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本当の愛ってなんなんでしょうか?

noname002の回答

  • noname002
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回答No.30

いただいた補足を拝見していて思ったのですが。。。 >精神的に支えてくれる家族がいるということです。 >どんなに困った状況になっても最後の支えは家族なのです。 >恩返しどころか一生分の親孝行を自分の子供はしてくれたのだと思っています。 ニッコリ微笑まなくても、産まれてきてくれただけで子供は十分親孝行だと思います。 >>御家族は貴方にとって、いてもいなくても大したことではないですか?もしも、いなくなっても大して痛痒は感じないでしょうか? >仮に距離が離れたとしても、どこかで生きて存在してくれていれば、あまり痛みは感じないですね。生きていてくれるということに感謝します。 ということならば、いったい「自己犠牲」の何について悩んでいらっしゃるのかしらんと少し戸惑いましたが つまり質問者さまは、自分のほうが、より支えられ多く与えられている存在なのに、受け取っているそれに見合うだけのものを家族に返しきれていない返せないのではないか、そのために仰るところの「自己犠牲」を払おうとするのだけれど、どうやっても払いおおせないのではないかという不安感、不全感、徒労感等に付きまとわれるような感覚があって苦しい思いをされてるのかなあと思いました。 それで、御家族または御自分が「犠牲」を払ったつもりの相手が質問者さまの「犠牲」に対し、予想や期待を裏切るような態度であったら、まるで自分の払った「犠牲」は、まだまだ、こんな程度では足りないのだと一蹴され、ないがしろにされたような割り切れない御気持になるんではありませんか? 先回 >報酬を見込んで犠牲を払うというのは、それは、いわゆる「条件付の愛」とでも言うんでしょうか正確には「取引」ですよね。 と申し上げました。 >自分の生き残り策を練ることもできない赤ちゃんは自分の世話をしてもらうことを何らの気の咎めなくアッケラカンと要求し、世話をしてくれた者に礼一つ述べるでなく、ただ機嫌良く微笑みます。その微笑には何の媚びへつらいもありません。掛け値のないものです。 とも申し上げました。 ですが哀しいことに私たちは赤子のままのような状態ではいられません。「自分の生き残り策を練る」のです。そこで >「理想と現実」の乖離、矛盾 にも付きまとわれることになります。 >>貴方は「自己犠牲」と名づけた貢ぎ物と引き換えでなければ愛を要求する資格はないと心の底で思っていないでしょうか? >そうですね。尊いことをしっているから「自己犠牲」と引き換えでなければ「愛」を得る資格はないと感じているのでしょうね。 先回よりの繰り返しになりますが >「自己犠牲のうえに」愛が成り立つじゃなくて、愛のうえにこそ自己犠牲が、でしょうね。 >とっても自然なもの >克服ではなく湧き上がるもの >子供の頃に見たいろいろなものが、良くも悪くも影響を及ぼしている そういうことも考えられるかもしれませんが、成育時期に抑圧的な環境におられたというようなことであれば、自分の居場所や周囲からの庇護なくては生きられない幼い頃に、幼いなりに身につけてきた一種の(家庭内)「処世術」みたいなものを、いまだに引き摺っておられるようにも見受けます。 ですが、それは >かつて周囲の他者から影響されたものかもしれませんし自分自身でも作りあげてきたものかもしれません。 >自分にとって「自己犠牲感」はある種のトラウマなのだと思います。一度手離してみなければ、次の段階にいけない気がしています。 >けれど心が空しさを訴えてくるのです。 「犠牲」を払わねば「愛」を買えない。「犠牲」を払わないと「愛」を売ってくれなくなるに違いない。売ってるものはタダじゃない。タダでオクレなんて厚かましい。私は違います、タダでもらうようなウヌボレやではありません。ちゃんと払います「犠牲」を。だから売ってください「愛」を。えっ「犠牲」が足りないって、では、もっと払います。まだ足りないって?なぜ?どこまで払わす気?アナタ図々しいわねえ!で、いったいアナタのほうは、いつ払ってくれるのよ!… 貴方が、「引換券」なしに受け取れる資格などない人間だと自己評価なさっていたとしても、そんな貴方を、お子さまは全面的に求めてくださったのではありませんか?御家族は、いくら払うべきかなどと頭を悩ますことなく貴方に安らいでおられませんか?貴方は、それを図々しいと感じるのでしょうか?払ってもらわないと信用できない、払っていないと安心できないでしょうか。 