• ベストアンサー

戦中の軍隊生活で日記はつけれましたか?

先日知人の家で、その方の祖父の軍隊時代の日記がでてきました? 昭和12年から14年までのものです。 具体的な戦闘記録もあり、リアルタイムで書いたのか、あとでまとめた書いたのか、不明です。 徴兵された軍隊生活(中国)で日記を書くことは可能だったのでしょうか? 日記は手帳ではなく、ざら紙と便箋に小さな字で書かれています。 よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

 軍隊生活の中で日本軍の多くの兵が日記をつけていたようです。  それがよく解る例として、藤井忠俊『兵たちの戦争 手記・日記・体験記を読み解く』 朝日選書は、中国大陸の戦いの中で書かれた日記を集めて解説した好著です。 http://d.hatena.ne.jp/higeta/20070929  同書に収められている『太田伍長の陣中手記』の著者は、武漢作戦中に戦死した方ですが、早くも二年後の1940年(昭和15年)に岩波書店から出版されています。その日記や書簡には支那の珍しい風景などを描いた挿絵もあり、また作戦行動についても具体名が書かれています。  たとえば > 牛駝鎮の南方を更に討伐する。匪賊は逃げてしまってどこの部落にもいない。固安に行く。昼飯。再び永清固安街道に戻り、左の方の密林地帯を討伐、永定河の堤防まで出る‥‥  という具合で、勝ち戦にせよ、この日記が何のお咎めもなく出版されていた、というのですから当時の軍上層部は情報に関して大らかであったといえるし、軍隊の中でもかなり自由だったというのが実態ではなかったでしょうか。たしかに当時の日記からは、一般戦史では見えない戦場の雰囲気がよく伝わってきます。  しかし、その後の太平洋戦争で、米軍は日本語教育を施した情報将校を前線に派遣し、戦死した日本兵の日記から様々な情報を収集し弱点を研究しました。当時の将校の一人がD・キーンで、NHKのテレビ番組「ドキュメント太平洋戦争 第2集 敵を知らず己を知らず  ガダルカナル」にも紹介されていました。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%B3    日本軍の情報管理に対する認識の甘さを突かれてしまったといえるでしょう。残念ながらそれは今日にもつながっているのですが。  

その他の回答 (4)

noname#125540
noname#125540
回答No.5

日記をつけていた人は多かったみたいですね。 『ノモンハンの夏』にも従軍した兵卒の日記がところどころ引用されていました。 大岡昇平さんが『俘虜記』の中で確か、酒保で日記帳を売っていたと書いていました。 戦闘をしていないときは暇があるので、日記を書く人が多かったらしいです。 大岡さんなりの日記を付け始めた心境が書いてあったのですがよく覚えていません。 彼は米軍の攻撃が始まったときに、同僚に頼んで日記を燃やしてもらったそうです(自分はマラリアか何かで寝ていた)

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.4

日本軍では手紙は上官ないし憲兵などが機密事項の漏洩しないよう検閲していましたが個人の日記までは検閲していませんでした。 この為かなり自由な内容の記載があったのです。 南方戦線で日本軍の戦死者の死体を調べたアメリカ軍はこのような事実に気が付き、日本語文書解読の必要を認め、専門教育を施した情報将校を送り込み戦死者から日記の回収命令をだして収集と解読に努めました。 これで兵士の出身地、部隊の編成地、編成の内容、転戦地の履歴、戦闘記録、士気、などかなり正確に把握できたといいます。 また日本軍捕虜の尋問に利用し、アメリカ軍が日本軍の内情にかなり精通していることを知らせて応えを誘導し、知りたいことを尋問しました。 アメリカ軍の情報活動はいろいろな面で日本軍をしのいでいました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

米軍は最初、謀略だと思った。 ニューギニア戦線など、最初に米軍が日本軍占領地を取り返した地域では、日本兵の死体に日記がたくさんあったそうだ。 で、米軍は、その日記を読んだら「どこどに転進だ」とか書いてあったので、日本軍の謀略だと思ったそうだ。ところが、その日記に書いてある通りに日本軍が転進していたので、びっくりしたそうです。 そのくらい日本人は日記が好き。 ちなみに、世界のブログで一番多い言語は日本語だそうだ。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.1

