• ベストアンサー

「偶然」とは何ですか?

「偶然とは何か」を定義しようと思ったのですが、うまくできなくて困っています。 例えば、「偶然とは、意図せずして起こったこと」と定義する、意図せずして動いている心臓の動きは「偶然」なのかと言うと、そうは言わないように思います。 また、「偶然とは、因果関係では説明できないこと」とすると、「因果関係では説明できない自然法則そのものは、偶然なのか」というと、これも、そうは言えないような気がします。 どうもうまく説明できません。一体、「偶然」とは何なんでしょうか?「偶然」についての適切な定義があったら教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.16

他の回答者の皆様はこの問題を人文科学的な視点から論じられておりますので、私はここでは自然科学という違った側面からこの問題を論じてみます。 この問題を自然科学的立場から真っ向から扱った文献として、J. モノー著「偶然と必然」、I. プリゴジン, I. スタンジェール共著「混沌からの秩序」、それにI. プリゴジン著「確実性の終焉」を挙げておきます。日本語で出ていますので、興味のある方は参考にして下さい。 自然科学では、言葉の定義そのものを分析するよりも、むしろ、この「偶然」という事象がこの自然界でどのような機能をもち、どのような現象としての帰結をもたらすのかを分析することに重点が置かれております。その立場から、始めに結論を述べてしまうと、 「『偶然』とは我々生命現象を含めた複雑な構造が物理学の法則に従ってこの宇宙の中に自発的に現出することを可能にしている、最も基本的な事象である」 と言うことができます。この言葉で何を意味しているのかを以下で説明します。 近年の非平衡熱力学の目覚ましい進歩の結果、この宇宙の中に生命現象をも含めた複雑な構造が自発的に現れてくる物理的根拠が判るようになりました。そのことを説明する理論のことを「散逸構造の理論」と言います。この理論によると、自発的に構造が出来上がってくる条件の一つとして、「熱力学第2法則」(別名、エントロピー増大の法則)という経験則が成り立っていることが必要であることが判るようになりました。この経験則は 「時間の流れは、全体としては系全体の無秩序さが増大する方向、あるいは情報が散逸するに向かっている」 ということを主張しています。そして、そのような散逸現象が起こる最も基本的な根拠を、ミクロなレベルで起こっている「偶然」、あるいは「確率的な事象」と呼ばれる現象が担っているのす。 この宇宙では、何らかの形で構造が出来上がった場合、その構造を壊そうとする邪魔な力が常に働いています。そこで、その邪魔が入ったことを、もしその系がづっと覚えていたら、その系は構造を保って存在できなくなってしまいます。そこで、この情報の散逸、すなわち邪魔が入ったと言う記憶を忘る機能がなければ、その複雑な系は安定してその構造を保っていられなくなります。この「記憶の喪失」を保証しているのが、確率的な「偶然」というな事象に根拠を置くエントロピー増大の法則なのだと言うことを、散逸構造の理論は明らかにしたのです。すなわち、偶然が役割を演じる場所がないと、我々を含めた複雑な構造がこの宇宙の中で存在できなくなってしまうということが判ったのです。 この理論は現在までに膨大な物理系や生物系に適用され、その理論の正しさが確認されております。それによって、上で挙げた本の著者の一人プリゴジンは1977年にノーベル賞を受賞しています。 ところが、物理学の基本法則をトコトン押し進めて行きますと、ニュートンの法則、マックスウエルの電磁気学方程式、アインシュタインの一般相対性理論、量子力学のシュレーディンガー方程式という全ての法則は、決定論的方程式と呼ばれる微分方程式で表されています。従って、物理学の最も基本的なレベルでは全てが、一見「決定論的」であり、「偶然」が本質的役割を演じる「確率」の概念がこの宇宙の中に入り込む余地がないように見えています。 そこで、エントロピー増大の法則と言う「経験則」で理解されているこの偶然なり確率的な事象が、物理学の決定論的な「基本法則」からどのような論理で導き出されるのかという、途轍もなく面白い問題が、まだ未解決の問題として物理学者の間で現在深刻に論じられています。 因に、この問題の回答のカギを握っているのが、非平衡統計力学や、最近話題になっている非線形力学形でのカオスの理論であろう、との印象を多くの物理学者達が抱いております。 別な言い方をすると、現在の科学では、「偶然」と言う概念で説明される現象が、この宇宙で何故起こり得るかという問いには、まだ答えられていない段階ですが、この概念で説明される事象が在るお陰で、我々をも含めた複雑な構造がこの宇宙に自発的に存在できるようになったのだ、と言うことは判るようになったのです。もっと詳しくは、上で挙げた著書を参考にして下さい。 (蛇足)量子力学の確率解釈の問題は、未だにその意味に関して論争の対象になっている「観測の理論」と呼ばれる、物理学的には未完成な理論との折衷で理解されている段階ですので、量子力学が出たから、確率の根拠も判るようになったという主張は、未だ物理学者達の共通意見には成っておりません。

kobarero
質問者

お礼

今まで知らなかった新しい分野についての知識でした。文献の紹介も含めて、ていねいなご説明をしていただき、ありがとうございました。 全然知識のない領域なので、理解するには程遠いので、単なる感想ですが、新鮮に感じたのは、エントロピーの増大が、自発的な構造の生成の必要条件という話です。今まで、生命体はエントロピーを減少する働きを持っているので、熱力学第2法則は、生命体のような構造物を破壊する方向に働くのかなと漠然と思っていたからです。時間があったら、ご紹介いただいた文献なども勉強してみたいと思います。

