• ベストアンサー

《われはブッダなり》と宣言する人は

 どのくらいいらっしゃるでしょうか。  人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五   〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.7

あー、少し分かった気がします。 ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 それは正しいし必然だと感じます。 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 如来寿量品の一節が 評判が悪いようですが その前後をも掲げておきます。(20080310記) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・ そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。 多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・ 〔《さとり》の境地を示し・・・の一節が入る。〕 かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。 余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。 この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。 そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。 《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。 あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》 他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。 ・・・(中略)・・・ 余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く 無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。 賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。 余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。 ・・・ 余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。 愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り 入滅しないで入滅したと見せるのだ。 それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は 信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。 しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り 《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。(岩本裕訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#80116
質問者

補足

 はづかしながら shift-2007さんは わたしにとって ソクラテスの産婆さんのようなのですね。こんなに多くのことばを費やして翻訳しないと 伝わらなかったとは 残念であり 恥づかしいです。  そうです。ふつうの生活態度の問題として ふつうの思いやりのいとなみであると言えばよかった。つまり ★ ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 ☆ ただ ★ それは正しいし必然だと感じます。 / 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ と書いてくださったということは かなり道が開けましたね。そして もしそうなら もっと《われはブッダなり》の問題を指摘して 広く明らかにしていきたいと思うのですが shift-2007さんにも その方向でお願いしたいと存じます。(なにか おかしな運動になってしまったようですが なお質問のかたちで 広く対話を求めていくのがよいと思います)。  あれっ。それはそうと まだ 《補足要求》なのですか? どうしてでしょう? ★ 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ この問題は 一方で 個人個人がその考え方や生活態度の模索の上で突き当たるものであるでしょう。そして 他方では ブッディスムが 思想にとってあるいは理論としての構成の上で その性格や特徴が どのようになっているかにかかわっていると考えます。つまり わたしたちにとっては これら両面において 広く対話をすすめていくという務めがあるように思います。  後者としては ブッディスムは あくまで実践思想であり そう言うほどに やはりあくまで 人為としての領域にとどまる理論であるということだと考えます。ということは 前者の生活態度の現場においても じっさいのところ なにかあの世のことであるとか 超能力のことであるとか そういう方面のことがらは まったく関係のないことだと言わなければならないはづです。  このような将来を見越した(あるいは もともと仏教はそうだったかも知れないところの)問題について その具体的なあり方は こうなのだといった視点などをも回答してくださると ありがたいです。また とうぜん 反対という立ち場の方もいられることでしょうから そのご見解を寄せていただいて 回答を深めていただければと思います。どうぞよろしくお願い致したいと存じます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (32)

noname#52670
noname#52670
回答No.13

つくづくこの、仏教ってのはなんなのかなぁと思うわけです。 自分がブッダになったとかどうとか言う以前に、 自分が仏教徒だと名乗る人は一体何を根拠に 仏教徒と名乗っているのかなぁ。と思います。 信じている人?→認識の宗教でしょ。 経典の内容を知っている人?→批判してばかりの私よりも知らない人が多いし。 出家してる人?→じゃあ、在家は? 在家?→それ以外の人は? 生まれによってですかね?行為が大事なはずなのに。 私が批判する仏教徒とは? と考えるのが悲しくなった時期もあります。 浄土教、法華経、上座部、禅、密教、華厳、その他色々。 学者はブッダではないのでしょう。 浄土教は今生ではブッダではないのでしょう。 禅は?悟れない人もいるわけでしょ。 密教は?全員密教徒ではないでしょう。 法華は?末法思想で、法華経以外駄目なんでしょ。 上座部は?自力だから悟れない人もいるでしょう。 そもそも、仏教徒っているんですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 お話しにつられて つい 笑ってしまいました。  いちどは こういうふうにも述べて ほんの少しさげすみの気持ちをも表わして 対話に臨んだほうがよいかも知れません。あまりにも 社会共同の心理や雰囲気や歴史的なたとえば檀家制度などの繭のなかに包まれているようなので その或る意味での危機の情況が分からないのだと思いますから。  でも やはり 一つひとつの項目ごとに じっくり きちんとした批判の目を向けて進めていくべきなのでしょうね。  yukiyama20さんが 自信を回復されてきた様子は まさに自信に満ちております。(変な言い回し!?)さらに突っ込んでいってください。もちろん わたしたちも 同じ側にあるのですが 見解は多様性をもっているはづですから。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.12

