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《われはブッダなり》と宣言する人は

 どのくらいいらっしゃるでしょうか。  人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五   〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.7

あー、少し分かった気がします。 ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 それは正しいし必然だと感じます。 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 如来寿量品の一節が 評判が悪いようですが その前後をも掲げておきます。(20080310記) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・ そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。 多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・ 〔《さとり》の境地を示し・・・の一節が入る。〕 かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。 余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。 この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。 そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。 《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。 あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》 他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。 ・・・(中略)・・・ 余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く 無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。 賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。 余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。 ・・・ 余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。 愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り 入滅しないで入滅したと見せるのだ。 それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は 信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。 しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り 《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。(岩本裕訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#80116
質問者

補足

 はづかしながら shift-2007さんは わたしにとって ソクラテスの産婆さんのようなのですね。こんなに多くのことばを費やして翻訳しないと 伝わらなかったとは 残念であり 恥づかしいです。  そうです。ふつうの生活態度の問題として ふつうの思いやりのいとなみであると言えばよかった。つまり ★ ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 ☆ ただ ★ それは正しいし必然だと感じます。 / 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ と書いてくださったということは かなり道が開けましたね。そして もしそうなら もっと《われはブッダなり》の問題を指摘して 広く明らかにしていきたいと思うのですが shift-2007さんにも その方向でお願いしたいと存じます。(なにか おかしな運動になってしまったようですが なお質問のかたちで 広く対話を求めていくのがよいと思います)。  あれっ。それはそうと まだ 《補足要求》なのですか? どうしてでしょう? ★ 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ この問題は 一方で 個人個人がその考え方や生活態度の模索の上で突き当たるものであるでしょう。そして 他方では ブッディスムが 思想にとってあるいは理論としての構成の上で その性格や特徴が どのようになっているかにかかわっていると考えます。つまり わたしたちにとっては これら両面において 広く対話をすすめていくという務めがあるように思います。  後者としては ブッディスムは あくまで実践思想であり そう言うほどに やはりあくまで 人為としての領域にとどまる理論であるということだと考えます。ということは 前者の生活態度の現場においても じっさいのところ なにかあの世のことであるとか 超能力のことであるとか そういう方面のことがらは まったく関係のないことだと言わなければならないはづです。  このような将来を見越した(あるいは もともと仏教はそうだったかも知れないところの)問題について その具体的なあり方は こうなのだといった視点などをも回答してくださると ありがたいです。また とうぜん 反対という立ち場の方もいられることでしょうから そのご見解を寄せていただいて 回答を深めていただければと思います。どうぞよろしくお願い致したいと存じます。

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その他の回答 (32)

回答No.2

悟りを開くの意味を、まず説明します。悩みの無い人は悟りを開く必要が、有りません。悩みと言うものは矛盾です。それは「自我」と仏性」との矛盾、対立でも良いです。 人が悩むのは、心の矛盾です。二つの考え方が在って、それが、離れていればいるほど、悩みが深くなります。それは自我(左脳)と仏性(右脳)の意識の違いを矛盾として自我が感じることです。 悟りを開くと言う事は、自我と仏性が出会うことです。仏性は「永遠の命を持っています。その事で「死にたくない」と思っていた、「自我」が、本当に大事なものに気が付く事です。そのことによって、自我が仏性に全てを預けて安心して生きてゆけることです。「絶対肯定」という足場に立つ事になるからです。 ですから、人の苦しみを救いたい、と強く願う心が在ります。自分の苦しみが、余りに大きかった事によります。大悲、大智という心です。ですが、人になにをしてやれるかと言う事は、疑問です。 目の前に、全ての真実が有る、自らを灯明にして生きてゆきなさい、というお釈迦様の遺言は「正しい教えかと思います」 間違っても、自分は悟りを開いたから、自分を崇め、奉れ、とは言わないはずです。そんな事を言う人は「悟ってない」人でしょう。 ですが、確かに、本をいっぱい書いてそんな事を言っている人もいます。歴史が解明するでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    法華経は ブッディスムに非ずというご見解でしょうか。  tumaritouoさんは 《われはブッダなり》と宣言されますか。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.1

感ずるところは、 上から目線で感じわる~ですね。 こういうの野狐禅っていうんでしたっけ。 多分、悟ることを目的にするのは本末転倒なんじゃないですかね。 正しく生きている人をブッダと呼ぶんじゃないでしょうか。 ところで、 私たちは世界を観念を通してみていますよね、家族、学校、会社、社会、国・・・・全部観念ですよね。 目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか?

noname#80116
質問者

補足

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。 ★ 感ずるところは、 / 上から目線で感じわる~ですね。 ☆ わたしの質問もしくは その中の鉄面皮の発言のことを言うのでしょうか。それとも この法華経を書いた人の表現の中身を言って そう感ずるということでしょうか。  前者なら もう何をお応えしても 詮ないでしょうけれど。 ★ こういうの野狐禅っていうんでしたっけ。 ☆ 《野狐禅》をよく知りません。漠然とはわかりますが。 ★ 多分、悟ることを目的にするのは本末転倒なんじゃないですかね。 ☆ この姿勢と言いますか ブッディスムに対する立ち場と言いましょうか それについては もう今は問うていません。仮りにでも 修行を一たんいづれかの段階として終えたところでの境地を 前提にしてください。  (そんなことは出来ないという場合には その点について 説明をお願いしたいと存じます。→ ★ 目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか? ☆ この特徴に立てば 仮りのブッディストであっても このいまの《余》の立ち場に立って 対話をすることになると思うのですが)。 ★ 正しく生きている人をブッダと呼ぶんじゃないでしょうか。 ☆ これについても 前段と同じことのように思います。言いかえるとしますと この《正しく生きている》というその内容が 法華経の文句と どのように切り結びするか これを お尋ねしています。 ★ 私たちは世界を観念を通してみていますよね、家族、学校、会社、社会、国・・・・全部観念ですよね。 / 目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか? ☆ ですから たとえば《毒箭(どくや)の譬え》を思い出すのですが。つまり いまの質問としては 射た者や弓矢の種類を知ろうとする前に 箭を抜き取って治療をするのでないといけないと言うのではありませんか。  そのとき 《〈さとり〉の境地を示し・・・ / ・・・すべての人々に加護を垂れるのだ》という《正しい生き方(?)》を あなたは していますかという単純な質問です。ただ この文句は あなたが初めに触れていたように 《感じわる~》の表現ですので その点 どのように思うのか これにも及んでいるというかたちです。  もう少し勇み足としてでも述べてみます。  一方で ブッディスムのおしえは 一般にわたしたちに出来ることであり 他方で もしそうであっても あるいは なくても ブッダその人を崇めるというのであれば それは あなたの言うようにその教えや本人を《観念》化している。という疑いが持たれる。このような物言いがつくように思いますが どうでしょうという質問です。

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • テメエで何とかしろ

    WEBを散策していて拾った文章だよ。 > ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」  第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) 無の悟りとは、無い物はないと明白に理解することで、その無を明かしてもやはり無である。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 こういう問いかけに、無を悟らしめた。 教義が無いのではない。 無である事が教義なのだ。 それだけのことだ。 あんたらは本当に仏教となのか? 無ならそれでいいじゃないか。 不満を感じてはいかんよ。 さて研究論文として書いてみました。 無である。 これを。 語る言葉はない。 コレに直せば全く疑念の迫らない論理じゃないか。 釈迦様が語る言葉を持たないだけでなく、君達も自らの信仰心に対して語る言葉が無いはずだ。 だからこそ聖人に尋ねるのだ。 ところがそうして他者の信仰心を盗んだり、土下座して他者からの信仰心を星占いしてもらったとしても、その理解は所詮浅い物で、自らの信仰心そのものにはならない。 自らを理解しなければ何にもならないのだ。 おおむねそのようなたたき台からサル踊りを期待します。

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。