• ベストアンサー

「偶然」とは何ですか?

「偶然とは何か」を定義しようと思ったのですが、うまくできなくて困っています。 例えば、「偶然とは、意図せずして起こったこと」と定義する、意図せずして動いている心臓の動きは「偶然」なのかと言うと、そうは言わないように思います。 また、「偶然とは、因果関係では説明できないこと」とすると、「因果関係では説明できない自然法則そのものは、偶然なのか」というと、これも、そうは言えないような気がします。 どうもうまく説明できません。一体、「偶然」とは何なんでしょうか?「偶然」についての適切な定義があったら教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.16

他の回答者の皆様はこの問題を人文科学的な視点から論じられておりますので、私はここでは自然科学という違った側面からこの問題を論じてみます。 この問題を自然科学的立場から真っ向から扱った文献として、J. モノー著「偶然と必然」、I. プリゴジン, I. スタンジェール共著「混沌からの秩序」、それにI. プリゴジン著「確実性の終焉」を挙げておきます。日本語で出ていますので、興味のある方は参考にして下さい。 自然科学では、言葉の定義そのものを分析するよりも、むしろ、この「偶然」という事象がこの自然界でどのような機能をもち、どのような現象としての帰結をもたらすのかを分析することに重点が置かれております。その立場から、始めに結論を述べてしまうと、 「『偶然』とは我々生命現象を含めた複雑な構造が物理学の法則に従ってこの宇宙の中に自発的に現出することを可能にしている、最も基本的な事象である」 と言うことができます。この言葉で何を意味しているのかを以下で説明します。 近年の非平衡熱力学の目覚ましい進歩の結果、この宇宙の中に生命現象をも含めた複雑な構造が自発的に現れてくる物理的根拠が判るようになりました。そのことを説明する理論のことを「散逸構造の理論」と言います。この理論によると、自発的に構造が出来上がってくる条件の一つとして、「熱力学第2法則」(別名、エントロピー増大の法則)という経験則が成り立っていることが必要であることが判るようになりました。この経験則は 「時間の流れは、全体としては系全体の無秩序さが増大する方向、あるいは情報が散逸するに向かっている」 ということを主張しています。そして、そのような散逸現象が起こる最も基本的な根拠を、ミクロなレベルで起こっている「偶然」、あるいは「確率的な事象」と呼ばれる現象が担っているのす。 この宇宙では、何らかの形で構造が出来上がった場合、その構造を壊そうとする邪魔な力が常に働いています。そこで、その邪魔が入ったことを、もしその系がづっと覚えていたら、その系は構造を保って存在できなくなってしまいます。そこで、この情報の散逸、すなわち邪魔が入ったと言う記憶を忘る機能がなければ、その複雑な系は安定してその構造を保っていられなくなります。この「記憶の喪失」を保証しているのが、確率的な「偶然」というな事象に根拠を置くエントロピー増大の法則なのだと言うことを、散逸構造の理論は明らかにしたのです。すなわち、偶然が役割を演じる場所がないと、我々を含めた複雑な構造がこの宇宙の中で存在できなくなってしまうということが判ったのです。 この理論は現在までに膨大な物理系や生物系に適用され、その理論の正しさが確認されております。それによって、上で挙げた本の著者の一人プリゴジンは1977年にノーベル賞を受賞しています。 ところが、物理学の基本法則をトコトン押し進めて行きますと、ニュートンの法則、マックスウエルの電磁気学方程式、アインシュタインの一般相対性理論、量子力学のシュレーディンガー方程式という全ての法則は、決定論的方程式と呼ばれる微分方程式で表されています。従って、物理学の最も基本的なレベルでは全てが、一見「決定論的」であり、「偶然」が本質的役割を演じる「確率」の概念がこの宇宙の中に入り込む余地がないように見えています。 そこで、エントロピー増大の法則と言う「経験則」で理解されているこの偶然なり確率的な事象が、物理学の決定論的な「基本法則」からどのような論理で導き出されるのかという、途轍もなく面白い問題が、まだ未解決の問題として物理学者の間で現在深刻に論じられています。 因に、この問題の回答のカギを握っているのが、非平衡統計力学や、最近話題になっている非線形力学形でのカオスの理論であろう、との印象を多くの物理学者達が抱いております。 別な言い方をすると、現在の科学では、「偶然」と言う概念で説明される現象が、この宇宙で何故起こり得るかという問いには、まだ答えられていない段階ですが、この概念で説明される事象が在るお陰で、我々をも含めた複雑な構造がこの宇宙に自発的に存在できるようになったのだ、と言うことは判るようになったのです。もっと詳しくは、上で挙げた著書を参考にして下さい。 (蛇足)量子力学の確率解釈の問題は、未だにその意味に関して論争の対象になっている「観測の理論」と呼ばれる、物理学的には未完成な理論との折衷で理解されている段階ですので、量子力学が出たから、確率の根拠も判るようになったという主張は、未だ物理学者達の共通意見には成っておりません。