そもそも釈迦(敬称略)は自分を崇めろとは言ってないはず、 それを神様に祭り上げたのは釈迦と同じ境地に立てなかった取り巻きたちじゃないでしょうか。 それゆえに釈迦の言葉が超自然の信仰になってしまったんじゃないでしょうか。 哲学を理解できない腹癒せにブッディスムを宗教にしてしまった そんなところじゃないでしょうか。 >余は最勝の《さとり》に達し このセリフが嫌い。

noname#80116
質問者

お礼

 ブッダの《臨終のことば》は 次のようだと言います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そこで尊師は若きアーナンダに告げられた。――  ――アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかも知れ  ない。《教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれらの師はおら  れないのだ》と。しかしそのように見なしてはならない。お前たち  のためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが わたしの  死後にお前たちの師となるのである。 (中村元訳《ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――》 第六章〈一〉以下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その前にも 自分の死後どうすればよいかについてアーナンダに語ったことばが記されています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  アーナンダよ。王族の賢者たち バラモンの賢者たち・・・で 修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが 修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。 ・・・(中略)・・・  アーナンダよ。これら四つの者は ストゥーパをつくって拝まるべきである。その四つというのは 何であるか? 修行完成者・真人・ブッダ〔および独覚〕については 人々がかれのストゥーパをつくってこれを拝むべきである。・・・  〔* 《どのような道理によって》そうすべきかについては〕  《これは かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いた人のストゥーパである》と思って 多くの人は心が浄まる。かれらはそこで心が浄まって 死後に 身体が壊れてのちに 善いところ・天の世界に生まれる。・・・この道理によって・・・ストゥーパを拝むべきである。 (同上・第五章〈一〇〉以下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   というような情況ではあります。   (まぁ わたしは 仏教が信仰であるかないかで振りまわされたところがありますが ブッダその人にうらみがあるものではありません)。  (日本人は ブッダあるいはブッディスムについて そして一般的に宗教ということについても いろんな誤解や曲解やその膨らましがあるのではないでしょうか。わたし自身も 上に言ったように そうでした)。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#52670
noname#52670
回答No.11

ついでに。 日本では数千年前の、あるインド人を崇拝する人が多いので この思想を批判したり、否定することが許されていません。 経典は後で別人が書いたものです。 経典を素晴らしいと言っても、そのインド人が すばらしいことにはなりません。 国をなくした人間が、悟ったと言ったとたん、別の王様になれるのだから すごいですよね。

noname#80116
質問者

お礼

 たしかに 理論的にして実用に耐えうるおしえが あったのでしょうね。我が子を亡くして途方に暮れている母親を諭す逸話など 貴ばれるのだと思います。  あとは すでにお応えに書いたことを重ねます。下から つまり社会的にも人間存在としても 単なる身体の次元からというかたちにおいて下から 生命の理論を見出したというものが いつしか これが 有り難いお経となり説教となり 上から 降ってくるかたちになった。  お上には弱いのでしょうか。お墨付きがあって上から来るものは 何でも有り難く いただくというような刷りこみが はたらいているのでしょうか。この仏教関係の経済活動が 国内総生産の付加価値を高めているということなのでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#52670
noname#52670
回答No.10

訂正。 ×悟るとはいえない。 ○悟ったとはいえない。 上手くやったものです。 どうしたら悟れるのだろう。どうしたらブッダになれるのだろう。 どうしたら解脱できるのだろう。 そうやって悩んでいた修行者たちの中で、 自分は悟った。解脱した。と名乗った。 そして、他に悟ったものは認めない。 そして、方法を教えよう。 コロンブスの卵です。 誰が最初にやったか知りませんがね。

noname#80116
質問者

お礼

 これは どうなのでしょう。方向としては そしてその気持ちとしては 分かるのですが さらにそして 見方によっては かなり辛辣な理論的な《宗教批判》になっているとも考えるのですが まぁ 中身についての議論で 結着がつけられるということになると言わざるを得ないものでしょうか。  わかったような(分からないような)言い方をしてしまいましたが おっしゃっていることは 確かに明らかに 人が何人か集まった場合のその意味としても宗教の問題になるようですと言っていいですよね。  次は 《Q:〈我れ〉はある?ない?・・・》において bonbonnierさんにおしえてもらったサイトです。   ・宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  修行者たちの間から ブッダが抜きん出たという事情(つまり さとり)を 簡潔に 説明していると思いました。ひるがえって捉えてみると 《コロンブスの卵》ではないかという感覚も なきにしもあらず・・・となりますかねぇ。うーん。そう言うには たとえば十代で それと同じさとりを悟ったという人でないと むつかしいのではないでしょうかねぇ。  といったふうに感じました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#52670
noname#52670
回答No.9