可能です。たくさんの手記が残ってます。 かなりが出版もされてますね。 兵隊は日々の生活はかなり暇があるので、 そういうときは手紙を書いたり、日記をつけたりです。 また読んだりね。 内容には制限があって、具体的な地名とか作戦行動は書いては いけないことになってます。 手紙は憲兵が閲覧して、不適切な部分は塗り潰したり、破棄したりします。 ガダルカナルの生存兵が、大量の遺書を預かっていたんだけど、 国内に実情を伝えるのはご法度だったんで、破棄されたそうですね。 しかし兵隊は、隠したりして、もって帰った人もいるようです。

関連するQ&A

  • 日記の負担を少しでも減らしたいんですが・・・

    毎日、日記を書くのが大変で、少しでも負担を減らしたいと思っているんですが、なかなか手を抜くことができません。 日記を書いたりする時間を、読書など、自己研鑽の時間に使いたいのですが、日記は毎日書かないと意味がないので、まず日記を書くことを優先してしまい、結局自己研鑽にまで手が回らず、「今日もできなかった」と悔しい思いをして一日を終える毎日です。 思い切ってやめてしまえばいいじゃんと思うのですが、なぜだかやめる勇気が出てきません。 一体何のためにこんなに一生懸命日記を付けているのかも自分で分からないんですが、やめることができません。 やめたら楽になるのも分かっているのに・・・です。 こんな私に、日記・ブログを書く負担を減らす方法などをアドバイスいただけませんでしょうか。 「こう考えたらやめられるんじゃない?」「こういう風に書けば負荷が減るんじゃない?」「この日記はこういう理由で要らないんじゃない?」等、何でもいいのでアドバイスをください! ちなみに、今は1歳と0歳の子供を育児休業をして育てているんですが、来年には復職しなければなりません。 そのため、今のやり方では、自己研鑽はおろか、そもそも今やってることを続けようとしたら、完全に睡眠不足になるような状態です。 既に、現時点で、2人目が生まれてからは、ブログのネタが溜まり続けていて、更新しきれていません。 参考に、主に下記のようなものを書いています。 (1) 自分の日記 ⇒現在、滞りなく更新中。 システム手帳の見開き1週間タイプのリフィルに、その日行った所・やったこと・日記(嬉しかったこと、悲しかったこと、グチなどを、小さい字で5~20行くらい書けるだけ書いています) (2) 育児日記(1歳の上の子用) ⇒現在、滞りなく更新中。 (3) 育児日記(0歳の下の子用) ⇒現在、滞りなく更新中。 その日行ったところ・その時の様子・できたこと・やったことなどをそれぞれ4行ずつ、小さい字で書けるだけ書いています。 (4) 育児ブログ ⇒現在、滞り中。 アルバム代わりにしているので、写真を撮る度に更新しています。つい最近までは毎日撮っていましたが、2人目が生まれてからは2~3日に1回になりましたが、2人分になってしまい、あまりネタは減っていません。ちなみに、日記の中でこれが一番大変です。 (5) 家計簿 ⇒現在、滞りなく更新中。(月に1~2回更新) Excelで作った自作の家計簿に、使い道を記入しています。(100円単位、レシート単位) (6) 料理日記 ⇒現在、滞り中。 夕食の献立をExcelに記録しています。 (7) お出かけ年表 ⇒現在、滞りなく更新中。(お出かけ等の度に更新) Excelで作った自作の年表にお出かけした所や医者にかかった月などを記入しています。 私って記録魔・・・分かってはいるんですが、やめられないんです。 アドバイスをよろしくお願いします。

