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神はいるのでしょうか?

tippokenaotokoの回答

回答No.18

 回答になっていませんが、神がいるかどうか僕にもわかりません。ただ、宗教について自分なりの意見を書かせてもらいます。僕は、宗教自体は人々が幸福になるためにつくられたものだと考えています。ただ、それを作り出した、少なくとも形にしたのは人間でしょう。こんなことをいうと怒られるかもしれませんが、宗教というのは、人が幸福になるために創り出された1つのツールだと僕は捉えています。つまり、宗教はあくまでも人が幸福になるための手段として存在するのであって、目的であってはいけないと思うのです。  数々の宗教紛争は宗教自体を目的としていることから生じるのではないでしょうか。確かに、宗教の性質上これは仕方のないことかもしれません。しかし、宗教はあくまでも個人的なものです。つまり、宗教は個人の内側に存在するものであって、個人の外側には存在しないのではないでしょうか。宗教は個人の内にあってのみ絶対のものであればいいのだと僕は思います。ところが、宗教紛争が起こる場面を見てみると、宗教は個人的なものではなく、集団的なものになっているように思えます。人々は、宗教の絶対性を己の内側のみならず、外にまで求めているのです。  宗教を一括的に捉え、集団と集団の対立構造としてみる限り、宗教紛争は永遠になくならないのではないでしょうか。そして、宗教をあくまでも個人的なものと捉える、すなわち、多様な価値観を認め合うことができるようになることは、やはり個人の力にかかっているでしょう。まずは、宗教を持っている者は自らの属する集団、教団に対して批判的な目を持つことが大事でしょう。宗教団体=宗教ではないのだということを肝に銘じておくべきです。

uncement
質問者

補足

貴重な意見をありがとうございます。 補足としては特定の宗教を信仰してらっしゃる方はえてして他の宗教を頭ごなしに否定してしまうというようなことがあるようなので。 >まずは、宗教を持っている者は自らの属する集団、教団に対して批判的な目を持つことが大事でしょう。 すべての人がこうであれば世の中は変わるんでしょうかね。 「教え」を実践していれば自分で考えることをしなくて楽だとは思うんですけど。 ちなみに私は現在無宗教ではありますがこの先どうなるかはわかりません。 そして無宗教ではありますが全ての宗教に関して否定的な考えをもつこともしていません。 回答していただいた皆さん。全てのご意見に対してはコメントをしていませんが他意はありませんので。

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