kobarero
質問者

お礼

今まで知らなかった新しい分野についての知識でした。文献の紹介も含めて、ていねいなご説明をしていただき、ありがとうございました。 全然知識のない領域なので、理解するには程遠いので、単なる感想ですが、新鮮に感じたのは、エントロピーの増大が、自発的な構造の生成の必要条件という話です。今まで、生命体はエントロピーを減少する働きを持っているので、熱力学第2法則は、生命体のような構造物を破壊する方向に働くのかなと漠然と思っていたからです。時間があったら、ご紹介いただいた文献なども勉強してみたいと思います。

その他の回答 (34)

noname#96295
noname#96295
回答No.35

27です。 例にあげておられる、友人の買い物、あなたの映画、 それぞれ、なぜそこにそのとき生起存在する対象であるのか、つまり主体に対して、 不明瞭なありかたで、それぞれの主体に受容され、出来事の認識に至ります。 、、、出来事とは、どこまでがひとつの出来事であると思いますか? 銀座でセールしている、単館で今週しか上映しない、といった おおざっぱに事の発端とみなしてよい判断契機があります。 たんなる、いきさつの展開点 としての発端です。 このいきさつの進行では、主体が銀座という空間へ運ばれ、漠とした距離の圏内で時間を過ごすことが予測されますが、 発端と決めた事項は、出来事の可能性のうちに、セール会場や映画館をクリアーに照らしています。 しかし可能性の周辺は不明瞭にぼやけ、出来事は変容して連続します。 主体の死 まで、この連続する変容が途切れることはないでしょう。 クリアーな焦点範囲をさだめるとき、物語として起承転結を持つような具合に、 出来事を語る(発話する、思考する主体となる)ことができます。 そうしてはじめて、状況の視点が生じます。 その視点によって、偶然必然という概念を物語に引き込むことができます。 銀座で買い物をしたり映画を見たりすることと、その延長での知人との遭遇は、 つながっている出来事ではなく、主体の視点がずれることによってつなげられた出来事(認識)なのです。 これは必然であった、という物語にもなれば、これは偶然であった、という物語にもなります。 仮に、さきだつ出来事と続く出来事に因果関係があるとみなす視点を持てば、出来事の変容は必然によってひきおこされたという物語になります。 つまり、因果関係は、ひとつの視点が生み出した虚構であり架空でもあります。 主体は、しかしそのように、物語をさかのぼるという思路をそなえることによって、 今を生きていることになります。 予測という複雑な機構にたいして、偶然や必然の概念は、つねに過去へ向いた力を加えます。 複雑系のシステム予測は、複数の視点において、少しずつずれながら進行する出来事(焦点内)を、 必然と判断する契機の連続としてルートをつけられるか、という問題をはらみます。 主体は、恒に結果として在ることの側から見る力、時間や空間の痕跡を見る力と、拮抗しながらありますが、 この後ろ向きの反復的な力の働いた、ずれる力の外には、出来事は存在しません。 出来事は偶然にも必然にもなり、出来事同士の関連を生じます。 出来事同士の関連において、主体は主体であることができます。 蛇足ながら、こうしたことは、戯曲や小説の技法とも深い関わりがありますし、また、 精神疾患のために、すべてが偶然の出来事とみなされる生を生きたり、すべてが必然の出来事とみなされる生を生きたりすることもあります。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 一つの「因」に一つの「果」が対応しているのなら、わかりやすいですが、現実には、無数の「因」に無数の「果」が対応していて、しかも、何を「因」、何を「果」として認識するかについては、これまた、無数の切り出し方がありわけで、その因果の総体を把握する事は、現実的には不可能。いや、むしろ、原理的不可能。 その結果として、人は、現実の中から、自分にあった「因」と「果」を「物語」として切り出すしかない。そんな感じでしょうか。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.34