その他の回答 (34)

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.25

<<世の中の現象は、100%因果関係で決定されているという前提で考えておられるのでしょうか?>> 諸行(生まれる性質のもの)は無常、つまり変化生滅すると考えています。 五感とその対象は常に変化していますね。 意識と概念・思考も常に変化していますね。 感情も変化していますね。 心の働きも変化していますね。 物質も変化していますね。 我々が認識できるのは因果関係によって変化生滅しているからだと思います。 我々に、これ以外に何が発見できるのでしょう。 私は知りません。 発見したと考える人には「それは変化生滅をし続ける概念でなく、客観的に観たものでしょうか」「どのような論理によって、これぞ理性的な見解。と示すことが叶うのでしょうか」「どのように発見できるのでしょうか」と問うでしょう。 論理的に成り立つとは思えませんが、もし変化生滅しない「変わらない永遠不滅なる何か」があったとしても、変化がないのですから、こちらは認識できませんし、あちらから介入することもそれ自体が変化なので成り立ちません。 まったく関係のない知りえないもの。 これについて考える必要性が見当たりません。 このような見解によって諸行無常と考えます。 その見解の上で「偶然」の概念を述べました。

kobarero
質問者

お礼

もし、森羅万象の背景に、常に因果関係が支配しているということを前提にするのであれば、「ほとんど因果関係を鑑みない怠けの・無知の思考」の意味は理解できます。 ご回答ありがとうございました。

回答No.24

>あーやっとわかりました。 「予測」と「予想」の日本語の意味の解釈のちがいですね。以下は、私の持っている日本語辞典の説明です。私には、「予測」も「予想」も同じことに思えました。 予測:将来の出来事や有様をあらかじめ推測すること。前もっておしはかること。 予想:ある物事の今後の動きや結果などについてあらかじめ想像すること。 そのようですね。予測が将来のある事(一事項)の視点であるのに対して、予想は今と今後の二時点の関係を考察していると言えそうです。関係性を重視する視点からは、予想は使えそうですね。 でも、 「偶然、震災に巻き込まれた」 「予想外だったのだが、震災に巻き込まれた」 「予測不能なので仕方がないが、震災に巻き込まれた」 偶然に類する(言い換え)言葉として、予想外も予測不能も有効のようです。ちょっとニュアンスは変わりますが、どれも似ていて、かつ、有効でしょう。

kobarero
質問者

お礼

たびたびご回答いただき、ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.23

#21です。 >「偶然ではないことが明白である」と誰が決めるのでしょうか? 集団で統一して決めるというのは、言論統制でもしなければ無理ではないでしょうか? :当然、決められないこともあります。 偶然か、はたまた必然かという問題は常に存在すると思います。 (kobareroさんのお考えでは、常にどちらかに、しかも即座に決定できるということになると思いますが、それでよろしかったでしょうか?) しかし、ある集団の中における「明白な必然」は、暗黙の了解事項として数多く想定できますし、存在もしているでしょう。 そのことに関して、個人が偶然という認識を唱えた場合、それは認識違いということで否定されざるを得ない、という見方です。 (日本で)自販機からジュースが出てくるのを見た子供が「偶然」と言ったとしても、それは偶然ということにはならないと思うのですが。 私は前提として、「ある範囲内の集団の総意」をあげているわけなので、その総意が宙に浮いてる場合も当然あるとお考えいただければありがたいと思います。 「必然」と「偶然」と「どちらか判断不可能なもの」の3種類があるのではないでしょうか。 ◇ 「正義」というお題に関しては、上で言うところの「決められないこと」の部類に入るのではないか、と思います。 辞書によれば、正義とは「人の道にかなっていて正しいこと」となっているわけですが、 「人」とは何か、ということに明確な定義づけがない以上、「明白な正義」もまた存在しないと言えると思います。 にも拘らず、しばしば使われる言葉ではありますが、たとえば、(もしあるとすればですが)「日本人にとっての正義」とは、「日本というある範囲内の集団の総意」という意味で使われるのでしょう。 ただ、この「正義」に必然性が乏しい、という点が問題であって、 それゆえに、「北朝鮮人の正義」と相容れない場面が出てくるわけでしょう。 『>「正義の定義」そのものが多義的だとは言えない』のは、その意味で当然で、全く同感です。 しかし、これは比喩としては不適当でしょう。 なぜなら、私は、 「偶然ではないことが明白である(互いに了解されている)にも拘らず偶然という言葉を適用するのであれば、」という前提の元で、 「偶然という言葉の持つ意味が多様であることになってしまう」 と述べましたが、 kobareroさんの上げたのは、 「必然的正義」が何かということに関して明白でない(互いに了解されていない)例だからです。 >同じ日本人でもAさんの正義と、Bさんの正義は異なると思います。 :おっしゃるとおりと思います。 では、「正義とは何か」と問われた場合、kobareroさんは何と答えるのでしょうか。 今までの論法でいくと「個人が正しいと【思ったこと】」となりそうですが、私の勘違いでしょうか。 私の場合であれば、 『 この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意として、「正しい」と認識される事柄 』 とでもなるでしょうか。  

