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なぜ、物語には苦しみや悲しみ、困難が必要なのですか?
子供の頃から本や映画を観るのが好きだったのですが、理由は、現実逃避できるからでした。現実ではない世界に入っていられることが幸せでした。 でも、ときどき感じていたのですが、どうして、物語には苦しみや悲しみ、困難などが必要なのでしょうか? せっかく現実逃避して楽しい世界に浸っていたのに、必ず主人公は困難に出会って、それを解決しなければならなかったり、親しい人が死んで悲しまなければならなくなったりしますよね。 子供心に、それが少し嫌でした。 大人になると、物語とはそういうものだと理解するようにはなったのですが、今日、ふと、どうして物語には苦しみや悲しみ、困難が必要なのだろう? と思ってしまいました。 物語とは、人間にとって何なのでしょうか? 生きるための参考書ですか? 人はどうして物語を書くのでしょうか? どうしてそこに苦しみや悲しみや困難を描き入れるのでしょうか? 何か回答らしきものをお持ちの方がいたら、教えてください・・・
- clumzy
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- noname002
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「幸福な家庭は みな一様に似通っているが、不幸な家庭は いずれもとりどりに不幸である。」~『アンナ カレーニナ』 起承転結とか序破急というコトバがありますね。 これらは小説や作劇上の技法でもあります。 そして「苦しみや悲しみ、困難」などというものは古典的なツールでもあり物語を引き立たせる重宝なスパイスでもあります。 何が、いわく「苦しみや悲しみ、困難」なのか。 まさに「苦しみや悲しみ、困難」というべきはずのものが、なぜか、そうではない場合もあり得るでしょう。あるいは「幸せ」が「幸せ」でなくなっていく過程、とかも考えられます。 私が20代の頃に短期間所属した或る文学関係のスクールで、現役作家でもあったチューターが講義のなかで 「幸福よりも不幸や悲劇の話を人は喜ぶんだよなあ」 というふうなことをニヤニヤしながら仰っていたのを思い出しました。記憶が確かでなく、そうとう曖昧ですので、このとおりのコトバではなかったでしょうが。まあ、作家たるものは辛辣でナンボです。合法の詐欺師みたいなもんですし(笑) 私たちが、まあフツーにおくっている日常生活は、ちんたらちんたらダラダラぐだぐだ過ぎていくようなもので、生きている限り切れ目というものがありません。そこで人為的に、いろんなイベントやらレクリエーションやらをくふうしながら「ハレとケ」つまり非日常と日常を演出します。小説を読んだり映画を観たりするのもプチ非日常なんですね。昔の人は文字の読み書きも現代人のようには行かなくて、その分「ハレとケ」の境界がクッキリしていたでしょうが現代の私たちの生活では「ハレとケ」の境界が曖昧になってきているようです。「ケ」に「ハレ」が入り込み、毎日が「ハレ」にすることも可能な分「ハレ」が小粒になっている。 インターネットウェブの匿名世界で「ハレ」を手にしようとする人もいますよね。「まつり」とか?(笑)まさに「ハレ」が「ケ」に「ケ」に「ハレ」が侵入し易い。日常「ハレ」に飢えている人にとって読書や映画鑑賞のような受身の立場以上になれる恰好のお手軽な場でしょう。 >現実ではない世界に入っていられる その御気持ち分からないではないですよ。私は特に絵をみるのが好きですが、なぜ自分は絵をみるのが好きかなと考えてみたら一つには「ここではないどこか」の空間に連れて行ってくれるからなんですね。 画家ルノワールも、世の中は醜いものが多過ぎるから、これ以上醜いものを作る必要はない、というふうなことを言ったそうです。 御質問者様が「現実逃避」したくなるのは、なぜですか? 