いまさら異教について言及しても仕方ないけれども。 面白いことに 悟ったと言うと 新興宗教か、カルトの教祖に認定されて 排斥されるシステムがあるようなので こうすれば悟れますと言っても 悟るとはいえない。 つまり、悟れます詐欺をやっているわけです。

noname#80116
質問者

お礼

 yukiyama20さん ご投稿をありがとうございます。  やや なにか意趣があるのではないかと勘ぐらせるところのある文面ですが まづは そもそもとしては ともに追究していきたいと存じます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  面白いことに 悟ったと言うと 新興宗教か、カルトの教祖に認定されて 排斥されるシステムがあるようなので こうすれば悟れますと言っても 悟る(→悟った)とはいえない。 つまり、悟れます詐欺をやっているわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一つには こういう情況の問題でしょうか。つまり 《悟った》という経験は 大小合わせて 誰でも あるはづなのですが 一般に そう言うのは稀れですし まして《わたしはブッディストであり ブッダです》とは言わないようです。  けれども その過程にあるという意味では まともに考えれば 真面目な求道者であるなら そういう表現になるということは認めるし 自認するものだと思うのですが いかがでしょうか。一つ間違いを犯すと もうそれが前科になって 評判をことごとく落としてしまうという社会心理 これも手伝っているでしょうか。韜晦のほうが 不健全になる場合もあるように思うのですが。  一つには みなさんおっしゃるように インチキ・ブッダの問題があるのでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.8

我はブッダなりの問題点は、 誤解を招く ですかね。 本意でないとしても誤解を招くことを言うのは正しい言葉の使い方とはいえないかもしれませんよ。 お釈迦様がこの法華経の表現を見たらいい顔しないと思います。 『慈悲』が抜けているんですかね。

noname#80116
質問者

お礼

 たぶん 《招いてしまう誤解》には おっしゃるように《『慈悲』が抜けている》と感ずるところと もう一点 あるように思います。ブッダのおしえが この世を超えた領域にも触れるかたちでの信仰の問題になるのかどうか わからなくさせてしまうところではないでしょうか。  《誤解》の点は ほかの回答者の方々も 等しく触れておられるようです。もともと 生命存在と言いましょうか きわめて普通の人間生活について その苦や煩悩などを受け止めて その無明とそしてこれを転換する明知とを明らかにして訴えた。これが 格上げされ観念化し神棚に祀り上げられるようになった。言わば下から生命の理論を説いたのに いつのまにか 上から有り難いお経の説教を垂れる恰好となった。うんぬんだと考えます。  ところが そのような誤解と悪用とは もともと おしえが さとりとして説かれ それが 果たしてふつうの生活態度であるのか それとも 超自然の信仰にかかわるものであるのか この判断が分からない部分を持っていたということも あるかも知れない。うんぬんだとやはり考えます。  わたしの見るところでは これは 仏教の外から 物言いを言うだけではなく その中から しっかりした見解を明らかにする必要があるとということではないでしょうか。つまり そのような要請をわたしたちから提出してもよいように考えます。そういう質問になると思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.6

《われはブッダなり》 これが大馬鹿者 経験済みだと臆面もなく言う これが利口です ブッダの教えなど存在するわけがありません。 それが存在してしまうからブッダ葬送になるのは当然の帰結でしょう。 しかし、ブッディスムの真髄はこのパラドクスにはないのです。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  たぶん おっしゃるとおりだと思います。  いささか乱暴かつ簡潔に書いていただいたのですが 次のNo.7のご回答とも 同じ趣旨だと理解しますので――そちらへのお応えを先にわたしは書いたのですが―― その補足欄をも参照いただければ幸いです。  もっとも 《ブッディスムの真髄》が まだまだ 捉えられていないよというご指摘もいただいたような感じですので この質疑応答の成り行きにも応じて また再び ご回答を寄せていただければありがたいです。お待ちします。(今回の文面だけでは いまひとつ その先へは筆が及ばないように自認しました)。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.5

>ブッダたちが集って そこで行なわれる対話・議論がどうなるのか  いわゆる布教活動が行われるだけじゃないですか。 自分たちのようなブッダをもっと増やそうって。

noname#80116
質問者

お礼

 なるほど 要するに インチキなブッダが出てくる場合をおっしゃっているのですね。まぁ 偽者は この際 論外としてください。  そして ふつうの真面目な〔自称〕ブッダたちの間で どういう話が交わされるかですが わたしの推測としては 直前のお礼欄にも書いたように けっきょく もうブッダのことは 忘れていくと思うのです。  なぜなら ふつうに人間の思想として・つまりもっと簡単に言っておのおのの生活態度として 人への思いやりを実践することと変わらないという結論に達するのではないか ということからです。  したがって その場合には 《布教活動》などありえないでしょうし あとは たしかに逆の見方として あなたの言われるように 上で論外とした《ブッダ増殖運動》が 出てくるということなのでしょう。なぜなら 直前のお礼欄に書いたように 幻想のブッダが 人びとの頭の中にまだ 漂っているという後遺症がある限り それに乗じて 詐欺・偽者が横行します。    要するに――ブッダに対して 好意を持っておられる方にはわるいですが―― 行き着くところは ブッダ葬送になると考えています。これは 健全な思想の方向とあり方だと考えるのですが みなさまは いかがお考えになるでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.4

