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ユダの福音書の何が注目されるのか

arayata333の回答

回答No.12

別に師走という事ではないのですが、 肉体労働者は現場に左右されます。 日曜日も今回休めなかったこととかで、 しばらく「対話」を離れざるをえませんでした。 急に対話から離れる形となってしまい、何かと気にかけられてしまったようです。   でも私の場合、こうしたことに加えて体力的な限界とかもあります。 時々どうしてもこうなってしまうとご理解ください。 * ユダの福音書の話は始めて聞きましたが、参考URLによれば、考古学的にも後から書かれている福音書(?の解釈?)のようは書物であるようですし、 そこに新たなキリストの言葉が出ているならば私にも興味がありますが(興味なんてものじゃないですが) そうでも無さそうですし、 たぶん、それが>注目される<ことになったりしたのは、 新しく発見されたことと、“なんとそれが「あのユダの福音書!」”というマスコミ的は取るに足らない「注目」を意味してると思います。 キリスト教徒とか神学者とか歴史学者にとっても かなり面白い出来事ではあったということなのでしょけど、  わたしには関係ないことです。  brageloneさんのその>意義<を知りたいという希求も、おそらく次の点なのかと思われました。 >ユダは イエスから  ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」  ☆ と言われていますから。< その点の解釈さへ深ければ、後から神学者が書いた「ユダの福音書」という名前の書物であろうと、とるに足らない出来事なのではないか? ということなのだろうと思ったのです。 この唯一演出と思われるキリストのこの言葉の意図はいかに? というあたりから何かのヒントとなるものが出てくるかとおもいます。 ユダは十二使徒の内に入るのでしたっけ? それとも本来十三使徒だったところを裏切りのその演出によって除外される形となったのでしょうか? そのへんも私には興味が無いので憶えてないですが、 ともかく「うらぎり」とう行為をユダにだけさせた話となっているわけです。 ほかの人たちは 海に乗り出す漁師達だったりともかく庶民だったところユダだけが知的な人だったわけですよね。 私の考えは単純です。  漁師達、大自然と労働に明け暮れる人達のほうが、宗教以前の森の魂に近かったため、より天国に近い人(子供を抱き上げて「このような人たちが天国に入る」と語ったように)だと 最後の最後に示す必要が 大工さん哲学者(キリスト)としてはあったということなのだろうと思えるのです。 「大工さん哲学者」などというのはキリストに対して失礼でしょうか? しかし私は キリストに対してはそれをどう考えても煮ても焼いても失礼にはならないと思っています。  「キリストこそ、ユダのように自責の念で煉獄に落ちよ、」とか仮に言ったとしても キリストは笑ってるだけでしょう^^。 その演出意図は、私の解釈ではですが、旧約聖書という学者の書いた読み物を最後に粉砕するためです。 もう一度 新鮮な心を取り戻し、何も着飾らない野のユリの美しさに目覚めるべく、いや今度こそゆるぎない自然本性の人間のふるさとへ帰還すべく、 キリストが生まれた土地の律法を一度打ち破り それこそ葬り去り、完成された律法である愛を復活させるためだと思います。 もし、ユダが聖書の記録のとおり、自殺したのだとするならば(私はそんなこと別に信じてないですが^^) キリストはたぶん《知らなかった》でしょう。 へんなキリスト解釈でごめんなさい。 でもキリストは人間です。 あるいは神が人間となったのであっても(そういうことも考えられないわけじゃないです。 もともと相対的は世の中を作った、あるいはその創造に関った》どっちでもいいですが^^《のが神なら神も その意味では相対ですからね。   絶対とは人間にとって“《非思考》=《絶対》”ということですよね。)  そんなふりをしたのではなくて、科学的に私たちとおなじ生物の脳で生きられた存在であるはずです。 いずれにせよ、中途半端な《事》としてはどうしても考えられません。 未来のことはキリストも 類推程度しか出来なかったということです。 ここがたぶん神学者たちとかと私の考えとかの違いなのかもしれません?が、 べつにただ当たり前の考えだと思うのですが? あくまで 携帯電話のケの字すら知らなかったはずということです。 いや九九の掛け算だって知らなかったかもしれないわけです。はっきりと普通の人間でもあっということです。そうとしか考えられません。 でも「天国」については たぶんですが現在に至るまでこの人より知ってる人はいなかったと思いますよ。 ↓ ということは、 ユダの「福音書」というたぶん後の学者の創作物は、内容も取るに足らないのではないか? ということをこそ、すでにイエスの演出が物語っている、というふうにも思えてきませんか? もちろん、人が一生懸命創作した世界を馬鹿にしてるということでも、尊重しないということでもないですし、   学問もまた、 私たちがもう一度ふるさとの新鮮な心を取り戻す過程のあがきでありかつ貴重な糧の一つとなりうるものではあるでしょう。 でも、私の考えでは、もしその出来ごと(あとから発見されたこと)に>意義<があるとするならば、 それは、 ユダの意味や、罪とか悪とかは無いものとして考える思索法を これを機により鮮明に考えることかな。 