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「心の余裕」とはなにか??

19歳。京大理系志望の浪人生です。こんにちは。 先日、今年の京都大学の英作文の問題を解いていたところ、「心に余裕」を英訳す箇所がありました。僕は考えてみましたがよくわからず、to feel relaxed と英訳し「心を落ち着かせるために」というふうにごまかしました。以下がその問題です。 コンクリートの建物に囲まれ、機能第一主義の無機質の都会で生活していると、鳥や虫の鳴き声に耳をすましたり、名も知らぬような草木に目をやったりしながら、季節の微妙な移り変わりを実感するようなことがめっきり少なくなってきたように思う。もっと心に余裕を持ち、一回きりのかけがえのない人生をうるおいのあるようにしたいと考えて、田舎に移住することを決断する人が最近増えてきているものも無理からぬことである。 ここで疑問に思うのですが、relaxを使うのは間違いだと思います。心の余裕とはそのようなことを表していないと思います。 心の余裕とはなんでしょうか。上の文章からすると仕事などに追われ自分の時間が持てなくなりそれを解消するために田舎に移住する。一見そういうふうに見えますが果たしてそうでしょうか。僕は忙しいからと言って心に余裕がないとはいえないと思います。公私を分けて生活するとかではないのです。心に余裕を持つとは自分のやりたいことに熱中することで心を満たし自分にとっての負のエネルギーみたいなものを可能な限りなくしている状態だとを思います。つまりそこにはネガティブな要素はなく、まだまだ自分にとってプラスになる要素が入り込めるような余地があるのだと思います。心の空間に空きが程よくある状態なのです。 おそらく、僕の意見が何を言っているのかわかりにくいと思います。自分でも分かりにくいのです。でもこの「心の余裕」について考えることはとても大切なことではないでしょうか。 「心の余裕」がわかる人、あなたの意見を聞きたいです。

みんなの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

[小人は山に住み大人は街にすむ。」 同じ意味ですが、 [修行僧は山に住み悟りたるものは町に住む。] 又は、「大哲学者は町に住み小学者は山を好む。」ということですね。 「心の余裕」という意味は「心の針をよく統御しているという意味」ですね。心に目を向けたことのない人は見かけの静寂が心の静寂と勘違いしてしまうのですね。山の中を毎日駆け巡って見たり、田舎に住んでみたり、断食してみたり、尼になってエロ小説を書いてみたり、どれもこれも心の静寂など得れるはずもないのにね。かって中国の天台ちぎは心についてこのようにいっています。心というものは磁石の針のようにふらふらしており、あらゆる世界(3000世界)に向いてしまう。この針を常に正しい方向に制御することが悟りをもたらすと。ここに心の余裕が生まれるということですね。「大哲学者は町に住み小学者は山を好む。」本質を知るものと知らないものの差はいつの時代も同じですからね。ミネルバの梟が住むという森は、実は街の中にあるのですね。街の中で不動心を養いなさいといってるんですがね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

19才の貴方に先ず、おめでとうと言いましょう。 多分京大の英作文問題を作った方は貴方より何万倍も英語の作文に関する技巧的な詳細に優れている方だと思います。しかし、何語であっても言葉は人間の心を伝えるものです。そして、その文章の中には本質を突いた深みのある文章もありますが、厚化粧はしているが空っぽな言葉を羅列だけの文章もあります。貴方は、この先生の書いた文章の厚化粧を見抜き、言葉の意味の軽薄さを見抜いたからです。この先生よりも、貴方の言語感覚の方が優れていることは明白です。 この世の中にはこの先生のように学者でもないのに運良く「学者」という称号を手に入れた方が一杯いるものです(ただし、もちろんこの先生が、が、木ばかり見て森を見ないような方で、この文章の薄っぺらさを気がつかない方だと仮定しての話ですが、、、。その過程が間違っていたら先生には申し訳ありません)。しかし、本当の意味で学者と言える方の中には、運良くその称号を手に入れた方もいますが、運悪くその称号を手に入れられなかった方も一杯いるのです。 今後貴方が受験に成功しようが失敗しようが、この時の貴方の言語感覚とその問い掛けを誇らしく思って、今後の人生の糧にして下さい。 蛇足:貴方は多分「人生万事塞翁が馬」という逸話をご存知でしょう。私はかつて受験に失敗して希望する大学に入ることができませんでした。しかし、それが失敗したお陰で、普通の方にはなかなか経験できないような貴重で豊かな経験をすることができました。今ではその失敗をかけがえのないものとして、自分の幸運に感謝しております。その後の私に起こったいろいろなことも含めて、もし私の希望通りのことが起こっていたら、この幸運にお目にかかれなかったことを自信を持って言えます。 西洋を含めてどの文化や文明にも人生の教訓話として同じようなものがあるものです。ところが、この「塞翁が馬」の話は東洋独特なもので、それに類する話は西洋にはないと聞きました。そこで、私の師でノーベル賞を戴いた世界的に著名な西洋人の方にこの話を紹介したところ、意外で面白い返事が返って来ました。「その話はなかなか面白いが、人生の入門編だな」と言ったのです。 確かに、入門編かもしれませんが、受験に成功したときは善しと感じるのは当たり前ですが、万が一貴方が受験に失敗したとしても、その失敗のお陰で貴方の未来にどんな幸運が待っているかもしれないと「塞翁が馬」の話を思い出して下さい。