んー、 法華経のことは知らないのですが、そもそも 私はブッダである は矛盾しているじゃないかと思うんです。 『私』がいてはブッダではいられないと思うからです。 私は優しい という人を信用できないのと同じです。ブッダを否定しているのではなく、自称ブッダを胡散臭く思うわけです。

noname#80116
質問者

お礼

 んー。  早い話が ブッディストであると言う人は 大勢いるわけです。そのような人たちは 当然のごとく すでに今 実践をおこなっているわけです。そのとき 《わたしはブッダである》――《 I am a buddha.》というように表現したほうがいいでしょうか――と 言うか言わないかを別として けっきょくは みづから認識し自覚しているということではないでしょうか。小型のブッダであるのではないでしょうか。  そして――そしてです。ここからが もう一つの質問のミソなのですが―― もしそうではないと言う場合 つまり 《わたしはブッディストですが 小型でも何でも ブッダではありません》という場合 この場合には 次の二通りがあると考えられます。  ・ ブッダからおそわったのだけれど もうブッダのそのおしえを揚げて  棄てている。実質的に保っているが そのありようは すでに別の思想と  して わたしの中に 生きている。  ・ ブッダは 人であったが もはや人ではない存在〔のようなもの〕  となっている。つまり その存在のあり方・生き方を わたしは崇めてい  る。その間には 隔たりがある。だから わたしがブッダであるとは  考えられない。  たしかに これはまだ わたしの勝手な推測なのですが もしこのような二通りの場合に限られるとしますと とどのつまりは どちらも ブッディスムは 存続していないという結論に達すると思うのです。  揚げて棄てられた場合と 単なる幻想の観念と化したブッダを――つまりそれが《宗教》のわるいところだと考えるのですが――唯だ心理の中で漠然と思いに浮かび上がらせている場合とです。  どちらも 経験論としての哲学思想であった部分は それこそ大いに学ばれ活用されたとは思われるのですが あとは 要らなくなっている。つまり ふつうの倫理学などの問題であったという認識になるのではないでしょうか。後者の場合には 副作用として後遺症が現われていると わたしは 見るのですが。いかがでしょう。  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.3

ん~、brageloneさんの言葉は難しい。 もう少し平素な言葉で書くとこのQAももっと面白くなると思うんですが。 修行によって悟れるのですか? 別の言い方をすれば体系化されたシステムによってそれは可能なんですか。 それが出来るなら学校や習い事と同じですよね。 誰がこれに対して卒業証書をくれるんですか?

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回の質問は 同じブッディスムでも まったく見方・捉え方がちがっています。  すでに《さとり》を持ったという時点から出発します。それも ブッダと同じ程度のさとりです。  あとは そのことをはっきりと 宣言しますかという問いです。宣言したと同じ状態にあるという場合を含みます。  そして その場合 この法華経の文句と照らし合わせて どう考えるのか そのように問うています。  さらには もしこの法華経の表現が 気に食わないという人の場合には それでは とうぜん ブッダを対象として信じたり崇めたりはしないでしょうね?という問いを添えています。  (おそらく ここまで来れば ブッディスムは その人の中で破綻を来たすのではないかという わたしの魂胆があります。そうではないでしょうかという質問になっています)。  ですから 自称としての自分だけが認証したという形ででも われがブッダなりと宣言する人は その限りで すでに《卒業証書》を持っているという仮定です。仮定のまま――つまり わたくしが 質問趣旨にほざいたように 仮定・自称のまま―― ブッダたちが集って そこで行なわれる対話・議論がどうなるのか というもくろみです。いかがでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • テメエで何とかしろ

    WEBを散策していて拾った文章だよ。 > ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」  第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) 無の悟りとは、無い物はないと明白に理解することで、その無を明かしてもやはり無である。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 こういう問いかけに、無を悟らしめた。 教義が無いのではない。 無である事が教義なのだ。 それだけのことだ。 あんたらは本当に仏教となのか? 無ならそれでいいじゃないか。 不満を感じてはいかんよ。 さて研究論文として書いてみました。 無である。 これを。 語る言葉はない。 コレに直せば全く疑念の迫らない論理じゃないか。 釈迦様が語る言葉を持たないだけでなく、君達も自らの信仰心に対して語る言葉が無いはずだ。 だからこそ聖人に尋ねるのだ。 ところがそうして他者の信仰心を盗んだり、土下座して他者からの信仰心を星占いしてもらったとしても、その理解は所詮浅い物で、自らの信仰心そのものにはならない。 自らを理解しなければ何にもならないのだ。 おおむねそのようなたたき台からサル踊りを期待します。

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。