と思いました。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん しばらくでした。ご回答をありがとうございます。  どうも しっかりと ユダ論を問い求めて来なかったつけが まわって来たかなとも 思い始めています。それは  ★ ・・・発見されたことに>意義<があるとするならば、 それは、 ユダの意味や、罪とか悪とかは無いものとして考える思索法を これを機により鮮明に考えることかな。  ☆ のためにも しっかりと おさえておく必要があるように思うようになりました。 まづ 次の資料を見つけました。  ● ユダの福音書の内容(英文)=【資料α】   http://library666.seesaa.net/article/18180701.html  ● ユダの福音書(試訳)=【資料β】   http://library666.seesaa.net/article/18179396.html  ☆ ですから 今からあらためて ユダ論を みなさんとも ともに ひととおりのことを 行なっておきたいと思うのです。  arayata333さんのご議論を受けて 今回 わたしが 考えたことを述べて 口火が切れればよいと思います。  arayata333さんのご見解の内容は 次の一つの視点(信仰内容)を さらに際立たせて 基軸とすれば さらによく ユダについての見方が 現われてくるのではないでしょうか。  ○ 【命題γ】 信仰のドグマ(論証し得ない想定)として ナザレのイエスなる人は 神の子で 神なるキリストであった。人間であると同時に 神であった。  ☆ ところで ユダの福音書の中で いちばん注目される箇所として 質問趣旨に挙げた論点( d )があるようで これは 次のように イエスがユダに言ったという文章に 確認できます。  ▲ 「しかし、あなたは彼ら(* 弟子たち)全てに勝るだろう。というのはあなたは私が着ている人間を犠牲にするだろうから。」(資料β)  ☆ ちなみに いま一つ別の翻訳をも掲げておきます。  ◆ 「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」――《神話15 『ユダの福音書』》    http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth015.html  ☆ そのあと 《密告》の場面がつづき 終わっている。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  律法学者たちはユダに近づいて言った。「あなたはここで何をしているのか?あなたはイエスの弟子だ。」  ユダは彼らの望むように答えた。そしてユダはいくばくかの金を受け取ってイエスを彼らに引き渡した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで 考えたことは 次のようです。【命題γ】です。つまりは   ◆ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし  ☆ という言葉は 何ら神秘的な内容ではなく ふつうの人間の言語で述べられ しかも そうであるばかりか 《包む・肉体・犠牲とする》というような経験的なものごとを表わすもので成り立っています。けれども これを言ったのは おそらく――わたしの試考ですが―― 人間イエスではなく 神キリストであったのではないでしょうか。  つまりは このような会話は 何も為されていない。イエスは 何もこのようには ユダに 語ってはいない。  しかも ユダ福音書の記者は 神キリストが ユダに そのように 《密告》の前に 語ったのではないかと 解釈して 事件を捉え直しつつ 物語とした。  そうすれば 他の福音書とも整合性をもって 読むことができるように考えます。最後の晩餐において  ■ (マタイ福音26:21-25) ~~~~~~~~~~  一同が食事をしているとき、イエスは言った。   ――はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろう    としている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これなら 実際に 人間イエスが言った言葉としても ありうると思われますが ほんとうに言ったかどうかは 分からないとも考えられます。可能性としては   (あ) イエスは ユダの行動について 何も言わなかった。  (い) 人間イエスとして 言っておかしくないことを言った。つまり 上のように《裏切り(引き渡すこと)》をはっきり言ったり その《しようと思っていることをしなさい》と言ったり。  (う) 人間イエスは (あ)と同じく 何も言わないのだけれど 神キリストは 言外において ユダ自身に語った。  ☆ すなわち このように 三つの可能性があるけれども それらの基礎には 《人間イエスであり 同時に 神キリストである存在》という想定があれば 全体として 整合性を捉えられるように思われるのです。  取りあえず ここまでを できましたら たたき台にして ご見解をおしえていただければ ありがたいと存じます。よろしくどうぞ。

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