veilsider
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。「塞翁が馬」は高校生のときにならった覚えがあります。僕も少しは成長したからでしょうか、人生何がどう転じていくのかわからないぞと思うときがよくあります。僕は浪人したことで得られたものが多くあります。現役の時は基本的に思考していなかったのですが、最近になってやっと自分の頭で考えているという感じです。たぶんそれは孤独になり考えるほかなかったからだと思います。 どんなに名声を得ている学者にたいしても常に疑問を抱くことを忘れずに日々を過ごしていこうと思います。ありがとうございました。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3634/18947)
回答No.4

ここで疑問に思うのですが、relaxを使うのは間違いだと思います。心の余裕とはそのようなことを表していないと思います。 Me too 

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  僕は忙しいからと言って心に余裕がないとはいえないと思います。公私を分けて生活するとかではないのです。心に余裕を持つとは自分のやりたいことに熱中することで心を満たし自分にとっての負のエネルギーみたいなものを可能な限りなくしている状態だとを思います。つまりそこにはネガティブな要素はなく、まだまだ自分にとってプラスになる要素が入り込めるような余地があるのだと思います。心の空間に空きが程よくある状態なのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 小学低学年まで 自己意識がなかった。  三十歳になるまで 西も東も分からなかった。  なぜ うそと分かっているのに――また こちらに分かられているのに――うそをつきとおそうとするのか。  なぜ まともなことが通らないのか。おれの権限によって通させないという意図を さもふくよかな顔つきになり あの手この手をつかって 丸めこむかたち それが こちらにはお見通しであると分かっても 何もなかったように そのまま続けようとするのか。  なぜ人は おとなしく もの分かりがよいのか。そういう振りをしているのだろうか。  このような疑問に まともに つまりふつうに 話をする人間は いなかった。  英作文の文章は わたしは能無しでありますと告白した思想です。ここで 能無しというのは 流れに棹差して生きるしか能がないという意味です。  あなたの見解でいいですよ。ただし わざわざ こうして人に問いかけるところを見ると 自慢したいのかいな?

veilsider
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。そうです、自慢しているのです。それから相手の答えから学んでいるのです。まぁ若者があがいているのですからいいではありませんか。受験勉強にはなかなか知性を磨く場がないので困っているのです。

回答No.2

 自他と世界から離れた自分を持って、その自分の何たるかを認識している状況。  したがって自他と世界を離れて自分を置く自分性と、その能力、そして、それが許されている今までの自分。  その表れが、日本語では平常心。even-mindness, restfulness  という答案ではお点はいただけませんでしょうか?

veilsider
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。平常心でいるときといないときを自覚することが大切なのかなと思います。 resentfulでまとめればおそらく点をもらえると思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

私は、人間はいわゆる環境という世界のほかに頭の中にも世界があると思っています。頭の中の世界は元来は外の世界を忠実に再現するものだったはずですが、人間の場合はほとんど外界から独立して逆に外の世界に自分を投影するまでになっています。こういう状態は自然を支配出来ているという自覚を生みますが、同時に自然の中に存在するもので、人間にとってあまり意味がないように思われるものが見えなくなっているという結果にもなります。心に余裕というのは、頭による価値判断を少しひかえて、ありのままの外の世界を頭の中の世界に受け入れるという本来の心のはたらきをとり戻すということではないでしょうか。

veilsider
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。僕は頭の中と外界の世界という二つの見方で物事を考えたことがありませんでした。自分に中心の考えをやめ中心から自分をずらすことが心の余裕につながると思いました。ありがとうございました。

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