kobareroさんにお考えは高尚で、私などには到底理解できないようにも思われるのですが、 #33さんへの補足を拝見してちょっと感想を持ったので、述べさせていただいてもよろしいでしょうか。 【 因果関係が成り立つの物質界だけで、人間の精神が関与する社会や歴史に必然はない 】 という点に関してなのですが。 こうなってくると、視点の違いということに帰してしまうような気もしますね。 鉛筆を正面から見て六角形である、あるいは、横から見て長方形である、といったような話。 卑近な例で恐縮ですが、秋葉原での加藤某による殺傷事件。 「殺人」にまで至ったということ自体は偶然と言えるように思います。 そこには紛れもなく、あの人間の自由意志が関与しています。 しかし、その【前段階】として、ある必然もまたあったように思われます。 怒りに至る必然、とでもいいましょうか。 殺人(に限りませんが)の温床とも言える感情に対して、「絶対的に」養分として作用してしまう必然です。 それは、広義での「悪意」ではないか、という気がします。 この点に関しては主題から逸れそうなのでこれ以上述べませんが、こういった場合のように、どこに視点を据えるかで偶然か必然かが定まってくるのではないかと思うわけです。 どちらの視点に据えるべきかということに関して、(ある集団内において)明白な総意が存在する場合、それが偶然であるか必然であるかという特定は可能になるのだと思います。 しかし、上の例のように総意が(おそらく)確立しづらいものもある。 というだけのことではないか、という感想を持ちました。 「>人間の精神が関与する世界は、偶然が起こる世界であると同時に、偶然が起こるが故に自由意志が可能であり、創造が可能」 と述べておられますが、常にそうだと(述べているように聞いてしまったのですが)ばかりは言えず、人間精神に必然的に作用する事もあるように思う、ということになるでしょうか。 ------------------------------------------ 「人間精神に必然的に作用するもの」というものを想定したとき、この場合の人間精神とは、無意識とほぼ同義である、という認識に基づいています。 一人の人間の悪意ある言葉や、蔑みの目つき、理不尽な圧力、などなどは、その対象となった個人の無意識に「必然的に」負の要素として蓄積されるのではないでしょうか。 風が吹けば桶屋が儲かる、というのは決して無機的な世界に限ったことではないのではないか(この言葉の意味自体は、無機的な世界においてすらの否定を示したものだとは思いますが)、という気もしてくるわけです。 なんどもしつこくてすみません。 勝手に(悪い)頭の体操をさせてもらってます。  

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 必然と「影響がある」ということは、別だと思います。「影響がある」からと言って、必然とは限らないと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.33