  • 年金記入漏れと船員免許の年金漏れ

    私の祖母・祖父の年金についてです。払ったはずの年金が、1部漏れていることが分かりました。 子供時代に、事故や戦争で、親を亡くしているので、生きていくために職を掛け持ちしたり、 住まいも転々、そのたびに仕事も転々として子供(私の母や伯父)を育てていました。 祖父は、戦争(昭和19年~昭和22年まで)で船員として働いており、その間は船員が入る年金に入っていました。(船員手帳) 祖父・祖母共に、働いていた一部の年金が漏れていました。 社会保険事務所にも問い合わせていますが、記録がないそうで、調べるのが難しそうです・・・ それなら、自分たちでも調べてみようと思い、 いずれも記憶を頼りに、勤めた会社に問い合わせたりしているのですが、もう何十年も前のことなので、会社には記録がないという所もありました。 また、当時の会社が見つからない(もう存在しない?)所もあり、どうしてよいか困っています。 祖父の船員免許は、今の年金手帳と同じ扱いらしく、かなり前に紛失していました。再発行などの手続きは本人でないとできません。祖父はもう亡くなっています。この一部の年金も洩れていて、船の名前がはっきりしないので調べるのに苦労しています。 >>年金漏れが見つかり、自分で調べている方。 どのように探されましたか? 払っていた分を取り戻すには、どうすればいいのでしょうか? >>船員年金をもらっている方。 戦時中の船員手帳の記録を探すには、どうすればいいかご存知の方おられますか? 管理・保管している所をご存知ありませんか? 長々と書いてしまいましたが、どうぞよろしくお願いします。

  • 祖父の軍歴の詳細について

    大正5年生まれの祖父が日中戦争の頃に中国に陸軍兵として渡っています。軍歴証明書を取ったのですが、そのことについての記録がありませんでした。残された写真の裏に、「昭和14年10月25日松崎隊本部角力選手一同」というものがあります。何か手がかりはありますでしょうか?

  • 憲法9条を保持したまま、軍隊の創設は可能か?

    自衛隊の活躍の場が広がっています。 実際問題、今日の国際社会は、「自衛隊」という曖昧な組織体制では対応できなくなっています。 そこで思ったのですが、憲法9条改正派も、護憲派も、誰もが9条を保持していれば自衛隊を軍隊には出来ないと考えているようですが、実際にはどうなのでしょうか? そもそも、自衛隊が存在するのも「政府解釈」という曖昧な代物が根拠です。Wikipediaによれば、同じように憲法で戦争放棄を憲法で謳っている国としてはフィリピンもありますが、フィリピンは軍を保持しており、国内のテロリストに苛烈な攻撃を加え続けています。侵略戦争のみを放棄した憲法を有する国は124ヶ国あるとのことですが、やはり軍隊は多くの国が持っています。 憲法9条も文面だけ見れば、侵略戦争のみを放棄しているようにも見えます。 これを考えると、自衛隊を軍隊として改組するのは、わざわざ憲法を修正しなくても、防衛庁を防衛省とするのと同じように法律を変更するだけで可能なのではないかと思うのです(無論、出来る事は今までとあまり変わらないでしょうが)。 しかし、1950年代のジュネーブ条約に定められた「捕虜の取り扱い」や「文民の保護」についても、2000年になるまで法体制が整わなかったのも、「軍隊ではない」などという言葉遊びが原因だったのではないかと思います。歩兵を普通科、攻撃機を支援戦闘機、駆逐艦を護衛艦と呼んだところで、(どこの国にでもある)単なる国内向けの言い訳に過ぎません。 現在の自衛官に「しかるべき地位」を与え、一人一人が国防を考え、軍隊が何をして良いのか、何をしたら駄目なのかをきちんと法律として考えるのは、守って貰う対象の私達国民の義務と思っております。 (戦前の人間は、大正では国民は軍人を極端に嫌い、また昭和になれば極端にあがめ奉るような態度を取り、国防を自分達の責任だと感じませんでした。だからこそ、軍隊は暴走したのだと考えています) 実際に、こういう憲法改正無しで軍隊の保持は可能なのでしょうか? また、こういう主張をしている政治家や法学者はいるのでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • 南京事件:中国の主張する30万人はどのように殺され

    たんですか? 軍隊と軍隊が戦争をしていたんですから死者は双方に出るでしょう。 戦闘で双方に犠牲者が出るのは当然でそれは虐殺とは言いません。 中国は30万人が虐殺されたと言います。 虐殺ということでしたら軍隊の戦闘中に殺された数は含まず、 捕えられた無抵抗の兵士や便衣兵や便衣兵と間違われた民間人30万人を処刑したということになります。 30万人をどのような方法で殺したんでしょう? 銃ですか? 日本刀で首をはねたんですか? 何日かかったんでしょう? 一日千人殺しても300日かかります。ほぼ一年です。 収容所はあったんでしょうか? 空き地に鉄条網を張っただけの場所だったんですか? 300日のあいだトイレはどうしたんでしょう? 雨の時はどうしたんでしょう?

