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神はいるのでしょうか?

hw4183の回答

  • hw4183
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回答No.22

こんなに時間がたっているのに、すいません。面白いのを見つけてしまいました。 閉めてませんでしたので一言、ご参考になればと思い投稿させていただきます・ >>結局のところ「神」というものはいるんでしょうか。 まず「神」の捉え方ですが100人いれば100人 の認識がおそらくは違っているとおもいます。 どんなに説明しても一人一人の認識に差があり、 そもそもの定義が違っていることも多いと思われます。 たとえば、「愛」ということを考えても、そうですが、3次元のこの世の中で目にも見えず音も聞こえずにおいもせず、形もなくば、手にもとれない、 しかし「愛」を否定する方は少ないと思われます。 なかには愛を知らず、認めない方もいらっしゃるで しょう、しかし厳然として愛は存在しています。 マザーテレサを見よ!過去、愛の塊となって生き抜いた人々を見よ!と言いたいです。 その純粋な愛はどこからきているのか? また、愛なくば親子、夫婦、兄弟、友達、恋人、あらゆる人間関係が成り立ちません。 愛はほんの日常的な愛、与える愛、隣人愛、としても存在するだけではなく、 もっと高次な愛もいくらでも存在しております。 人を愛する事を知らずに生きてきた人はかわいそうです。 なんとか知ってほしいと願わずにはいられません。 しかし、この愛を形有らしめる事は、証明する事は全く出来ません。 この精神活動を愛の思いを、他の人からどれほど、否定されても、 愛が存在しないなんて事は自分の中では全くありえない事です。 愛とはなんと、神、と似た存在でしょうか。 証明する事はできないが、確かに自分の心が、 魂がその存在を確信している。信じている、 といい続ける以外証明できないのです。 この物質世界の中で目に見えない価値の素晴らしさを認識出来る事はなんと素晴らしいことでしょうか。 しかし、この信じるという行為、信仰という行為のなかに実は「信仰とは事実の確認である」という経験をする方が多いのです。愛を信じた時に幸福を感じたように!神はほんの隣にいらっしゃる事を、事実として認識する事も多いのです。 >>宗教のために戦争がおきることがかなり虚しいんですが。 偉大な偉大な過去の偉人、神近き方々、の残されたものを謙虚な気持ちで見てみますと、 世界宗教になったものは共通する普遍的真理があります。 それは他を愛せよ、悪い思いは反省せよ、良いことには良い結果があり、 悪い原因には悪い結果となり、 善人は天国で悪人は地獄(すごく簡単にいいますと)この2点とあの世の観点があります。 これは神(人格神)、または宗教が原因ではありません。宗教の教えを勝手に間違って解釈した人間の過ちであります。人間がまちがったのであります。 ひとからげに宗教のせいだと言えるようなものではありません。 本当の自分として、素直な自分として生きていく中で「神」「仏」あるいは「仏神」「主」いろいろ呼び名はありましょうが、いつかそのようなきっかけがあり、一つの答えにたどりつきますように、心よりご祈念いたしております。 ちなみに私は神を光の塊として霊的に観じた事があります。(古代の大陸の神「人格神」) また私の知人にはギリシャ時代の人格神を観じた方がいらっしゃいます。(他にも多数)

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