 No.32です。  簡単な回答で参加したいと思ったばっかりに 思わぬ――思っておくべきだった――結果を招いてしまいました。  動物の生活あるいはロボットの行動 これらには 偶然はないのだと思います。錯綜した因果連関をともなって 生きているし行動していると捉えられます。  ですけれども 人間にしたところで 一人ひとりの行動は これをして それがある その結果 あれがあるというふうに因果関係を伴なうでしょうし そのとき しかもやはり これら一人ひとりの行動が 社会的に錯綜し複合したかたちをとっているのだと思います。  ところが 人間に限っては こうしたい ああなりたいと思うことがあるでしょうし これを欲しないし それは ああでなくてはいけないと思ったりするのだろうと考えます。  この意志や意図と そして 必然錯綜との 関係として 時には 偶然という言葉を用いて 表わす事態も起きるということのように考えました。  きわめて個人的で 主観的なことがらであると同時に その根拠が 人間存在あるいはその自由意志というところに なにがしか あるのではないかと考えました。  

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 「動物の生活あるいはロボットの行動 これらには 偶然はないのだと思います。」と、動物やロボットに限定されているかに見えるので、人間については、偶然があるとお考えなのかと思うと、「ですけれども 人間にしたところで...」の文からは、人間も例外ではなく、偶然はないとおっしゃっているようでもあり、「ところが、...」で、それをさらに否定しているようでもあり、結局、結論がよくわかりませんでした。  私は、因果関係が成り立つの物質界だけで、人間の精神が関与する社会や歴史に必然はないと思います。すなわち、人間の精神が関与する世界は、偶然が起こる世界であると同時に、偶然が起こるが故に自由意志が可能であり、創造が可能なのだと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.32

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「偶然とは、予測不可能なことが起きることではなく、予測は可能であるが、その発生確率の低いことが発生すること」と言った方が良いようにも思うのですが、どうなんでしょうか?(No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうだと思いますという回答になるのですが。  この世の経験現象や 人間の社会行為を含めて すべては 必然性のもとに 生じ 行なわれると考えます。  また No.1の補足欄で例示しておられるように 公理というものがあるとも考えます。必然性の根拠が分からない現象ですね。    つまりは そのような公理としての現象 あるいは それらをも含めて 人間にあてはめて捉えるなら 存在ということですが この存在は 必然性がわからないものであり これを 偶然とよぶのだという考え方です。  生まれてくるという現象 これについても その再現をおこなうことができるまで 必然性が分かっているわけですが なぜ存在があるかと言えば それが どういう必然性のもとにあるかは 分からないはづです。  少し先へ進むようにして話を継げば 偶然である存在が 必然性の世界にあり 生き動いており みづからも 必然性のもとにある行為をおこなうという構造だと考えます。ここで  《偶然とは・・・予測は可能であるが、その発生確率の低いことが発生すること」》 という規定が 単純にして 導かれると思います。受け取る・また分析する主観の問題だと言えるでしょうし じつは 必ずしもまったく恣意的な主観判断によるとも言えないように思います。なぜなら もともと 偶然は 存在じたいのことを言っているからです。基礎としての存在と低い発生確率だという主観判断とのあいだを調整するとすれば それは 自由意志という問題に収斂するように考えます。  すなわち 社会行為は すべて 必然性の領域にあって 必然性のもとにおこなわれるのですが それにもかかわらず みづからの意志による自由な選択があると思う部分も残っているということになります。偶然なる存在の意志というはたらきは あたかも主観というように わがままであり 自由な選択が効くと思いがちであり しかも そのことは 必ずしも 反科学的なのではなく そうではなく 合理必然的なかたちで否定することは出来ないということではないでしょうか。  この地球上で 一人の男と一人の女が 出会うことは いくら確率が低くても その可能性はあります。そうして じつは 確率の低さに驚嘆して 偶然という言葉を持つというのではなく 必ずしもそうではなく 自由意志のありかに注目している結果だと思われます。もしみづからの意志をはたらかせて どれだけ口説いても靡かなかったとすれば あれっ 必然性の世界に住んでいたはづだがと やはり驚くでしょうし その反対の場合には もっと これは偶然だと言って 嬉しがるのだと思います。

