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ユダの福音書の何が注目されるのか

arayata333の回答

回答No.14

すみません。 わたしの中には もしウィキペディアに書かれているように、書かれた年代からはユダ本人が書いたものではないというのが考古学的な見解ならば、 おそらくそのとおりだろうという前提がまずあっての回答なのですが、  その前提はそちらのコメントと共有された考えと考えてよろしいでしょうか? No13の方は書き終えてから死を選んだと書いてますが、そうすると、まず、ユダが歳をとってから思い出して書いたものがユダの福音書ということになったりしますが、 それ自体不自然ですよね。 たぶん、その自殺も、それですとユダの福音書にも書かれてないのですから 無かったと考えたほうが自然です。 他の“わたしが読んだ福音書(高校生時代に)の記述”は、弟子達がユダとは袂を分かつこととなってしまい、かってに書き加えた嘘という解釈となってしまいます。 いずれにせよ、簡単な矛盾の交錯です。  そして 私はこういうことにはなんら関心は無い者なのです。 しかし、 その「ユダの福音書」の中には、 ともあれキリストの言葉とかが出てきますよね。  意味不明なキリストの「笑い」?(健康的な笑いかどうかもよく解かりません?)とかの描写もです? キリスト教の歴史もかなり複雑なこととなっているのですね^^。 そのキリストの言葉の内容なのですが、 これは「たとえ話」とは言えませんね? もしたとえ話だとすると、 私が読んだキリストの言葉が 実際の生活や社会に即した例え話でありつつ《無限》に深いとしか言いようの無いものを私の脳に与え続けているのとは、 かなり異なる内容ですよね。 ユダに対してだけは、別な宇宙論的?な宇宙エネルギー的な世界の「たとえ話」をしたということなのでしょうか? 私は こうした物語については、別に信じません。 仏教の阿頼耶識論は、多年代において多くの人によって書かれていると言われていますが、 それは確かに 8識論にしても9識論にしても、内容は8識を二つに分けて表現したかどうかの違いでしかなく ちゃんと同じに、最後は仏界である9識親王の都という識の世界を説いていて、整合性はとれている世界なのですが、   ある年代の記述に 7識と8識の間に 突然 宇宙エネルギーの世界が登場します。 集合的無意識が 宇宙のエネルギーとつながっているかのような、そんな感じの論法です。 (宗教の権力化への過程を示す内容だと私は思っています。) でも すくなくとも神学を語る哲学者なら これは否定すべき点です。 あくまで 神は私たちに何もしてはいないのです。   ただ単に 神を信じる人をえこひいきして天国につれてってくれるような不平等な心の狭い したがって信用差へ出来ないような方ではない (むむ…)  だけではなくて、 さらには何もしてはいないはずだということです。 なんども書きたくなることですが、 神はすでに、 あまりにもすばらしい世界を与えられている存在なのです。  その贈り物がすばらしいからこそ、私たちは何があっても信じるという信仰を発見できたりするとも言えます。 その意味での神の方から神であるにもかかわらずキリストになったという考えは私にはありません。 あくまで、キリストが語る神とはについての説明も その他の言葉も ともかくわたしには奥が深すぎというもので、 考えるほどさらに深くなってしまうのですから、 だから 神みたいな存在という感じの世界なのです。 神が人間を助ける存在として存在しているならば 一気にすべてを進化させればいいじゃないですか? たぶん、 そのへんの考えは brageloneさんとすでに共通だとは思うのです。 たぶん 例によって例のごとく、そちらの書き方はどうしても解かりにくい思考回路反映となってしまうのでしょう^^。 >つまりは このような会話は 何も為されていない。イエスは 何もこのようには ユダに 語ってはいない。< というあたりが、 神の「何もしない存在である」点の解釈だということなのでしょうが、 こうなるとオコリザルさんに近いぐらい(premeapeさんすみません。)文学的で ついていくのが大変です^^。 * 直接 庶民キリストの迫力(だだの無名のだれも知らなかった大工さんなのに?)にあっとうされ、思わず弟子として直接に記録したのだろう私が昔読んだ福音書類とは違って、  ともあれユダ福音書は 創作された物語であるというのが私の解釈です。  一見解、一推理なのですが(神でないのにそういう真実はわかるはずないです。) とすれば、 その福音書に書かれているキリストの言葉が 神の言葉を示しているかどうかを問うのであるのなら、 私には それも答えようがないのですが? あるいは 興味の無い部分となります。 ただ、このことは けして「ユダの福音書」の物語に なんら深い意味合いが無いとかいう見解とかではありません。(敬意に値する思索の努力の跡はみえかくれしてると思います。) でも、   神の言葉と言えてしまうような内容自体は すでに私が読んだ福音書でも語られてる内容と同じこと(URL、当然読みましたが)でしたから、   そこからの見解からは、やっぱり作り物、あるいは偽者には違いないと思うということです。 キリストの愛とか言葉の深さを起草すれば、 別に三位一体論という表現も成り立ちますし、キリストが神という表現もなりたつと私は思いますが それで学者どうしが喧嘩するのは、 もしかしたら何も理解してないのではないかと疑えてしまうところなのですが。 …。 ずれまくってるかもしれませんが、 私の方からの回答はこんな感じになってしまいます。

noname#80116
質問者

お礼

 補足です。  上の第一点の中の次の部分に 補足します。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし  ☆ のほうですが これは やはり ユダに対する神による指示や言いつけだとは考えられません。《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ 《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。  ☆ すなわち イエスを売り渡したことは すべてユダの自由意志による自由な行為であるという意味に解釈します。これが 《愛》だという見方が 提出されているという事態だと思います。  わたしたちの抱く《愛》が――愛という最大限に広い概念であるゆえ―― その内容として ただちに確定し得ないのと同じように ここに提議されたユダの《愛》も 当人の自由意志にもとづく内容を持った概念であり その行為であるという――まづは 基本的に同一の――出発点(認識)に立つものと考えます。そこから 話し合いは 始まるものだと。  そうしますと 次には  ○ ユダによるイエスの理解とは いかなるものか。  ☆ ここに議論は行きつくのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  二点あります。  人間イエスであり神キリストなる存在が ユダに対して 取った振る舞いについての《三つの可能性》の内 次の(う)は もう少し詳しく述べるべき内容がありました。  ☆☆ (う) 人間イエスは (あ)と同じく 何も言わないのだけれど 神キリストは 言外において ユダ自身に語った。  ☆ この仮定における語った言葉 すなわち特に  ▲  「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」  ☆ ですが まづ  ▲ すべての弟子たちを越える存在になるだろう  ☆ は 内容が きちんとした存在論の問題ではなく 文学的な表現の綾の問題であると考えます。なぜなら イエスの復活後は 弟子たちは 皆 同じように 聖霊に満たされた。また 仮りに天国における序列として《ほかの者たちに越える存在》であるのならば わたしは その議論から降ります。意味がないと考えます。  したがって  ▲ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし  ☆ のほうですが これは やはり ユダに対する神による指示や言いつけだとは考えられません。《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。  ● (ヨハネ福音5:19-20)~~~~~~~~~~~~   イエスは 言われた。「はっきり言っておく。子〔なる神〕は、父〔なる神〕のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。・・・」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《大食漢で大酒飲み》だと揶揄されたイエスですが そういう中立のものごとを除いて 基本的な行動は すべて 父なる神の思いおよび行為と同じであったと捉えられます。――けれども ユダが ここで説明されているように 《神が かれユダに その行なうところを指示した》とは 考えられないのです。確認していませんが せいぜい 光となってか あるいは 夢に現われるかして 伝えるのではないでしょうか。とりあえず この試行を提出します。  《イエスの理解者 つまり ユダ》とそしてイエスとは 思いや行動が やはり 違っていたと考えます。  もう一点は 相手の議論については その可能性のすべてを慮って 認容することから始めなければいけないと思うことです。  そうすると あたかも 現在の聖書の裏側から ともかく イエスの物語のたしかにユダ版というべきものが 現われてくるかに思えます。1000827313さんのANo.13へのわたしのお応えのあと 再考するわけですが これは かろうじて 《信念あるいは信条》として 成立するかに思われるということです。《人間的な あまりにも人間的な》です。  ですが この《信念》とわたしたちが取り上げている《信仰》とは 容易に区別することがむつかしい。信仰の構造を互いに議論し合えば 違いが分かってくるでしょうけれど ただちには むつかしい。まづは ユダの福音書が 成り立ったと見なして そのあと さらに互いに 異同を知るようにすればよい。こう考えます。  なんと言いますか わたしは 迷走しています。ただし たとえばシントイスムに対しても それは ひとつの信仰の形態であると認めた上でないと 話は 始まりません。民主主義なる迷走 ということで・・・。それにしても  ★ ユダに対してだけは、別な宇宙論的?な宇宙エネルギー的な世界の「たとえ話」をしたということなのでしょうか?  ☆ ですよね。変わっていますよね。つまり よくぞ ここから 1000827313さんは 信仰もしくは グノーシス理論を導き出して来られたものですよね。  ちなみに arayata333さん グノーシス主義は どうも 《人智学》のようでもあるようですよ。

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