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戦国時代、農繁期にも兵農一致の軍が遠征できた理由
phantom1の回答
- phantom1
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No5です。 >川中島の戦い全五回や信玄の死地への旅となった元亀三年の西上作戦は、どれも農閑期に行われています。 これを、どう解釈しますか。 それは、その方が動員に有利だからでしょう。農繁期に動員が“可能”である事と、農閑期に軍事行動が起こりやすい事に、論理の矛盾は無い筈です。農閑期ならば農作業に専心すべき壮丁をも動員可能ですから、より大兵力を動員出来る、と言う事になります。大軍が必要な場合に農閑期を選ぶ事は自然でしょう。 有りか無しか、と言う二者択一的思考では、物事の実態には迫れないのではないでしょうか。記録は大事な資料ですが、それは事実の“一部”に過ぎないと思います。
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