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 なるほど、「正義」をトートロジーにならないように定義するのは難しいですね。どうしても「正しい」とか言う言葉が入ってしまいますね。 では、「正義」の代わりに、「意外」はどうでしょうか? 「それは意外だ」と言った場合の「意外」は、「この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意」として「意外」だと言うわけではなく、話者にとって意外だという意味になると思うのですが。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.22

<<一つの疑問が沸いてきました。それは、この定義で、「偶然」を「意外」に置き換えても、全くそのまま妥当ではないかということです。そうすると、「偶然」の定義は、単純に、「意外なことが起こること」でも良さそうですが、どうなんでしょうか?>> 「意外」は字の如く、現在の自分の思考の中の選択肢以外のもの。もしくは、選択肢の中でも確立が低いと考えていたものが現象として現れたときに当てはめるものと感じます。 「偶然」とは、使う本人が、はほとんど因果関係を鑑みない怠けの・無知の思考のなかでも、驚きの感情を伴うような現象に対して使う言葉。 本来物事は因果関係の連続で成り立っているように思うのです。それを我々はなかなか理解し切れていないのですね。本来、因果関係なく現れると言うような「偶然」と言う現象は成り立ちませんね。 しかし、我々の無知さゆえにこの因果関係を鑑みない怠けの・無知の思考のなかでも、驚きの感情を伴うような現象に対して、このような概念が生まれるのだと思います。 この概念において、「意外」は自己の考えの中と外を観て、「偶然」は突然発生のように思う事。という感じを受けます。 なので、置き換えが妥当だと思いません。 <<さらに「意外かどうか」について考えてみた結果、もしかすると、「偶然」と「意外」は何の関係もないのではないかと思う例を見つけました。それは、「サイコロを振って、あるとき、6の目が出るのは、偶然であって必然ではない」と言うような場合です。この場合の「偶然」は、単にその事象が確率現象であって、因果関係では説明できないことを述べているだけで、意外かどうかなどの個人感覚には無関係であると思うのですが、どう考えたら良いでしょうか?> サイコロを振るもしくはそれを見ている人の概念によって変わってくると思います。「サイコロは6が出にくいんだ」と思っている人にとっては6が出る事は「意外」でしょうし、6と言うワードに心揺れ動かす概念を持っている人にとって、しかも理性的にサイコロと言う性質やその現象の持つ因果関係を鑑みない人にとっては「6と言う数字が出ることは偶然だ」と言うでしょう。 賭け事に興じる人の中に多く見られる様に感じます。 期待値や、その現象に対する心の動揺する概念によって変わってくると思います。 因果関係を鑑みる人にとっては、どんな数字が出ようと「どんな数字が出ても、別に当たり前でしょ。そういう現象の流れがあったんだから」とクールに見ていられますね。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 世の中の現象は、100%因果関係で決定されているという前提で考えておられるのでしょうか?

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.21

#19です。 >「集団Aにとっての必然は、集団Bにとっての偶然」であり得ることを前提にしつつ、一方で「個人Aにとっての必然は、個人Bにとっての偶然」であってはならないと考えるのは、何故でしょうか?  :「集団Aにとっての必然は、集団Bにとっての偶然」であり得ることを前提にしてはいますが、 『この異なる総意が遭遇した場合、必然が優先されるべきで、日本人グループとしては「同じ現象に関して」偶然という言葉は使えなくなると思うわけです。』 と述べていますから、個人の場合と同じです。 ◇ 「>個人Aにとっての必然は、個人Bにとっての偶然」であってはならないと考える :のは、あくまでAとBが同一集団に属する場合、という私見はおわかりいただいていると思います。 kobareroさんとしては、 (同一集団において)「>個人Aにとっての必然は、個人Bにとっての偶然」であっても構わない、という立場なのでしょうか。 そうすると、ある一つの事柄について会話する場合、たとえば、 「日本人にとっての偶然」「地元民にとっての必然」という解釈が必要になるでしょう。 しかし、偶然ではないことが明白である(互いに了解されている)にも拘らず偶然という言葉を適用するのであれば、偶然という言葉の持つ意味が多様であることになってしまうと思います。 あるいは「~にとっては偶然な○○」という注釈が必要になるでしょう。 そうすると、「偶然とは何か」ということの解にはつながっていかないと思うのですが、どうなんでしょうね。 偶然というのが個人の認識であることを認めていればこそ、「ある範囲内の集団の総意」という前提に基づかないと、正しく適用することは難しいのではないか、という発想だと思います。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >しかし、偶然ではないことが明白である(互いに了解されている)にも拘らず偶然という言葉を適用するのであれば、偶然という言葉の持つ意味が多様であることになってしまうと思います。 「偶然ではないことが明白である」と誰が決めるのでしょうか? 集団で統一して決めるというのは、言論統制でもしなければ無理ではないでしょうか? 例えば、「日本人にとっての正義」と「北朝鮮人の正義」とが異なっていたとしても、「正義の定義」そのものが多義的だとは言えないと思います。同じ日本人でもAさんの正義と、Bさんの正義は異なると思います。