kobarero
質問者

補足

回答ありがとうございました。 >この世の経験現象や 人間の社会行為を含めて すべては 必然性のもとに 生じ 行なわれると考えます。 ここでおっしゃっている「必然性」とは、原理的には「必然」だが、現実的には、因果関係を読みきれないので、あたかも、「偶然」のように見えるという意味でしょうか? 現実世界(数学のような論理世界ではないという意味)で、必然性が云々できるのは、極限られた物理世界の現象だけではないのでしょうか? 物理世界では統計的に何%の確率で何々が生じるというような意味での「必然性」を言うことが可能ですが、その他の経験現象や、人間の社会行為に関する分野では「必然性」を云々できるとは思えないのですが、どのようにお考えでしょうか? >この存在は 必然性がわからないものであり これを 偶然とよぶのだという考え方です。 原因の原因の原因の原因の原因....を無限に遡ることはできないので、大本の第一原因が偶然という意味でしょうか? もし、それが本当に「偶然」だとすると、この世界の根本原理が、現に今あるものではなかった「可能性」があることを示唆していると思うのですが、そんなことがあるのでしょうか? 例えば、素粒子が存在しなかった世界が存在しえたと考える根拠はあるのでしょうか? >偶然なる存在の意志というはたらきは あたかも主観というように わがままであり 自由な選択が効くと思いがちであり しかも そのことは 必ずしも 反科学的なのではなく そうではなく 合理必然的なかたちで否定することは出来ないということではないでしょうか。 「自由な選択が効くと思いがち」とおっしゃっているのは、「自由な選択が効くと思いがちだが、実は、自由な選択などできなくて、必然に過ぎない」という意味でしょうか? もし、そうだとすると、「創造活動」というものは、どのように捕らえるべきでしょうか? 「創造活動」も「必然」と考えるのでしょうか? 「創造活動」が「必然」なら、「意識」の存在を説明できないように思いますが。「偶然」と「創造」の間には密接な関係があると思います。

noname#63054
noname#63054
回答No.31

また、来ました(^^) 複素数平面というのがありましたね。 第一象限が正の実数 第4象限は負の実数 第二第三は虚数 さて三次元を二次元に喩えるならば人の意識とは複素数平面のようなもの 現在は原点。そこから先は第一象限をうねうねと斜めに上昇する自由曲線。 意思とは、その線を表す関数のようなもの。 虚数とは不可能領域。 つまり私が今から犬になるとか、松下奈緒と恋仲になるとかとういうことです。 未来は、実数平面のなかで可能性として表記され、現在からの距離は最短距離 を一義的に定義できます。 この実数平面が不変で一義的であると思うと、あるはずのものがなかったりないはずの ものがあったりという「偶然」を説明できません。 因果律というのは、人生を一定の関数で生きたら必ずこうなるはず・・という 意味合いととらえがちですが、実はこの第一象限、未来の点がもつ座標は (Xi Yi)だけでなくそれに直交する幾つもの平面の座標(Xn Yn)を持っている。 それが、他でもない他人の意識・生命との関わりということなのです。 ですから、現時点で任意に想像した状況(Xi Yi)は、その到達する仕方の違い すなわち時間差において異なる状況になりうるということです。 具体的な話をしましょう。自分の努力以外のところから助けが得られることが 人生には往々にしてあります。これはもくろんだことではなく、不安を持たなかった 結果が招いた幸運であると理解します。 つまり、ここで怯えて不幸な結果から逃げよう逃げようとするとまるで必然の ように不幸は到来します。 人は、幸運な未来にさえその到来の論理的な説明や原因を求めようとするものです。 美人に突然愛の告白をうけて「ちょっとまて、どうしてそうなる?」と説明を求めるのは 人間不信にほかなりません。美人局はありえますが、突然の昇格・昇給となれば なぜだ?と考えたそのあとに「当たり前だよ。俺は頑張ったんだから」と勝手に納得 するくせに。 私が、お金に困ったとき急に親が立て続けに亡くなり5000万ほどの遺産がころがり こみました。これなんか「なぜだ?」とか考えません。ありがとうという感謝だけです。 でも、一方に子供にまとまった遺産を残したいという親の意思がなければ、こういう 「偶然」はおこらない。 ネットでナンパした人妻が、会ってみたら目の醒めるような美人だった。これも 「偶然」の僥倖なのでしょうが、私はそれをのがさずその日のうちにモノにしました。 ナンパするというシナリオは私の人生ではあるけれど、そこで私に会う相手の シナリオは、おそらく複数の座標軸があったのだと思うのです。 もうお気づきでしょうが、この世は無限に近いパラレルワールドがあって、その接点の なかで我々の意識が現実という糸を紡いでいるのですね。 過去の記憶は5年もしないうちに、空想か夢と区別がつかなくなるのも、また われわれの存在が未来に向かって一人の意識という一本の糸を紡ぐ意外に 存在し得ないからなのだと思います。 偶然は、個人の意識の因果律(必然)を超えて、複数の意識の必然の共鳴が もたらすものである。 息子  「オレ、カネに困ったら偶然、親父が死んで遺産がはいってさぁ」 天国の声「ばか言うな。俺はいつでもお前たちのために金を残そうと生きてきたんだ  何が偶然だ。この親不孝者め」