小説を読んだり映画を観たりするのは、自分の実生活のなかで足りない、もっと欲しいと思うものを補助的に補給するようなものですから(これは学問的な書物を読むことにも言えます)、異性とのロマンチックな出会いに憧れている人(または、それが欠けてると思う人)は恋愛小説を読んでみたり、ハラハラドキドキのスリルを求めている人(それが足りないと思う人)はサスペンスものやホラーものを読んでみたりしますでしょう。 ハッピーな人生に憧れている人(または自分は、そうでないと思う人)が、そういう人物が主人公の作品を鑑賞するにしても、いかにハッピーが好きとは言えハッピーな場面描写ばかりを延々続けられてもしょうがないですよね。それでなくてもハッピーには穏やかな平坦さが伴います。だから「お姫さまは王子さまと、お城で末永く幸せに暮らしましたとさ」と、あとは端折ってしまえるのです。 起承転結、序破急があって一つのまとまりとなります。 始めから終いまで、ちんたらグダグダでは何が言いたいのやら分からなくなります。つまらなくて、終いに、どーでもよくなってしまいます。 まあ小説技法的な面は、それとして 民話とか昔話おとぎ話の類には、文学の源流というべきものがあって、それらは、こんにちの私たちの高度な言語や技術、学問体系が築きあげられる前の時代、先の世代が、あとの世代に伝えようとしたものが、ふんだんに込められているものです。 「ああシアワセ私シアワセ人生はシアワセ」「とにかくシアワセでした~」それがどーした。 「苦しみや悲しみ、困難が」付きまとうのは必定。この世は甘いもんやおまへんえ。そんなときゃこうしてああやって、いいか、とにかく賢く生き抜いてゆくのだよ。愛。命! 先祖が子孫に子孫が先祖に、親が子に子が親に、伝えたいもの伝えてもらいたいことって何でしょうか。 >生きるための参考書ですか? そういう側面も大いにありますね。 >人はどうして物語を書くのでしょうか? 実際、書くというかたちでなくても、私たちは、いろんなことを、とくに人生については「物語」的かたちにして理解しようとするのでしょう。まして「苦しみや悲しみ、困難」といった、いわゆる理不尽、不条理は、これを理解することが古今東西、人生上の大問題です。 同時に「物語」という起伏と始終を備えた対象化、外在化を行うことで「苦しみや悲しみ、困難」に対し、自己にとっては、それを演じる者、主人公としての矜持と確認そして客観的視線を得て或る感慨をもって自己の生への再取込を、 第三者にとっては観客としての余裕のもとに娯楽であり、同時に教訓としての疑似体験をもって自身の生に備え、他者との距離感と反面の関係性の学びを行います。 >物語とは、人間にとって何なのでしょうか? 一言で言ってしまえば、何らかの面における理解のために不可欠な形式、でしょう。 「人は理解してもらうために書くのではない。理解するために書くのだ」~C.S.ルイス それは、もちろん他者への伝達も本来的な大きな目的ですが、自分自身との伝達行為でもあるのです。 突き詰めていけば、実際の出来事そのものは、そのものとして再現することができません。だから事後はイヤでも「物語」的かたちになってしまう。あとは、どういう組み上げかたをしたか、しているかをみるということになります。 精神状態に異常を来たした人を私は何人かみてきていますが、まず目につくのが自発的に行う激しいストーリー化です。睡眠中の夢が、そのまま現実の生活のなかに紛れ込んできたかのごとくです。でも当人は心底、そのストーリーを生きているのですから、それをアタマから否定すると悲しんだり激怒したりします。巻き込まれると大変でした。 心理カウンセリングや精神療法のほうでも「ナラティブ・セラピー」という考えかたがあるようです。 ここのサイトでも似たようなことを多分自覚なくやっている人、求める人を見かけます。(妥当性はともかくとして) 哲学カテゴリーらしい関連づけで締めますと、「ポストモダニズム」という思想に絡んでいるということだそうです。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
私は映画や小説を読んでいて、主人公が危機的状況に陥っていても、あまりハラハラしない。 何故なら作品の途中で主人公死んじゃったら、その先 主人公が別の人になっちゃう作品になるから。 そういうわけにはいかないので、「まあ 絶体絶命だけど、どう作者は主人公に脱出させるんだろう」ってそっちの方が知りたいと気になりながら読む。 デスノートはびっくりしました。 途中でエルは殺されてしまうんだから。 「え? 私はエルが主人公で、月は準主人公だと思っていたのに、月が主人公???」 「いやいや エルは殺されたようにみせかけて、突然登場させて読者にやられたと思わせるんだろう」 と思ったが、読んでいても復活しない。 「あれーーー この部分は妙にリアル世界と同じだなぁ」って思いました。 映画や読書は、現実逃避という役割以外に、シェルターという役割も持っている。 例えば現実いじめにあっているとするでしょ? 「苛めは卑怯だ 醜いことはやめろ」と現実言えれば悩まないが、そういう勇気が無くてやっつけられず、苛められ続けるとする。 本を読むと 例えばハリーポッターなどいじめられっ子ですが、苛める人をサラっとやっつけてしまう。 それでも奥ゆかしいのか威張らないところが 素敵 とか自分の願望が投影されているから、子供達は読むんじゃないか と。 そうやって ハリーの困難の克服を疑似体験することで、リアルでは自分ではできない解決を、本の中の自分は解決しているわけで、自分のリアルのいじめられることが一時的に気にならなくなる。 ばかりか、ハリーを読んだあとだと、自分にリアルにいじめをする相手を「あんたは脇役の小悪党、雑魚キャラ」くらいにしか思えなくなる。 これが小説のリアルに対する影響力だと、私は分析するんですね。 だから、この作品はリアルの人を力づけられる力を持っているので、ヒットしたと思う。 幸運づくしの人など稀ですから、そういう人向けに幸運づくしの作品を書いても、購買する人は限られてしまうわけでしょ? 幸運づくしの人も、たまには不幸ずくしの体験をしたいと思ったら、疑似体験としてハリーを読んで不幸な人になったつもり とか経験をするが、自分は安全な場所にいるとわかっているので、あくまで「他人はかわいそうね」と自分がいかに幸福か確認するくらい。 それを求めてハリーを読む人もいるでしょう。 ということは、圧倒的に不幸三昧だけど、克服するって作品を描いたほうがすがすがしいと人は買うので、こっちを描くわけです。 で、私はハリーは2作品目で、途中で耐え切れず読むのをやめてゴミ箱に捨てた。 家のゴミ箱にあることすら許せず、外のゴミ捨て場に捨てに行った。 ゴキを掃除機で吸って、即座にゴミ置き場に捨てにいくのですが、それと同じ扱いをこの本にもした。 どうしてかというとハリーの心 すなわち作者の邪悪さに耐えられなかったから。 え? 子供を勇気づける力を持っているってさっき言ったじゃない? ええ 言いましたが、それは表向きのもので、もう1つの面もこの作品は持っており、そのもう1つの面に子供達は引き寄せられているから好むのだと思う。 ポルノは芸術だ といえば芸術は美ですから 従ってポルノはよいことになりますよね。 でもポルノは芸実だ とポルノばかり読む人は、結局エッチ好きなわけですが、表向きは <いいものがわかると人だ>と自分のエッチさを誤魔化して正当化する歪んだ心理があるわけです。 ポルノは美だ とか誤魔化さず「へいへい エッチ好きなスケベです」と言うのなら歪んでいない。 で、ハリーの作品では、作者の社会に対する妬みが隠されている。 書き始めた頃は作者はホームレスで、すさまじい社会に対する憎悪の塊で、それをリアルで消化できず、子供に物語として聞かせることで、消化しようと作品を書いたのだと思えます。 子供に聞かせるつもりで、実は自分のため。 社会への恨み辛みを作品に書いて、自分をこんな目にしておく社会に復讐を小説の中で果たしていたわけです。 「自分をこんな目見合わせ続ける世間を皆殺しにする」って銃をぶっぱなす人もいれば、リアルでは殺人をせず、小説の中で殺すわけです。 リアルでは見苦しいとしてできないことを、ハリーにやらせている。 それが作品のそこかしこに現れており邪悪すぎて正視できなくなり、目をそむけたわけです。 うぬぼれ先生だったか忘れましたが、その描写も作者の妬みの心の投影として表れている。 ばかりか、その人を殺さず、生かして世間の笑いものにした。 この時点で、おえぇぇぇ と嘔吐しそうになり ゴミ箱に投げ捨てました。 