回答No.20

「偶然」とは、「前後の事象に関して、弱い関係性が認められるような場合のこと」である。 青カビは研究対象ではなく、偶然そこにあったので、ペニシリンの発見において、弱い関係性があったわけです。だからこそ、偶然の代表例になります。「予想外の成果だった」も有効な表現です。予測可能性を要件にすることに拘る必要はありません。必須要件ならば、予測不能な偶然、たとえば大震災との偶然の遭遇も、予測可能性を基準にするのでしょうか。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 あーやっとわかりました。 「予測」と「予想」の日本語の意味の解釈のちがいですね。以下は、私の持っている日本語辞典の説明です。私には、「予測」も「予想」も同じことに思えました。 予測:将来の出来事や有様をあらかじめ推測すること。前もっておしはかること。 予想:ある物事の今後の動きや結果などについてあらかじめ想像すること。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.19

#13です。 >>ドライバーが偶然と思っていても、それはやはり必然と呼ぶべき この文章が「偶然」という言葉の用法として、正しいとすれば(私は、正しいと思いますが)、偶然か必然かは、ある範囲内の集団にとっての予測可能性ではなく、個々人にとっての予測可能性によって決まるということにならないでしょうか? :『ある個人が「偶然と思った」と言う場合、 それを聞いた(大多数の)他者が「確かに」あるいは「なるほど」と思える偶然、とは何か』 ということでなければ、「偶然とは何か」と問うた意味がないのではないか、と考えるわけです。 個々人にとっての認識によって左右されるのではなく、ある一つの現象などに対して、「偶然性」は共有されなければ意味がないように思うということなのですが。 ここで、#9での定義を再掲してみます。 偶然とは、 『 この語彙を受け取った者の属する、ある範囲内の集団の総意として、「発生確率が低い」と認識される事柄 』 もうひとつ別の例をあげてみたいと思います。 初めて訪れた外国のとある平原を日本人グループが歩いていたところ、そのうちの一人が地雷を踏んでしまい大怪我をしました。 日本人グループの人たちは「歩いていたら偶然地雷を踏んでしまった」と思うでしょう。 この時点で、偶然という言葉が適用されるのは自然だと思います。 しかし、その平原は過去の戦争の名残りで地雷が大量に埋まっている地域であることは地元では周知の事実でした。 地元の病院に運ばれ、そこで医師に対して同じこと(「歩いていたら偶然地雷を踏んでしまった」)を言ったとします。 この場合、地元の医師にとっては地雷を踏んだのは必然と認識されるはずです。 「ある範囲内(=日本人)の集団の総意」としては偶然であっても、 別の「ある範囲内(=地元)の集団の総意」としては必然ということが言えるでしょう。 この異なる総意が遭遇した場合、必然が優先されるべきで、日本人グループとしては「同じ現象に関して」偶然という言葉は使えなくなると思うわけです。 ドライバーの例に戻れば、 【50の交差点を一度も停まらずに青信号で通過できた、という事実】に対して、 「全部青になるように工事していたのだから必然」と考える工事関係者と、 「稀な偶然」と思い込んでいるドライバーが会話する場合、 「偶然」という言葉はどのような意味で用いられるだろうか、という視点で考えたということになりそうです。 ドライバーが予測できなかったのだからドライバーにとっては偶然であり、工事関係者にとっては必然である。 ということでは、繰り返しになりますが、偶然とは何かと問うた意味がないように思うのですが、私が何か勘違いをしているのかもしれませんね。  

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 「集団Aにとっての必然は、集団Bにとっての偶然」であり得ることを前提にしつつ、一方で「個人Aにとっての必然は、個人Bにとっての偶然」であってはならないと考えるのは、何故でしょうか? 

