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戦国時代、農繁期にも兵農一致の軍が遠征できた理由
tasukarimaの回答
- tasukarima
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戦は銭です かの信長のおとっあんの信秀は津島の港の権益 熱田の港の権益の力 銭で足軽の給与をまかなっていたのでしょ たいして強くはありませんが その銭のおかげで近隣の強い国とも互角に戦っていましたね 美濃も三河も 信長の初期の親衛隊のおおくは銭でつないで足軽にして 少ない人数ですがスピードがフットワーク利点があったんでしょう 家柄関係なく あぶれものや次男三男その他の余計もの だいたい他国の戦なんて 保障された身分のものはだれもやりたくないのが本音です 大内は兵庫と博多を早くから経営していましたから 明との勘合貿易の独占で銭はあったわけでしょ またタタラの生産もやっていたわけだから 家来たちも うまみの享受をうけていたはずだし 尼子との大森(石見)銀山のとりあいは勝つとふんだんでしょう 秀吉の太閤検地のあとの兵農分離以前でも これら農業従事者を中心としない兵の編成でも長期戦で十分戦えたんでしょう ただ大内は信長のように貨幣の価値を最大限にいかせなかせず また 譜代とか家臣団の操縦がまずかっただけでしょう 古い時代の考え方の大名だったんでしょうかね
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