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 人間の肉体は3次元空間に存在していることになっているようですが、少なくとも、精神は脳みその中に入っているわけではないので、肉体とは別次元の世界に投影できると言うのは理解できます。ただ、それが、複素平面かどうかはよくわかりませんが....。 また、精神が3次元空間にないということは、自分の肉体に封じ込められているわけではないということですから、精神は、そもそも、自他の分離がなされているのかどうかすら定かではないと思います。確かに意識は自他の分離がされていますが、無意識の領域では、分離されていないか、あるいは、分離されていても、直接的な相互作用が行われている可能性が高いと思います。 だから、Aがあることを強く望むと、Bが偶然のように協力者として現れる現象が起こり得るように思います。 ところで、そのような偶然がどのようなルールで働くのかということですが、単にAが「宝くじで一億円当たりたい!」と強烈に望んでもダメなような気がします。基本的には個人の欲望に閉じこもっている限りは、偶然が良い方向に働かないのではないかと思います。何故なら、人類の特徴は歴史を持つということだからです。人類は歴史のレベルで、何らかの意味ある方向に向かっていると思います。過去の人類史を見ると、それが、そのときそのときの、めちゃくちゃな単なる偶然の積み重ねとはとても思えません。うまく定義はできませんが、何らかの意味ある方向に動いていると思うのです。 ですから、偶然は、その歴史の方向性(多分、人類と宇宙にとって良いことに向かう方向)にそっているとき、促進する方向に働き、そうでない場合は、阻止する方向に働くのではないかと思っています。 ということで、さて、偶然とは?