回答No.18

>それで、「予測可能性」の話ですが、「予測」と言う言葉の意味も、現実には、100%予測可能性が問題にされているわけではないと思います。 100%ではない・・・どれくらい?・・・ちょっと理解できません。 >台風の進路確率の円の範囲であれば、100%正確な進路が予測できなかったとしても、それを「偶然」とは言えないように思います。 予報円内ならば、予測は十分成功しているし、それでも偶然に支配されていると思いますが。 予測可能性の視点は、排除しましょう。必ずしも必要ないと思います。 「予期しない偶然」という表現もあるでしょう。予想外のことが起きた場合です。「カビから、偶然、ペニシリンが発見された」の場合、予測なんかしていないのです。予測が関わる場合もありますが、予想外のこともあります。必須要件にしなくてもいいと思うのですが。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >「カビから、偶然、ペニシリンが発見された」の場合、予測なんかしていないのです。 おっしゃるとおりです。予測してないことが起こるから、偶然なのですから。予測していたら、偶然ではなくなってしまいます。 にもかかわらず、「予測可能性の視点は、排除しましょう」というのは、どういう理由なのかよくわかりませんでした。私が何か誤解をしているのかも知れませんので、「偶然とは何か」を「予測」に類する言葉を使わずに定義してみていただけますか?

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.17

<<だいたい理解できました。>> 時間があったらもう一度読んでみてください。何か新しい発見もあるかもしれませんよ。 <<「特に個人的に心にインパクトの大きく感じたことに対して使う言葉。」というのは、おもしろい着眼点ですね。これは、「偶然」とは「自分にとって、意味があることの発生」に関するものということになりますね。>> 意味ですか… 全ては因果関係つまり、多種の因によって結果が常に現れ、その多種の結果が次の因になって…その関係性を本人が理解しているかどうかが大きな核となると思います。 完璧に因果関係を理解した人にとって、「偶然」と言う概念は成り立たないと思います。「別にそういう原因があっただけでしょう」と言う立場で。 <<そうすると、「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」と定義して良いでしょうか?>> やはり→「因果関係を鑑みないこと」(因果関係を鑑みなければ、全ては偶然と言えるような現象となるが)このなかにおいて、特に個人的に心にインパクトの大きく感じたことに対して使う言葉。となると思います。 このインパクトには「因果関係を鑑みないこと」と言う怠け(鑑みないのだから)の思考のなかでも、感情(特に無知に分類される「驚き」の要素がこれに多く適応する気がします)の伴うものがあたり。 意味と言うとその「意味」と言う言葉があまりに広すぎて、定義としては後々その幅が(論理的思考哲学的対話などの中で)問題になってくると思います。 <<あと、「因果関係」という言葉を敢えて使う必要があるのかどうか、今、ちょっとわからなくなりました。というのは、街で、偶然、友人に会ったという場合、それは、予期せぬ出来事ではありますが、因果関係という視点では、何が「因」なのかよくわからなくなりました。友人の「街へ行こう」という気持ちが「因」でしょうか。>> 全ては「因」で全ては「果」です。一つの「因」によって一つの「果」と言うような単純なものではないはずです。多数の「因」によって多数の「果」がうまれる。だと思います。 我々にとってそれらを完璧に把握することはなかなかできません。しかしそのような「因果関係の下にあると理解」さえしていれば、驚きも出ないでしょう。 まとめると ★★ 「偶然」と言う言葉は、「因果関係を鑑みないこと(全ての生まれる現象は因果関係の連続によって流れていると言う理解をしない)」と言う怠け(鑑みないのだから)の思考のなかでも、「心にインパクト」つまり、感情(特に無知に分類される「驚き」の要素がこれに多く適応する気がします)の伴う現象についてあてはめる言葉。 と私は考えました。この範囲が意味的にも広すぎず、定義するなら善いのではないかと思います。 もっとコンパクトに書くと 「偶然」とは、使う本人が、はほとんど因果関係を鑑みない怠けの・無知の思考のなかでも、驚きの感情を伴うような現象に対して使う言葉。 となると思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >「偶然」とは、使う本人が、はほとんど因果関係を鑑みない怠けの・無知の思考のなかでも、驚きの感情を伴うような現象に対して使う言葉。 なるほどと思いながら、色々考えていたのですが、ふと、一つの疑問が沸いてきました。それは、この定義で、「偶然」を「意外」に置き換えても、全くそのまま妥当ではないかということです(これは、私が#5補足で書いた定義についても同じです)。そうすると、「偶然」の定義は、単純に、「意外なことが起こること」でも良さそうですが、どうなんでしょうか? そして、さらに「意外かどうか」について考えてみた結果、もしかすると、「偶然」と「意外」は何の関係もないのではないかと思う例を見つけました。それは、「サイコロを振って、あるとき、6の目が出るのは、偶然であって必然ではない」と言うような場合です。この場合の「偶然」は、単にその事象が確率現象であって、因果関係では説明できないことを述べているだけで、意外かどうかなどの個人感覚には無関係であると思うのですが、どう考えたら良いでしょうか?

