者からは ひとつに ギリシャ神話 もう一つに プラトンらの哲学(イデアなどその神秘思想にかかわるところ) これらを 素材としているわけだが おおむね 文学の問題であって 信仰や思想の深みに欠けるように見える。  (6) どうして 優秀な人間が このようなグノーシス主義に 価値を見出すのは 分からない。平面的な知識に満ちているだけのように受け取った。  グノーシス主義の方がたには わるいけれども これは わたしは 摂りません。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん あたらしい進展もなく わたしのほうも 煮え切らない思案中の態度をつづけていて 解せないというふうに おっしゃっているのかも分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。  その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも この判断に尽きるように思います。今の時点でです。  《ユダの愛》 これについても ひととおり 評言を述べましたし あとは ユダの福音書に もし そのように隠れた意味合いがあるのなら それを支持する人たちは 明らかにすべきだというように考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それは たぶん 感情的な敵対心のようなものが わざわいしたのだと思います。イエスを ユダヤ人が殺害したのだ・だからユダヤ人は 悪だというような 単純な間違った図式が 横行して来たようですし ユダも その図式の上で捉えられていたのだと思います。  《売り渡し》は 好ましくない行為であることに違いありませんが 要するに ほかの弟子たちのことをも含めて つねに 問題は 裏切り行為からの更生にあると考えます。それが 弟子たちには 出来ました。パウロも できました。ユダは どうかという問題にもなると思われます。  一たん 引きあげましょうか。ユダの福音書を読んで 仮りにすばらしい奥義があったとして それを見過ごしたとしても それほど あやまちであるとは思えません。そのときには そのときに 新たに 対処すればよいと考えます。  ○ イエスは ナザレ人で普通の人間であると同時に キリストとして神の独り子であり かつ 神である。  ☆ このドグマは――けっきょく 三位一体論ですが―― さらに 探究するのもよいと思います。    しばらく様子を見て 締めましょう。

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