noname#63054
noname#63054
回答No.30

蛇足になりますが http://www.din.or.jp/~honda/book7-11.htm 生きているなかで体験する現実はすべて自分の思考の結果である という内容が書かれています。 結構なベストセラーなので、一般的・・・というより認める人はいるという 程度の話でしょうか。 禅宗の経典に修正義というものがあって、原因と結果はどちらが先と いうこともなく同時に存在するものだと書かれています。 偶然という認識もあっていいのですが、偶然という捉え方で失うもの が多いのではないでしょうか。 自責の認識ということです。 存在は確率論的だと申し上げたのは、物心ついた時点での自分の 環境はアプリオリに決められていて自責の意識はもちにくいという点 そもそも、どこから「人生の意識をスタートさせるか・・・」はこれは 視点を決めるのと同じで仮決めが必要なのでしょう。 でも犬でなくて人間、それも西洋人でなくて東洋人というのは 「与件」というべきで、何かを体験するうえで仮決めした視点の ようなものでしょう。 これを、自らの選択とよぶか偶然と呼ぶべきか、それは議論しても 無駄なことです。 なぜなら生まれ変わることはできないから。 しかし、未来を考えるうえで「偶然」とみるか「意思や感情の作用」と みるかは大きく結果に影響します。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >生きているなかで体験する現実はすべて自分の思考の結果であるという内容が書かれています。 興味深いサイトをご紹介いただきありがとうございます。 この内容には基本的に同感ですが、その背景の説明として、「偶然」という考えを必ずしも排除する必要はないと思っています。というか、「偶然」自体が人の意識によって変わって来るように思います。ちょっと矛盾しているような気もしますが。 例えば、自分の夢に向かって、日夜思いを募らせ、一生懸命努力すれば、運命が微笑むというようなことが少なからずあると思いますが、この「運命が微笑む」というのは、言い換えれば、「偶然が微笑む」ということだと思います。このような現象に対して、一般には、「偶然が微笑んだ」わけではなく、日夜努力する事で、意識が高まり、普段見逃していたチャンスを発見する確率が高まっただけだと考えるのではないかと思います。 しかし、現実にあった大きな成功の例などを調べると、決定的に重要な人物との出会いがあったり、幸運なとしか言いようのない「申し出」が向こうからやってくるという場合も少なくないようです。このような例を考えると、単に意識が高まったから、発見確率が上昇したというだけでは説明ができないような気がします。 そのような意味での「偶然」と、全く、無機的な確率論的「偶然」の両方を包含するような形で、「偶然とは何か」を定義してみたいのですが、なかなか難しいそうですね。

noname#63054
noname#63054
回答No.29

28の補足にお答えします。 存在自体は確率論的ものです。 不確定性原理とか色即是空とはそういうことで、認識する時点で 確率論的存在が確定することで「速度」すなわち未来への方向性が 曖昧になる。 因果とは、時間の尺度を外せば同時存在です。どちらが結果で どちらが原因かわかりません。 それから、一般的であるかどうかということはそれほど重要でなく その考え方が人生に使えるかどうかということが重要なのだと思います。 おそらく因果律だとか唯識論など一般的ではない。その証拠に みんな自分の人生を生き迷っています。 一部の成功者が口をそろえていうのは、意識が現実を作り出すという ことで心で思い描くことから現実が変わるということ。 私もそう思います。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

kobarero
質問者

補足

>因果とは、時間の尺度を外せば同時存在です。どちらが結果でどちらが原因かわかりません。 量子論では負の時間が登場しますから、もともと因が先で果が後と固定されているわけではないのかも知れませんね。 >一部の成功者が口をそろえていうのは、意識が現実を作り出すということで心で思い描くことから現実が変わるということ。 そうでしょうね。人間の心だけが、この世界に存在していないものを描くことができるわけですからね。

noname#63054
noname#63054
回答No.28

実は、偶然とは存在せず全ての事象は原因と結果の同時存在であるという考えが あります。偶然という概念自体がまやかしで、因果律の否定です。 ユングの著作にシンクロニシティについて書かれたものがあります。 意味ある偶然の一致ということですが、頭でコガネムシのことを考えていると 窓辺にコガネムシがいたというような「偶然」をユングは意識の創造として 捉えています。 主観が何かを意識するからこそ事象が変化する。その意識の曼荼羅が 世界であり、複数の主観がそれぞれの意識の相互作用として世界の 事象を生ぜしめている。 悪いことを怖れれれば悪いことを招来し自身と勇気と努力から得られる充実感は よい結果を招来する。 それだけの単純な世界の中で、嫉妬や恨みや憎悪や競争心や虚栄心から 自分の描いたビジョンを自らゆがめ分かりにくい結果を受け入れることになる。 その因果関係を自分で説明しきれずに「偶然」とか「不運」とか曖昧な定義をして 自分の主体性を失う原因を作っている。 偶然など存在しえないわけで、幽霊の正体みたり枯れ尾花。偶然とは、自分が わからないほど複雑にからみあった事象の因果関係を説明しようとするときに 用いる便利な言い訳にすぎません。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 ちょっと話はずれるかも知れませんが、「世の中の森羅万象、全て因果関係で決まる」という考え方は、教養ある現代人に広く受け入れられている考え方なのでしょうか? 「何か事象が起こると、そこには、必ず原因がある。原因がわからないのは、単に、人間が十分に賢くないだけだ」と一般には考えられているのでしょうか? 私は、全然そのような考えを持っておらず、世の中の事象で、因果関係で決まるように見えるのは、ごく限られた領域(物理学が対象としている領域など)に過ぎず、多くの場合、相互関係、相関関係、そして、何よりも、確率的生起関係で決まっているように思いますが、どうなんでしょうか?

