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日米開戦後の駐日・米大使の運命

あの日の朝、東郷外相は、米国および英国の大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡しています。 その後、米大使は家族も含めて束縛されたと思いますが、束縛されたときの様子や、日米交換船で帰国するまでどこに収容されて、どのような生活をおくったのか、知りたいです。 そこで質問ですが 1.駐日米国大使館員を束縛した日時。そのとき、重要書類を押収できたのでしょうか。 当然、軍事作戦の一環として綿密なスケジュールを立てていたはずであり、鮮やかに実行したと思っています。 2.日米交換船で帰国するまで、どのような日常生活を送っていたのでしょうか。 些細なことでも、「ガセネタ」のような内容でもかまいません。 なぜ「ガセネタ」が生まれたか、を考える楽しみがあります。 本よりは、Web(日本語を希望します)の方がありがたいです。 ワシントンの日本大使館員やホノルルの総領事館員が帰国するまでの顛末は、かなり具体的に日々の生活ぶりを回想記などで知ることができます。 敵性外国人に対するわが国の「接遇」を知りたいのです。 ご教授下さいますようお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.1

『軍事板常見問題』より http://mltr.ganriki.net/index02.html#02638 「第二次世界大戦 アジア太平洋FAQ」から http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08c.html 「異邦人・帰化者関連」 http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08c.html#00831g 上記HPに、連合国・枢軸国共に在日の外国人・帰化人への処遇が掲載されていますので、参考にされてはいかがでしょうか。 (なお、同HPに参考として引用されている外務省HPはURLが変わっているので、新しいもの下に載せておきます) 外務省HP 「外交資料Q&A」 http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/senzen_04.html

goo-par1732
質問者

お礼

こんなサイトがあるとは知りませんでした。 質問した内容についてはおおよその輪郭を掴むことができました。 さらに質問したこと以上のことを知ることができました。 当時の在米日本公館(ホノルル総領事館を除く)の外交官・官吏、そして新聞記者や一流企業の社員たちは、超高級ホテルに収容されて、安全な生活を保障されています。 ところが一般邦人は、収容所生活です。 このようなことを日米で比較したくて質問しました。 早々のご回答ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • djiburil
  • ベストアンサー率47% (11/23)
回答No.3

 歴史についてしっかり調査しようと思ったら、WEBより本ですよ。やっぱり。  太平洋戦争開幕直後、日本に残されたアメリカやイギリスの大使館に対する処置については、鹿島研究所出版会<日本外交史第24巻>「大東亜戦争戦時外交」に詳述されています。  それによるとおおむね次のような措置が取られています。 ○東郷外相が米・英大使を外務省に招致し、宣戦布告について知らせるとともに、それまでの労に対し謝意を表明。 ○西外務次官より、対米覚書及び日米交渉に関する資料集を手交。 ○外務書記官、警視庁及び憲兵隊、逓信省の係官を英米大使館等に派遣し、各公館の機能停止措置を講じた。(ただし外交特権は礼節上引き上げまでは認める措置。) ○外務省から各公館に連絡員を派遣し、生活上の便宜を図った。 ○公館内の文書及び建物家財については、利益保護国(当該国から委託された中立国)の管理下にいれ、日本側に目録を提出させた。なお、敵国となった国の財産についてこれを没収しないとする外務省と、没収して国有財産に編入すべきとする大蔵省及び大本営の間で紛糾した。  一方、アメリカ側の目から見た戦時下の措置については、当時駐日大使だったJ・グルーの回顧録「滞日十年」に詳しく記されています。大使館内に軟禁状態となり、スイス公使を通じて日本政府と交渉したり、アメリカ大使館職員の通訳(日系人)が日本側に拉致されるという事件が発生するなど、当時の生々しい状況がわかります。  また、イギリス大使館関係では「レッドマン事件」という事件が発生しています。イギリス大使館の情報担当参事官だったレッドマンを、日本におけるイギリス情報網の総元締めとにらんだ東京憲兵隊が、開戦の日にイギリス大使館に踏み込み、クレーギー大使らの抵抗を排除してレッドマン参事官を逮捕しています。この事件については、全国憲友会連合会編「日本憲兵正史」に詳しく出ています。  いずれも少し大きめの図書館に行けば閲覧できる史料ですので、ぜひ読んでみてください。歴史研究の面白さにはまること請け合いですよ。

goo-par1732
質問者

お礼

詳しく回答下さいましてありがとうございます。 図書館へ行く余裕ができそうなので、J・グルーの回顧録「滞日十年」を探してみます。 やはり、足を運ばないとダメですね。

  • gbrokk
  • ベストアンサー率26% (146/541)
回答No.2

外交官や日本企業の代表者(ほとんどアメリカに残って居ませんでしたが)は開戦と同時にアメリカ東部のリゾートホテルに監禁されました ワシントンの大使館は真珠湾攻撃の直前に宣戦布告電報を解読するまで開戦を知らなかっし書類を焼く時間的な余裕もありませんでした、真珠湾攻撃と同時にFBIが突入して機密書類を確保し館員は全員別の場所に拉致されました 全米の外交官やVIPは昭和18年に日本で監禁されていたアメリカの外交官と引き換えに交換船で帰国しました ワシントン駐在の寺崎一等書記官の夫人、グエンさんの「太平洋の架け橋」と言う本にその時の経験が書いてあります ちなみにアメリカ西海岸の日本人、日系人は砂漠の収容所に監禁されましたが中部・東部の日本人はそのまま暮らせました 日本の学者、留学生、知識人で戦争中もアメリカにそのまま滞在した人たちもありました

goo-par1732
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「ワシントンの大使館は真珠湾攻撃の直前に宣戦布告電報を解読するまで開戦を知らなかったし書類を焼く時間的な余裕もありませんでした」 そうかも知れません。 しかし、在米の外交官であれば、日米関係が日増しに悪化していくことを実感しているわけですから、たしか、ホノルルやニューオーリンズの公館では、書類を少しずつ焼却していたという証言もあります。 そこで、駐日のアメリカ大使館ではどうしたのだろうと、質問しました。

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