回答No.15

>>今の(自分側の)事実と次の(相手側の)事実との関係性の強さが、ほとんど感じられない時に偶然と思うのではないかという視点です。 >確かに「関連性」という言葉で表現してもいいのかも知れませんが、一般には、「予測(予期)可能性」という言葉で表現する事柄のように思いました。 「関連性」でもなく、「予測(予期)可能性」でもなく、「関係性」です。置き換えないでください。 >最終的には、「偶然とは何か」に対する答えを知りたいのですが、「偶然とは、自分にとって意味あることが、予期せずして起こること」と考えてよいでしょうか? No.8にも書きましたが、「予測困難ならば偶然で、予測どおりならば必然という個人の能力問題は解消」すべきだと思います。予測したか予測し得なかったかを問わない、さらに、自分にとって意味あったか意味が無かったかも問わないで、「関係性」の視点だけで考えてみましょうという提言です。 No.3で台風の話が出ていますが、予測技術が今日発達していてもやはり進路は確率の円で表示されていて、どの点に行くのも偶然でしょうし、迷走進路もしばしば有り得て、大きく反れる場合もあるでしょう。進路を正確に予測したいのに、それでも偶然そうなってしまう場合、予報官にとって、出された予想円と数時間後の台風現在位置が外れていれば、失敗したというのは言い過ぎです。台風進路の予報と現実は、現状では弱い関係性(偶然)が支配しているわけです。観測方式や進路変更要因の発見で関係性をより強くできるような必然に近い予報技術を確立し得るかもしれません。将来、必然的な台風進路予報ができれば、「囲碁の終盤」と類似したイメージになるでしょう。 このように、関係性の強弱として説明できると思います。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 「関係性の強弱」という考え方、よくわかりました。そして、私にとっては、「強弱」であって「有無」ではないところが、大変良いヒントになりました。 台風の例にあるように、この世のできごとで、100%確実ということはそもそもないわけで、実際には、非常に高い確率から起こる事象から、非常に低い確率で起こる事象まで、様々な段階があるということですね。 そう考えると、「偶然かどうか」の判断も、グレーなものになると思います。例えば、降水確率が80%と予想されていて、実際、雨が降ったらそれは「偶然」なのかというと、ちょっと「偶然」とは言えない気がします。もちろん「必然」ではないですけど、「必然」でないから「偶然」だと1/0で判断できないように思います。 それで、「予測可能性」の話ですが、「予測」と言う言葉の意味も、現実には、100%予測可能性が問題にされているわけではないと思います。台風の進路確率の円の範囲であれば、100%正確な進路が予測できなかったとしても、それを「偶然」とは言えないように思います。

関連するQ&A

  • 偶然と必然と。 偶然はあるの?

    例によりまして、ふと、私の頭に浮かんだ素朴な疑問について質問いたします。 偶然って何ですか? 必然(性)とは何ですか? Wikipediaを見たところ、必然性の欠如をもって偶然と呼ぶ、といったような記述がありました。 ネットにある辞書によりますと ───────── 偶然 [名・形動]何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま。「―の一致」「―に見つける」⇔必然。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/60444/m0u/ ───────── ───────── ひつ‐ぜん 【必然】 [名・形動]必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと。また、そのさま。「―の帰結」「なまけたのだから不合格は―だ」⇔蓋然(がいぜん)/偶然。 http://kotobank.jp/word/%E5%BF%85%E7%84%B6 ───────── ───────── がい‐ぜん 【蓋然】 たぶんそうであろうと考えられること。ある程度確実であること。⇔必然。 http://kotobank.jp/word/%E8%93%8B%E7%84%B6?dic=daijisen ───────── とありました。 論理学的な必然(性)はひとまず置いておきまして、 どうやら、必然と偶然を分けるものは、  1 因果関係の有る無し  2 予測可能か、いなか の2点にあるようです。 で、更に私の疑問は深まります。 この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか? ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少なく、その現象の発生を予見できないものを、 単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか? もちろん、私たちは量子力学や不確定原理を知っていますので、ラプラスの悪魔が存在しないことは知っています。 ですが、我々の感覚器官は精度の悪い観測器のようなもので、量子レベルの不確定さは検出できません。 また、私たちが実際に生きている世界はマクロ系であり、この世界は古典物理学が支配する決定論的世界です。  ───ここでいう決定論的は100%の精度の意味ではなく、99.9・・・%と、9が有限桁続く精度の予見可能性の世界、程度の意味。この精度は99.9%でも構わない─── この様に考えるならば、 人間が実際に五感で感じ、生きる世界の現象に偶然などありうるのだろうか? ただ、我々の知識と情報の欠如のために、そして、計算能力の低さのために、偶然と感じるだけなのではないか? 皆さんのお考えを教えてください。 ───────── ラプラスの魔【Laplace's demon】 自然界のあらゆる力と宇宙全体のある時点における状態を完全に把握することができ,かつ,これらの素材を完璧に解析する能力をもった仮想的な知的存在.このような魔(demon)にとっては宇宙の中に何一つとして不確実なものはなく,未来のことを完璧な形で予見することが可能となる. https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%AD%94-791574 ─────────

  • 「偶然」とは人間が発見したものではないでしょうか?

    全てには理由があり必然…という考えを追っているうちに 「他の動物達とかはどうなんだろう、偶然だぁなんて思ったりするのかな?」という疑問が出てきました。 人間よりも事象について「自然」と受け止めそうな気がしますが…? となるなら「偶然」とは人間の為の人間解釈ではないでしょうか? ゆえに人間が発見・発明した?と思ってしまったのですが。 皆さんの意見を聞かせていただけませんか? 宜しくお願いします。

  • メジャーリーガーに仰木門下生が多いのは偶然?

    仰木監督が急逝されましたが、野茂、イチロー、田口、長谷川、吉井、木田など、メジャーリーガーとして活躍している、またはしていた選手に、仰木門下生が極端に多いのは、偶然でしょうか。それとも、何か因果関係があるのでしょうか。

  • ダーウィンの進化論は偶然?必然?

    現在、哲学などの人文科学を学んでいると、 「人間は、機械というものを、ある目的を持って作成し、その機械は個々の部品を組み立てることにより、調和と秩序を形成している、だから、自然というのも、超越者(神)が自然を目的を持って創造し、そのため、その自然の中には、調和と秩序という法則がある。」 という類似思考という宗教的ともいえる思考に妙に私は腑に落ちてしまいます。 しかし、現在の自然科学では、神を廃し、その概念を消すため、目的論も否定するのが主流です。ダーウィンの進化論を使って、自然の中の適者生存、自然淘汰の中で、自然は、必然ではなく、偶然、秩序と調和が形成されると。 しかし、果たして「進化」とは「偶然」でしょうか?「必然」でしょうか?

  • 偶然? それとも何かの必然?

    はじめにお断りしておきますが、私は、いわゆる「神秘体験」とかオカルティックなことに縁遠く、そうしたことについては、なるべくニュートラルな立場でいたい、理性的、理知的なスタンスで接したいと考えている者です。一見不思議なことに遭遇したとしても、まずは、常識の範囲で納得の行く説明付けをしてしまいたいと、思っております。 そんな私が、どうしても、ただの偶然とは思えない事象に会って、気になっているのです。明確な回答を得られるとはとても思えませんが、どなたか、アドバイスをいただければ幸いです。 長年にわたって、「1」のゾロ目に出くわすことがあまりにも多くて、ずっと気になっております。ふと時計に目をやると「11:11」、「1:11」だったりします。もっとも今挙げた例は、常識の範囲で説明付けが可能だと、自覚しております。生活時間との兼ね合いも手伝って、時計においては、他の数字のゾロ目より「1」のゾロ目に出くわす可能性がはるかに高いということは、容易に理解できることですので。それでも良く見るので気になっています。 車のナンバーはどうでしょう。「1111」を良く見かけます。出不精の私が、交通量の多い通りに出ている時間は、日に10分とありません。生活圏も実に狭いのです。その私が、三日と開けず「1111」を見ます。毎回違う車種です。一体、この日本に、「1111」の車は何台あるというのでしょうか。 ジャンボ宝くじをバラで十枚買ったとき、その中の一枚が「111111」だったこともあります。めったに買わない私なのに。 指紋認証が導入される前、会社のメインサーバーにログインするために、セキュリティトークンを利用していたのですが、その、30秒ごとにランダムに切り替わるデジタル表示が「111111」になったこともあります。各桁が0から9までランダムに変わる装置なんですよ! 北海道を一人旅した際のことです。旅に出るにあたって、ツーリングガイド誌で選んだ道程が111.1km。日頃「1」に敏感になっていることを知っている友人に「何かあるかも。気をつけろよ」とからかい半分にそう言われて送り出されたのですが、いざ旅に出て、その道程は無事に終え、ホッとしていた二日目の朝、いきなり届いた迷惑メール〈迷惑メールは拒否する手続きをしていたはずなんですが)の送信者アドレスが「1111111111@~」。111.1kmなんてのは、元より気にはしていなかったのですが、何かあるかも、なんて話していた旅の最中に、こんなメールが届くなんて! ここまで来ると、偶然の二文字では片付けられないと思っています。はじめにも申しましたように、私は理知的でありたいと願うものです。だから説明付けたいのです。どなたか、何でも良いのでアドバイス下さい。長々と失礼しました。

  • 偶然か?意図的か?