noname#96295
noname#96295
回答No.27

主観のうちで 主体にとって ある事象について 認識しえたとき あるいは事後かえりみたときに、 ほかの事象との関連において 因果関係を見出せないありようのこと。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 「因果関係」については、ときどき、わからなくなることがあるのですが、たとえば、「友人に街で偶然会った」というとき、「友人と自分が出会う」ことには、因果関係が見出せないと言えるでしょうか? 友人には友人なりの因果関係(街に買い物へ行く必要があったので、出かけたなど)、自分には自分なりの因果関係(映画を見るために、街へ行ったなど)があるので、因果関係が見出せないとは言えないようにも思います。むしろ、因果関係はあるが、二つの因果関係が同時に同じ場所で起こる確率が低いということではないでしょうか?

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.26

#23です。 >「正義」をトートロジーにならないように定義するのは難しいですね。どうしても「正しい」とか言う言葉が入ってしまいますね。 :トートロジー云々はこの場合重要ではありません。 【個人が思ったこと】に帰結してしまうのであれば、どんな言葉も意味を持つ意味がないのではないか、というのが私の骨子です。 >「それは意外だ」と言った場合の「意外」は、「この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意」として「意外」だと言うわけではなく、話者にとって意外だという意味になると思うのですが。 :意外の対象にもよると思います。 たとえば「君がそのようなことを言うとは意外だ」などの用法においては、単に話者にとっての意外ということでしょう。 しかし、「金正日に忠誠を尽くす人があそこまで多いとは意外だ」などの場合はどうでしょうか。 たしかに話者にとっての意外ではあるわけですが、それを意外だとする感覚は、日本という「ある範囲内の集団の総意」としても認識されている事柄だと思われます。 であればこそ意外という言葉が(日本人に向けて発する場合には)適用 可能になる、というように考えます。 (日本人の)話者にとっての意外であっても、北朝鮮国内で同じことを言った場合、話者は「言葉の意味を理解していない人」という評価をされるのではないか、という気がします。 (つまり、「意外」という言葉に意味が付与されないままになる) ◇ そういったわけで、「ある範囲内の集団の総意」というものを考慮しないと、言葉の働きを正確に表すことは難しいような気がするわけです。 この前提があれば、基本的にはkobareroさんが最初のほうで述べていたように、  「偶然とは、予測不可能なことが起きることではなく、予測は可能であるが、その発生確率の低いことが発生すること」 でいいと思うのです。 ただ、予測という言葉を使うと、【あらかじめ】という要素が混入してきます。 しかし、あらかじめ推し量ることができていない場合でも、「言われてみればたしかにそれは偶然だよな」という場合もあっていいと思うので、私としては予測の代わりに認識という語を使用して、 『 この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意として、「発生確率が低い」と認識される事柄 』 としてみたわけです。  

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >日本人の)話者にとっての意外であっても、北朝鮮国内で同じことを言った場合、話者は「言葉の意味を理解していない人」という評価をされるのではないか、という気がします。 「言葉の意味を理解していない」のではなく、「間違った認識(意見)を持っている」と評価されるだけだと思います。もし、「言葉の意味を理解していない」というのなら、そもそも、「金正日に忠誠を尽くす人があそこまで多いとは意外だ」という「文」自体が間違いだということになってしまいます。 このことは、「偶然とは何か」の本質にはあまり関係がないと思いますので、この辺で打ち切らせていただこうかと思います。 たびたび、ごていねいなご回答をいただきありがとうございました。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう