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ユダの福音書の何が注目されるのか

arayata333の回答

回答No.15

すみません。  新約聖書には感銘を受けている者ですので、回答をしてみましたが、こちらの「ユダの福音書」については、 どうも私は学者とか神秘家ではないせいか、理解がとどきません。 たとえば、 宇宙の元始に、「至高神」が存在したというくだりや、その説明とかに別に矛盾とか感じるわけではないですので、その点なら私たち《哲学者の信仰》の世界との間の違いとかを考えることは出きるかもしれませんが、 その後の「アダムとエバ」にいたるまでの“宇宙論?”は、 無思考となってしまう世界というよりも どんな意味のありえる「たとえ話」なのでしょうか?と思えてしまいます。 たとえば、ユダが天文学者だったとして、では当時ビックバンとかそれ以前の混沌のエネルギー界?とか あるいは地球が出来てからもその中の生命の進化の過程とか どれだけ知っていたかも疑問であるところを、  そのキリストの話の中に「混沌」という言葉がでてきたところで、それがビックバン以前と関るのかも私たち現代人にも解からないですし、関ってたとしてもその意味合いは解からないですし、つながり具合も解からないですし、 ましてそれを当時の天文学者に「たとえ話」で話したって何が理解できるというのでしょう。 そうではなくて、私のような 霊能力とか神話理解力(直感力)とかを理解する能力のない一般人には、 キリストは旧約聖書に反逆した人ととらえるしかなくて、 アダムとイブの物語にしても、 むしろ神は原罪なんかと関るような存在ではないとはっきり示した人なのだと思い込んでました。 原罪とは別な「アダムとイブ」のたとえ話というお話なのかもしれませんが、 あまりにも抽象的というか荒削りすぎてともかくわたしに回答できる世界ではなくなってしまうことになるかと思います。 シュタイナー(神智学から人智学へと移行した人ですよね)のような人ならばその意味合いをキャッチできるのかもしれませんし、 brageloneさんなら やはり何がしかの正しさや、キリストのメッセージを理解できるのかもしれませんが、  わたしにとっては 高校生の時に読んだ4つの福音書の中のキリストの言葉とはまったく異なって なぜか理解不能となってしまう世界なのです。 アウトゲーネスが「自ら生まれた者」というのも謎めいていますが、例えはこれが生命の誕生を意味するとしたとしても、いったいなんというへんてこなたとえ話なんで笑。 無数のアイオーンが、アメーバのこととか細胞のこととかであったとしてプレーローマ界が 命の連鎖の生命のことを意味するとか、 かってに考えていっても同じことです。 わざわざ 私たちにとって解かりやすいたとえ話を 3年という短期にて語ってくださった方が なんで宇宙のはじめのこととなると こんなにもわかりにくいたとえ話となってしまうのでしょうか? シュタイナーのような人が では このへんをどう解釈するのかについて興味が出てきますね。   そうそう、私はヨハネの黙示録ですか これも読んでいません。  もしかしたらこれも似てるのかもしれませんね。   これはカトリックとかでも認められてる福音書ですよね?   その黙示録では 預言が書かれてるとか?   最後の審判とかも そこからの解釈のようですね。 でも私はたとえば最後の審判なんていう荒削りの未来論をなんら信じていません。 復活というのは私にとってはもっと、ともかく現実的な地点の哲学の話です。 そういう福音書は、もともと私には理解できない世界なのかもしれません。 * ただ、私と100082731さんとbrageloneさんとの共通項は、 ユダの弁護団だという点があるかと思います。 かのレオナルド・ダビンチの描いた最後の晩餐の絵の中でも ユダは悪者ですよね。  くわしく何か考えたわけでは無かったのですが、これには以前から違和感がありました。  >そうしますと 次には  ○ ユダによるイエスの理解とは いかなるものか。  ☆ ここに議論は行きつくのではないでしょうか。< ということでは、 キリストの演出というふうに今回書きましたが、 別な可能性として、ユダもふくめ弟子達のみんながキリストがつかまる事態の意味合いとかを理解してなかった様子をキリストが その心理とかを読み取っていたというふうにも解釈できます。 弟子達に手伝ってもらわなくたって 捕まる演出はいつでも出来たでしょう。  ただ、私の場合は、そういった推理は あくまで推理にすぎなくて、どっちか決める問題とかでは?無いのですが… ? * 「笛吹けど踊らず」、   なるようにしかならない弟子達の理解力の時代的な限界を そっと生きたことの一例ではあったと思います。 * 歴史的興味としては、 ではユダは、キリストの言われる「王国」を 実際の王様であるキリストが実現するものと思い込んでいたかどうか?  これはおもしろい観点ではあるかと思います。 だからキリストを試したのだという心理なら 学者らしい心理としてありえそうです。 他の弟子達は 実験なんて最初から頭に無かったところ、  これだけすぐれた知性と迫力の在る人なら このまま追っ手につかまっても平気なのかな?とかユダという人は思っていたかもしれないし、 文字通りの復活も期待していたのだと思います。 “このお方は 復活してほんとうに王様になる方なのだ、 あるいはそうかもしれない、試してみたい。 ” そんなふうな程度の理解者でしかなかった可能性もあるという事です。 もちろん、そのへんが解かったら「おもしろそう」ではあるのですが、 その逆の可能性もあります。 つまり 書かれているとおり、ユダだけ以前からキリストの十字架の意味も復活の真の意味も理解していて そっとその実行に一番ふかく関ったのであり、 それを他の弟子達が誤解したのだ。  といった感じの推理です。 * でも、 そのどちらであっても それは私の中の神への信仰のようなものや、キリストへの信頼の世界とは関係ないことなのです。 * ユダの弁護団としては、 あくまでキリストを裏切ったからと言って、なんら悪人ではないという点を大勢のキリスト教徒たちが理解してない点は指摘したい気持ちとなります。 私たちだってキリストの言葉を理解しきっていないではないですか。 まして十字架の意味とかを。 神の言葉であるならなおさらではないですか? なのにそれが理解できないで つい犯してしまった行為がなんで罪なんでしょう。   これこそキリストの 反原罪論の意味を理解していない最大の罪^^かもしれません。 (愛《わけへだてのない》と原罪論とは 矛盾します。)   ここが、 ユダの論議としては、その点が私の中では一番重要と思えるところです。 そしてこの重要な 反原罪論以外の論議であるならば、 わたしの方からの回答はここまでとせざるを得ません。  そういう能力がまるでないからです。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん よく勉強されているのですね。シュタイナーのことも わたしは 暗いですし。  ご回答をありがとうございます。  今回 質疑応答を何度か読み返すのですが そして たぶん――おっしゃるように―― ユダの心意気には それがあると分かったのですが それだけれども 同調するわけには行かない。断定して言えば そこから 何も生まれないのではないか。そのひと筋の涙の悲願が貫かれているように思われると同時に どうも その愛は 外に ひとに対して 開かれていないように感じる。こんなところなのですが  こんなところなのですが 今まだ 断定して 1000827313さんやほかの方々に対して 応答するまでに到っていない。というような現状です。  今回は わたしが 《きよらかなおそれを持たない愛は 愛ではない》とか 《しなやかな くじけることのない 弱さを身につけていないのでは まだ 愛ではない》とか言って 文学的であるのに対して ararata333さんは  ★ 原罪論 / 反原罪論 / 愛〔は 共通に提議していますが〕 / 《王国》論(《メシア=クリストス》は そもそも 聖別された王のことでしたから)  ☆ といったように理論で 向かおうとしていますね。  ユダが もし イエスを理解していたとするなら  ○ 王となるという政治革命説  ☆ は 捨ててもよいと思いますが 果たして いかが 考えておられるのでしょうか。《ユダのクリスチアニスム》のほうは。  この後の議論の進展を待ちましょうか。

