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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:平城天皇陵と平城天皇の死亡記事)

平城天皇陵と平城天皇の死亡記事

このQ&Aのポイント
  • 平城天皇陵(楊梅陵)が市庭古墳に比定された理由とは?
  • 平城天皇の死亡記事にはどのような内容が記されているのか?
  • 平城天皇陵の位置や特徴、築造時期についても知りたい

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.2

(1) 平城天皇は晩年、廃止された平城宮の北にあったとされる「楊梅宮」に住んでいたので、楊梅陵も江戸時代から佐紀盾列古墳群のあたりと考証されていたようです。今治定されている平城天皇陵は、近くに楊梅天神というのがあったことも根拠?とされているようです。 (2) 日本後紀の巻32逸文を拾い読みしても、下記くらいしか見当たりませんね。 「秋七月甲寅。平城天皇崩。」「己未。葬於楊柳陵。」 「冬十月」「丙戌。陵戸五烟、奉充先太上天皇平城。」

noname#82952
質問者

お礼

ありがとうございます! 楊梅宮というのは平城天皇のおじいさまにあたる光仁天皇の宮のことで 楊梅天神は宇奈多理坐高御魂神社のことなのですね。 で日本後紀に「葬於楊柳陵」とあるところから 楊梅宮があったとされる場所から近い市庭古墳に比定されたと。 いやー、すっきり解決しました。 回答いただいたのち調べたのですが http://archive.mag2.com/0000071522/20060721201000000.html http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/yamam.htm などによれば平城上皇と楊梅宮の関連を示唆していますが 平城上皇が楊梅宮に住んだとまでは書いていないのですが そのあたりはどうでしょう? あと陵戸五烟とはどういう意味なのでしょうか。 烟を辞書でひくと「かすみ」とありますが。

その他の回答 (2)

  • suicyo
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回答No.3

No.2です 平城上皇が晩年住んでいた「楊梅宮」と光仁天皇時代の「楊梅宮」が同一のものかどうかは、私にはわかりません。「平城上皇が住んでいた草庵」みたいな表現を以前どこかで見た記憶もあるので、奈良時代の宮殿をメンテナンスして使い続けたというよりは、上皇の住んでいた立派な草庵?を「楊梅の宮」と呼ぶことがあった‥てなことではないかと。 なお、その草庵?「楊梅宮」は、後に息子の高岳親王が「池辺院」という別荘?寺?にしたようです。その跡地は江戸時代には「超昇寺」という寺として残っていたようです。 陵戸とは御陵を守護するために置かれた奴隷です。「烟」という字の正確な意味も分かりませんが、律令以前の法令では普通に「戸」の字が使われているみたいです。やや時代が下った延喜式(諸陵式)でも「烟」の字が使われています。 あくまで推測ですが、勤務地として配属される「番人小屋」などではなく、奴隷一家が御陵の脇に煙(烟)を立てて住みついて家族総出で奉仕するというような意味を込めた用法なのではないかと、勝手に考えています。

noname#82952
質問者

お礼

何度もお手間をとらせてすいません。 平城上皇が「楊梅宮」に住んだという記録があるのですね。 ネットで探してもなかなか出てこなかったので 光仁天皇の「楊梅宮」のことかと思ったのですが 下記に記されていました。 http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030105-01.html 高岳親王って空海の弟子の真如親王のことですね。 羅越国へ行ったきり戻ってこなかったという。 陵戸は奴隷のことなのですね。勉強になりました。 丁寧に教えてくださってありがとうございます。 今夜はぐっすり眠れそうです~。

  • cobamax
  • ベストアンサー率41% (157/381)
回答No.1

1)古くから天皇陵墓については調査がなされなく、17世紀末   (家治の時代)に過去のふるい資料(平安の延喜式等)をもとに   「推定」「指定」したものが途中改定があったものの20世紀の中  期まで宮内庁により代々「継承」され   1960年代の発掘調査により平城京建設710と平城帝   崩御(824)の間に100年もの差がありこれは平城帝の陵墓で  はないというのが「学説」になっているようです。   また天皇陵墓で正確に確定されているのは、たったの5件   だけで他は「不明」「あいまい」というのが実情のようです   いずれにしても、天皇の陵墓の調査は宮内庁の大きな壁で   大変難しいようです 2 日本後期のサイトには平城帝崩御の記述が見つかりませんでした   が、薬師の変(810)~崩御(824)の間平穏に暮らし   たようです、(記録がなく死因は不明ですが) いずれにしても「桓武帝」「平城帝」「嵯峨帝」の間さまざまな 権力闘争があったようですね http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/kouki/kouki.html http://www.sakai11.jp/rj051_heizeitennou.htm http://www6.ocn.ne.jp/~sako07/ryoubo.html   

noname#82952
質問者

お礼

ありがとうございます。 例えば欽明天皇陵は正史に檜隈坂合陵と記されているのだと思うのです。 そこから奈良県明日香村の檜隈の地にある梅山古墳が檜隈坂合陵とされたのでしょう。 蘇我蝦夷・入鹿の墓は「今来の地に双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ」という旨の記述があり そこから近隣に今木の地名が残る奈良県御所市古瀬にある水泥古墳・水泥塚穴古墳にあてられているのだと思います。 欽明天皇陵も蝦夷入鹿の墓も決定的なものではないようですが。 しかし、平城天皇陵は楊梅陵ということですが近隣に楊梅という地名は見当たりません。 地名というのは変わることがあるので昔楊梅という地名があったのだろうか、 それとも近所に平城天皇の孫にあたる在原業平ゆかりの不退寺があるので このあたりだろうということなのか、 どういった理由で市庭古墳が平城天皇陵に比定されたのか、ということを知りたかったのです。 平安時代に前方後円墳というのはありえないと思うので 市庭古墳が平城天皇陵だという可能性は低いと思いますが。 平城帝崩御の記事を読めば分ると思うんですが、見つからないんですよね~ それにしても天皇陵が調査できないのは何とかしてほしいですね。 ※タイトルを「死亡記事」と記しましたが 天皇なので「崩御記事」と書いた方が適切でした。 訂正させていただきます。

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