もちろん家族といえども互いに慮るべきことはあると思います、してもらいっぱなしで甘ったれるのは、だらしがないとかいうレベルでしたら、それはそれで分かります。 私も「トラウマ」の種とやらには人一倍、事欠きませんので、御気持は分かるように思います。私は生きていくため、強迫的に周囲に尽くしもしましたが、また生きていくために、それらを早く手離すことが非常に必要に迫られたことでしたので、ある程度、ですが、乗り越えることができています。 本当に次の段階に進まないと大変なことになると自覚したら、いやでも一つ所に留まってはおれないものだと思います。鬱病とかだと難しいのですけどね。 それでも、質問者さまの場合やはり幸いなことと思えますのは、なんといっても御伴侶や、お子さまの存在が質問者さまにとって、じゅうぶん掛替えのない良いものであると感じていらっしゃることです。そうですよね? まぁだからこそ、今度は、それゆえの悩みを持たれることにもなるのでしょうが。。。 寂しく傷ついた生い立ちにして終生、伴侶一人も得ることなく淡々と人生を終えていった人なんて、いくらもいるわけですし。 私の父は、はたから見ると、家族の愛というものを、ほぼ知らずに育っています。でも本人は、そのことについて何も言いません。悩んだり気にしたりしないのです。なぜなら、知らないからです。知らないから、それほど欲しがりも悔しがりもしないのです。 どうやら質問者さまの御悩みは、手にしているものを「失うことへの怖れ」なのかなと思いました。 失いたくない良きものを御持ちなのでしょう。 仏教で「愛」なるものを良くは言わないらしいのは、執着心と紛らわしいからなのかなぁと思うのですが、大切な相手が満ち足りていてくれるかどうかよりも、自分が失わないでいられるかどうかのほうが重大問題なのでしたら、それは確かにアガペーどころではなく(「学問としての哲学という意味」だろうが分からないものは分からないのです!)「愛」のふりをした執着、苦しいのは当然だろうと思います。相手が本当に望んでもいない、自分でも別段やりたくもないことを必死でやって、感謝してもらうどころか、うっとうしがられたりなんかしたら、そりゃあショックです。 そして貴方は、相手が自分の顔色を窺うようにして払ってくれた「犠牲」が喜べるのでしょうか?「愛」とは無関係の「犠牲」。 私が実家にいた頃、御近所のかたから、来客用のカトラリーが足りないのを我が家で借りたお礼にと、たいそう過分なお返しをいただいた事がありました。母は怒っておりました。感覚がイヤラシイと言うのです。ウチからは、あの御宅でモノを借るまい、とも言いました。 >>「簡単には崩壊しない自分」を持つのは誰しも厳しいことでしょうが、「自分を崩壊」させないことは、自分のためだけではないのです。 >これぞ、言葉では理解していても、現実に行うことは難しいことなのだと感じました。 でも、なんとかやらなくちゃなりませんもの。どんな境遇にあっても、ひとりの大人として、どうにかこうにか、やっている人は皆さん多かれ少かれ何かしらに耐えて、努力しながら日々生活していますよね。 「自分を簡単に崩壊」させてしまうというのは、自分に責任持たない或いは持つことができないということですから。当然、周囲に対して責任を負うことができないどころか周囲に依存することしかできないですね。 でも、赤ちゃんや幼子のような無垢さとは無縁です。 >>つまり自分のことのように感じるからというよりは飽くまで自分なら…という視点によって、おそらく、こうであろうからと判断しています。そしてそれで、なんとか通常うまくやっています。また、ときに他者の深い苦しみに思い馳せ「いまの自分には思い及ばないことであろう」と、謙虚を忘れまいともします。 >「飽くまで自分なら」まさにそのとおりです。 自分からしてみると、相手の身になって考えたつもりなのです。 けれどもそれは「自分だったらこうする」「自分だったらこう思う」ということであって、「彼女だったらこうだろう」「彼だったらこう思うだろう」ではないのです。 ええ、「考えたつ・も・り」なのですよね。では、自分の予想や期待通りでなかったら、それは本当に「相手の身に」なんか、なりきれてやしなかった、ということなんでしょう。しょせん、そうなんです。限界があるんで、そこで「謙虚を忘れまい」とするんじゃないでしょうか。 理念とか理想論とかは、実感に乏しいからこそ、こねくりまわしたくなるものではないでしょうか、とも先回申し上げましたが、産む性でない男性のほうが、こういう傾向が一般的に強いようなのも興味深いことです。女性でも、そういう傾向の強い人いるようですが(私も以前は、そうだったろうと思います)多分、拠り所にする何かが頼りないのだろうと見受けます。「信念」なんて仰々しいものではなく。 >>心からの切実な欲求がないからといって、いまさらお子さまたちの養育を放棄できませんよね?人間ですから一応まともな大人として生きる以上、責任は果たさなければなりませんものね。これは自分のためとは本当に無関係なことでしょうか?(もちろん気がつかなかったフリはできるかもしれません。そのかわりに自分で背負い込むことになるかもしれない重たいものに耐えられるなら!) >すみません、ここが少し理解できませんでした。 失礼しました、一応もう一度、説明してみます。 私は当然ながら、御家族に対する質問者さまの正直な御気持というのを正確に理解できているわけではありません。 私の親は、というか親の親も、身内全体が、責任感の薄い、自分の保身上、仕方なくやるのさ、というのが本音、どうかしたら何もかも、うっちゃらかして逃げ出しかねない者が多いもんですから、先回は、もしかして御家族の御世話なさるのが質問者さまの本心では非常に御負担で、厭々ながらという御気持でなさっているのかなぁ?とも思ったんです。 それならそれでもいいから、大人として、人の子の親としての義務感のみであっても、つまり理念としてでも責任は果たしてくださいと申し上げたかったのです。それはそれとして、人間ならではの潔さだと思います。たとえ切実な、或いは身の底から湧き上がるような思いに裏打ちされたものではなくとも、それを知ったとき一抹の寂しさを伴ったとしても、許すしかない、許せることと思うので。 子が重大な切実な援助を求めているときに、それを知っていながら気づかないふりをする親だっていますから。そして、気づかないふりをしたことに気づかないのです。浅薄な自己保身のほうが大事だから。気づいてしまうと、まともに立って歩くことすらできなくなるのです。自らの恥の重さで! >>自分という主張をあえてしてみるということですね。 これは、私が申し上げたことではないようなのですけれど、いずれにせよ「言わなきゃわからん」と言われるのでしたら、わかってもらえるように心がけて言えばいいことだと思います。 >家族は言わなくてもわかるだろうという態度が出ていますので、ちょっとつらくなるときがありますね。 これは御家族の側に、そういう態度が出ているということでしょうか? >やはり、言わなければ理解してもらうのは難しいようです。 昔から日本人には、「言わなくても」という思いが強いのか、よく、そうした点を指摘されたりするようですが、それを苦になさるのではなく、基本的に、それが当然なのだと考えを切り替えてみてください。血を分けた親子でも一心同体なんかじゃありませんし、まして配偶者は、もともとアカの他人なのですし。 まぁ、いわゆる主婦というのは、ふだんなかなか家族に感謝してもらえない、と不満に思う声も、よく聞きますけども。 「愛する」ということは相手と自分のあいだにある距離も含めてなのだ、というようなコトバがあったと記憶しています。 >とりあえずの課題は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。 『山月記』でしたっけ。『孔乙己』(魯迅)と共に私にとっても忘れ得ぬ作品です。 「己の珠に非ざることを惧れるが故に」 「己の珠なるべきを半ば信ずるが故に」 芸術や創作姿勢というものに対する厳しい問いかけや典型的な人間心理が描かれている作品ですが、特にハイティーンの年齢にある人には自身に思い当たり身につまされるような共感を感じる作品なのでしょうか、私も、ご他聞にもれず10代の頃の国語の授業で初めて読んで以来、中島先生の作品は、いずれも珠玉のごとくで、敬愛してやまない作家の一人です。 李徴は何ゆえ虎になってしまったのでしょう。気づくのが遅過ぎたのでしょうか。 質問者さまが御自分を重ねていらっしゃるらしい李徴の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」とは、つまり何ゆえなのでしょうね。 貴方が越えるために用意された山、河、橋、歯を食いしばって、いつしか越えていた自分に気づかれたとき、幾分なりと御気持がラクになられるだろうと思います。私自身も、あと幾つなのか越えて行かなければならない身です。 哲学というよりも、このたびの御質問は心理学のほうの問題だったのかなと思いました。そういう視点から見てみるのもいいかもしれません。

noname#128382
質問者

お礼

再度回答いただきありがとうございました。 心理学カテとどちらにしようか迷いました。けれども心理学カテでは、 「愛」は「無」である。 という結論に達しなかったであろうと思いました。 また、心理的な面からの回答も頂くこともでき、大変感謝しております。

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