    こんばんは。 会社の先輩に告白されました。 先輩も私の気持ちを知っています。 そんなある日、 A.車内で私達が話していると先輩の上司がやってきました。 先輩が下車した後に上司が私達の関係を聞いてきました。 その後、私の週末の予定も聞いてきました。上司は60歳位の既婚者です。 翌日、 B.役員が私達に近寄ってきました。 私にいつもこの時間ですか?といいました。 先輩に、二人はデートですか?と聞きました。 先輩はうつむき答えられなかったです。 これら一連の出来事A.Bは偶然でしょうか?それとも先輩の意図的な作戦でしょうか?因みにデートはまだです。その後私が連絡先を教えました。

  • 偶然が起きる確率について

     数学の問題かどうか分かりませんが、日常生活で偶然が起きる確率について相談させてください。 というのも、よく起こるのが仕事中にほんの数分(5分くらい)大切な話を同僚と話ている間に、必ずといっていいほどどちらかに来客があったり電話がかかってきたりします。普段はそんなに頻繁に客が来たり電話がかかってくる仕事でもないのですが、ほんとに不思議なくらい大切な話をしている時に限って邪魔が入ります。8時間勤務なので時間に直すと480分。そのうちに1日あたり10件の電話(来客)があるとしても平均48分に1回しか電話(来客)がないことになります。それまで誰も来ずに静かな事務室なのに、重要な話を始めた途端に必ずこの少ない確率が的中して邪魔が入るのはどんなからくりなのでしょう。もちろん来客や電話はこちらの状態はまったく知りません。(意図的に来るわけではありません)。    他にも、普段あまり人気のない道路の角を曲がろうとするとちょうど同じタイミングで反対側から別の人が曲がろうとし、出会いがしらにぶつかりそうになることもしょっちゅうです。ぶつかりそうなタイミングとはホントにほぼ同じタイミングで同じ角を曲がろうとしていたことであり、1日24時間は1440分であり86400秒ですが、この86400秒分の1が頻繁に起きるとはどういうことでしょう。相手もその都度違う人なので、生活リズムや行動パターン(その道を曲がる時間帯)が同じわけでもありません。    こうした生活上の偶然を数学的に説明できるでしょうか。たんなる偶然といってしまえばそれまでですが、何か説明できる理論や考え方があれば教えてください。よろしくお願いします。    (補足ですが、先週の日曜日に娘の運動会に行ったところ、昔大阪で知り合った女性に25年ぶりに東京で再会しました。偶然にもお互いの娘が同じ中学校に通っており、クラスも一緒でした。日本には星の数ほど中学校はあると思いますが、全く同じ学校で同じ学年で同じクラスだったというのもすごい確率だと思います。どういうわけか私にはこんな偶然が頻繁に起こります。ついでに書くと、その娘が生まれた日と私の実父が亡くなったのも同じ日です。親を亡くした日と子供が生まれた日が同じというのも天文学的な確率だと思います。)

  • 九鬼周造の「定言的偶然」についての疑問

    大学の卒業論文の参考にと、九鬼周造の偶然に関しての諸理論を学んでいるのですが、九鬼の唱えた三つの偶然(定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然)のなかの、定言的偶然について疑問を持ったので質問したいと思います。 定言的偶然は本質に対する非本質、法則に対する例外として、四葉のクローバーの例を引き合いに説明されることが多いですが、なぜ個々の事実を確認したところでそれが特定の概念の本質から逸れた、つまり特定の概念に対する非本質的存在だと判断されるのでしょうか? 四葉のクローバーの例で言うと、通常三葉とされるクローバーの本質に対して四葉のクローバーが現れたとしても、そもそもそれをクローバー(の例外的存在)だと認識するとは限らないのではないでしょうか?四葉の「それ」は外観こそクローバーに類似していても、「それ」をクローバーとは異なる別の植物だと認識され、あくまでクローバーの非本質的、例外的存在とは認識されない可能性もあるのではないでしょうか? 識者の方々、どうか無学な私にご教授くださいますようよろしくお願い致します。

  • 関数という言葉の意味上の差

    関数という言葉の定義があると思いますが,○○関数とか××関数というのが無数にありますが,命名のしかたに法則がまったくないようにも思います。構造的に上下関係がありそうなものもありますし、あるいは部分と全体の関係にありそうなものもあるようです。かと思うと超関数などという恐ろしげなものまであるようです。一体関数と言った時、どんなものを思い浮かべればよろしいのでしょうか。

  • 宇宙と宇宙の法則は一体である

      宇宙なくして宇宙の法則は存在し得ず、宇宙の法則なくして宇宙は存在し得ない。 宇宙と宇宙の法則は常に一体となって存在する。 これを宇宙の第1公理と定義する。 また、宇宙における如何なる現象も宇宙の法則に支配される。 これを宇宙の第2公理と定義する。 第1公理 宇宙と宇宙の法則は一体である。 第2公理 宇宙の全ての現象は宇宙の法則に支配される。 この2つの公理に従うと、宇宙には始まりは無いことが分かるという。 それは何故でしょう。