残忍さ 冷酷さ 妬みづくしの心が詰まっているこの作品を、どうして少年少女は好むのか。 作者と同じ心だから親近感が沸き、その邪悪さを友として好むからじゃないか と。 ということは、ヒットするってことはそれだけ病んだ心の子供達があっちこっちにいるってわけです。 醜い心を隠して表面上はいい子を演じるが、その隠した心をハリーの作品を好むという行為で、露呈させてしまっている。 この作品は世間でも真っ二つに評価が分かれており、一方では子供にとって悪本だとされています。 自分の醜い心を誤魔化して正当化することをよしとするのは駄目だって、警告が発せられているのではないかと思います。 この本が子供にとってよく無い本の理由はスプラッター描写があるからじゃあない。 子供が自分の醜さから目をそらすばかりか、自分の醜い心を正義だとして正当化さえしてもいいかのようにこの作品は子供に錯覚させてしまうので、悪本とされているのではないか と。 だから私も途中で 作者のすさまじい社会に対する憎悪 破壊願望に耐えられず、ゴミ置き場に捨てたんじゃないかと。 ハリーを好む子供 とっても魂の危機に瀕していると思います。 その作品を読んで育った子供はどうなってしまうのか。 すっごい心配ですが、中学を卒業する頃には、こういう誤魔化しは通用しなくなり、何が正しいのか 自分の行く道はどっちか わかりだしハリーを卒業するのではないか と。 人間の復元性を信じていますから。
お礼
回答ありがとうございます。 ハリーポッターは読んだことがないのですが、たしかにあれだけの人を惹きつけるものというのは、純粋な良いものばかりではないのでしょうね。まやかしや誤魔化しがうまく使われていて、子供にはそれが見抜けないのかもしれません。社会の多くの物事はそうなのかもしれないし、それが物語として人を惹きつけるのかもしれないと思いました。 でも、現実ではなくて物語だから、それでいいのかもしれないですね。 とても長いですが、面白い会話のような回答をありがとうございました。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人生には良い事ばかりではない事を教えようとするからかと思います。又、悪い事ばかりではない事も教えています。良い事の中から、又悪い事の中からも、又悲しい事の中からも全てまなぶことがあるということでしょうか? 自分の身が、命が最後には燃え尽きてゆきます。人生には終わりがやってきます。人生は『今』しかないと言うことを『名作』といわれているものは教えようとしています。それは『共感』と『感動』です。『感じている』という事が人生と言う事。『人生とは永遠の今』と言う事を。
お礼
人生は学ぶためにあるのでしょうか。不思議です。 共感と感動が人生であるというのもとても奥深いです。 回答ありがとうございました。
- code1134
- ベストアンサー率20% (703/3370)
悲しみ(or苦しみor困難)等が付き纏う状況が絶無だと"教訓めいた何か?"が欠落し易く、人々の記憶に留まる事無しに瞬時にして通り過ぎるのがオチだからでしょうね。
お礼
人の記憶に残るものというのは、悲しみのようなものなんでしょうか。 とても考えさせられる回答ありがとうございました。
- ashunar
- ベストアンサー率23% (57/241)
日常を書いてる作品もありますが、文学的であったり前衛的であるとか まあ、商品としての価値は高くないですね。要するに売れる為には マニュアルに徹する必要があるんでしょう。 バブル時に某少年漫画雑誌は「努力、友情、勝利」と言う方程式で 最高部数を記録したとかしなかったとか。 商売を抜きに、HP等で小説を書かれるのはそう言った商売上の 制約を嫌う人も居るからかもしれません。商業誌ではなく同人や HPなどを見て回れば、別の答えが見えてくるかもしれませんよ。
お礼
困難などのない物語や小説があるのですね。 子供の頃は、退屈なくらい平凡なRPGを求めていたような記憶があります。 そんな小説があったら読んでみたいかもと思いました。 回答ありがとうございました。
- green_sheep
- ベストアンサー率40% (110/274)