  • 亡くなった祖父の年金記録が見つかりました

    先日、亡くなった祖父の年金記録の一部が 見つかったと書類が届きました 内容によると昭和17年から昭和25年までの約8年間の記録が きちんと、登録されておらず確認の為連絡してほしい旨書いてありました 電話すると、その期間祖父がどこに勤めていたか?と聞かれ 昔聞いていた職場の名前を言ったところ 「間違いありませんね」と言われ一時金を支給するので4週間程度待って欲しいと言われました 一時金とはどういった類のものでしょうか? 祖父は3年前に89歳で亡くなっていますので既にその年金を受け取るべき人はいません。 本当に遺族でも一時金なんて出るんでしょうか? また、出るとしたらどれくらいの額なんでしょうか?2~3万で手続きとかは正直面倒なんで・・・ そのお金は遺産ということになるのでしょうか? 相続税はかかりますか? よろしくお願いします。 ちなみに祖父は60から亡くなるまで年金をもらっていました。 消えていた記録はその8年間だけのようですが・・・

  • 漢字に詳しい方!!

    漢字に詳しい方にお聞きします。  「捷」の字についてなのですが、この字に似た字で下の画像の字は何と読みますでしょうか? 昭和63年頃に位の高いお坊さんが祖父に付けて下さった戒名に有る字なのですが、その人が具体的に誰かも分かりませんし、分からないので聞くことは勿論出来ませんし、あるのは位牌だけで宗派も分かりません。「捷 異体字」とかでググっても出てきません。 家族間で結構「どうでもいいよ」みたいな事を言う人まで出てきているのですが、やはり祖父の戒名なので知りたいです。誰か助けて下さい(´・ω・`)

  • 民俗学者といって、実は大本営スパイ梅棹忠夫の真実!

    ある中国学者に聞くと、実は梅棹忠夫は、民族学なるフィーールドワークと言いながら、朝鮮、中国、インド、パキスタン、への軍部の悪辣スパイだったって、知っていました? 京大理学部卒業、民博の初代館長、文化勲章受章、で「知的生産の技術」の本で戦後大ヒットしたのに~! 民博に見に行って、学芸員の1時間に及ぶ説明を聞いても、両眼の視力を失って、太鼓持ちとの対談を聞いていても、全く戦争の、”せ”の字も聞き取れなかった。 中国の30州全体をフィールドワークして残したカードをみても、完全に時系列的に、タイプライターで綿密にローマ字でメモされている。 彼は1943年に、徴兵令で中国に行っているが、その活動記録が全くと言ってよいほど残されていない。 戦争だったら、戦争地域に行かされるはずなのに、モンゴル、モンゴルと関係ない記録が詳細に残されている。財団法人蒙古善燐協会西北研究所嘱託っていったい何だったのか? 普通軍隊の新米兵にモンゴル調査なんかさせるはずがない。まして1943年と言えば日本国の敗戦色が濃厚となっている時期だ。 中国全土を回って、秘密情報を獲得して、大本営に流していたとしか考えられない。 だいたい活動費はだれからもらったの? 多分軍部から潤沢に得ていたとしか考えられない。 スケッチが得意、カメラをとりまくっている。 ローマ字って無線送信しやすいのでは? 単語をメモしてもだめと。文章にしないとだめと。整理整頓良いのは、軍部の要請で報告しないといけないから、日付までしっかり残すわけだ。 彼のスケッチを見ると、寸法から形の中身まで、緻密に記載されている。さらにおまけに注意書きも・・・。 お国のためにメモられた記録が全くない。全部焼却されたのでは? あいつが来たところには、続いて大砲がやってきたのでは? 民俗学って、隠れ蓑とすれば許されない。