noname#80116
質問者

補足

 お礼欄のあと 書いております。  arayata333さん 議論に巻き込んでしまって と言いますか その議論が なかなか 決着のつかない状態にあって と言いますか 中途半端なお気持ちでいられることと思います。  一点 お伝えいたします。  非思考なる信仰は その形態が いくつか ありえると考えられます。たとえば 聖書として記された内容の以前に 神(そして 無神でさえも)とわたしとの非思考なる関係が 成り立てば そこに 信仰が芽生えています。ここから 信仰は その自己表現の形態を それぞれとして 表わす。これら諸形態が 互いに 形態の違いを超えて 類型的に同じ信仰という心のあり方だと まづは 認容することから すべての話は始まるのだと考えます。  たとえば わが国の 神道――つまり 国家神道は 論外だと思いますが 市民のムライスムから芽生えたシントウ―― これは 信仰の一種類だと認められないわけではありません。  《もののあはれ》と言います。英語で 《 Ah-ness of things 》と言うそうです。《 Ah-ness 》とは 《あぁ Ah ! ということ》です。向こうから なぞの何ものかがやって来て わたしは 非思考の状態にある自己を知る。わづかに そこで このなぞを受け取り 受け容れる。この受容が 《あぁ! なること》だと言うわけです。  ついに 文章表現もされなかったわけですが この《あはれ》において 一種の信仰の形態を成しているのではないか というわけです。多神なり汎神なりは 《一なるなぞの何ものか》の種々の現われと見なすというわけです。    いかがでしょうか。こちらは いかなる信仰の形態に対しても 白紙の状態を保つ必要があると思うのですが いかがでしょうか。

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