困難を乗り越えることこそが、物語を成立させる大切な要素だからです。 困難を乗り越えることで、主人公は前進し一回り成長するわけです。それに よって物語に落ちがつくというか昇華されるのです。 ただ、そういう基本パターンばかりだと物足りなくなるので、極悪人が主 人公だったり、登場人物が皆死んでしまったり、最後に解決しなかったり、 といったバリエーションが生まれてきたわけです。 そもそも何事も無ければ語るほどの事もないわけで、何か事が起こって それをどうしてこうなった、というのが物語でしょう。 ですから、主人公が体験する困難は、読者に疑似体験を提供し、実際に その困難を経験する前に、それを処する術を提供する効果があります。 そして何かを体験もしくは心の中で体験できた人の中にはそれを物語と してあらわさずにはいられない人もおり、そういう人の中から物語作りを なりわいとする人も出てきたはずです。元々は物語とはそういうもの だったのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 物語に落ちをつけるためには、主人公の成長や困難の克服が必要なのですね。体験というのは、たしかに物語なのかもしれないと思いました。 物語として自分で理解していくのかもしれないです。 参考になります。ありがとうございました。
- satotu-a
- ベストアンサー率24% (55/227)
苦しみや悲しみや困難がなく、ただ淡々と話が進むだけでは「起伏」がありません。「起伏」が無い状態は、私たちが日々経験している日常です。人が物語を読む理由としては、日常から脱して擬似的に「自分が経験していない物事・感情に触れる」「自分の経験した物事・感情と共感できる」といったとこが大きいと思います。この日常から脱却するために、起動哀楽の感情を大げさに描いています。例えば幸せな結末の前には大きな困難があり、主人公はそれを乗り越えていきます。 物語は、私たちに感情の強要はしてきません。自分本位で情報の取捨選択ができるため、共感が得られる部分(物語)だけ選び、共感することができます。これが対ヒトではそうはいきません。それぞれが自分を本位として語れば、共感は中々得られません。私は、そういった理由で物語が必要であり、好まれるのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 起伏がないのはただの日常になってしまうから、日常から脱するために大げさに物事を描いているということなんですね。なるほど、参考になります。 共感を誰もが得られるように物語が用意されているというのも、とても独特な視点で興味深い回答でした。 ありがとうございました。
- augustinus
- ベストアンサー率26% (60/226)
物語は、感情移入できるかどうか、共感できるかがポイントです。 だから、感情移入できそうな要素を散りばめることになります。 それには、主人公にギャップをつけることです。 ヒーローは、常に強くあり続けることではなく、弱さを見せることで共感できる作品になります。 共感するためには、多くの人が感じている負の感情を織り込むことです。 負の感情は、より人間に強く印象を与えます。 そして、多くの人は、負の感情に支配されています。 そういう人たちが、負の感情に共感し、共感した主人公がハッピーになることで、ハッピーを疑似体験できるんです。 まさに現実逃避をしたい人たちのために、一度負の感情で共感してもらうことを目的として、苦しみや困難を盛り込むんでしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 物語は感情移入できるかどうかがポイントであるというのは、そのとおりかもしれまいと思いました。 多くの人が負の感情に支配されていて、共感した主人公がハッピーになると自分もハッピーになれるというのは、とても独特で面白い回答だと思いました。そうかもしれません。 とても参考になりました。ありがとうございました。
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