  • 国民年金未納になっているが・・

    夫のことですが、平成13年に年金手帳番号の照会があったとき、手元にある年金手帳とは違う番号だったため、番号を統合してもらいました。その後、年金加入記録を取ったところ、昭和51年4月から昭和58年8月まで自営業だった期間の国民年金がかなりの期間、未納になっていました。本人は「親が一緒に払ってくれていたはず」といいますが、両親も亡くなり、もちろん証拠となる領収書などもありません。内心、払っていなかったのだろう・・と思っていたのですが、よく見ると 昭和56年4月から会社勤めをする直前の58年7月までの期間は納付済みになっています。結婚したのは昭和56年5月なのですが、私は自分が夫の国民年金の支払いに行ったことは1度もないので「親が払っていたはず・・」というのはもしや本当だったのかも・・とも思います。 年金手帳は「再発行」。何度か住所が変わり、夫が結婚前に住んでいたところと、今の場所は市長村合併しています。 昭和51年4月~5年間分と、昭和56年4月~昭和58年7月までの期間中、1ヶ月だけ未納になっているのも、なぜなのか理解できません。 払っているのに、この間の記録がなくなっているということはありうるのでしょうか? また、もう一点、納得できないことがあります。夫はその後何度か転職しましたが、新しい職場が決まるまでの期間、国民年金を支払い、領収書は9ヶ月分あるのに、記録では8ヶ月分が納付になっているのです。 年金記録が間違っていることはあるのでしょうか?またこんな場合はどうすればいいのでしょうか?

  •  戦死した祖父が写った写真を探しています。祖父は沖縄県座間味村の出身で

     戦死した祖父が写った写真を探しています。祖父は沖縄県座間味村の出身で、鰹漁船の船頭をしていて、当時そのまま徴兵されペリリュー島で戦死したと母からは聞いています。母がほんとに幼い頃に戦争へ行ったので、母は実の父親の顔も記憶にないそうです。ペリリュー島は激戦地で生還した人たちはごくわずかだったみたいです。その為、遺骨などももちろんありません。。親戚のおばあさん(かなり高齢です)の話しでは、特攻隊(飛行)で死んだ。と言っています。鰹漁船の船頭が戦闘機などを操縦したりするでしょうか?このおばあさんの情報はかなり信憑性が薄いです。このような環境に置かれているのは母だけではなく、悲惨な戦争に巻き込まれた県民、国民、世界中いたる所にいると思います。  自分は、母に祖父の生前の写真をどうしても見せたくて、色々調べたり問い合わせをしています。数少ないペリリューからの帰還者にもお電話でご質問させて頂きましたが、何も存じていないとの事でした。65年も前の事ですから、当然ですよね。。座間味村出身の方も、当時、村は激戦地で、戦争で役場、学校とも全て焼けたとおっしゃってました。。ペリリューでの戦死者を祀った茨城県の護国神社からは、帰還兵の一人の情報をお教えていただきましたが、祖父の情報は存じていないとの事でした。靖国神社には祖父の名前はあります。ただ、写真が見たいのです。。高齢になった村の親戚たちも写真を持っている方はいません。。戦前、島にはカメラを持った人などいなかったでしょうし、写真を撮るのは学校での記念か、出兵前に撮影するかだと思います。しかし出兵前などは、慌ただしく、徴兵され、すぐに戦地へ、という感じだったでしょうから、出兵前の写真というのは希望がうすいです。そこで学校で撮られた物が存在しているのであれば、拝見したいです。。学校や役場は焼けましたが、その前に島から持ち出された、または本島や県外に持ち出されて、保管されている施設などあるのでしょうか、全国のアルバム等を保管、所蔵している施設や、座間味村のアルバムに関して、手がかりがなどあれば教えていただきたいです。。  祖父は「宮里精栄」大正9年、3月20日生、県に残っている記録では、昭和19年7月南洋群パラオ島にて歩兵第二連隊に応召。「1等兵」とも「上等兵」とも記載があります。昭和19年12月31日、南洋群ペリリュー島において戦死する。25才。と記録が残っています。