• ベストアンサー

仏教は若者にアピールしようとしているのか?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

  • ベストアンサー
回答No.4

 私はどちらかといえば教義のほうが専門で、社会科学的な立場は専門ではありませんが、避けて通ることは出来ないように思い少し文章をまとめさせていただきます。 >>仏教には、キリスト教の「洗礼」に当たる入信の儀式がなく、誰でも望めば仏教信者としてふるまうことができると思いますが、キリスト教の「ミサ」や「礼拝」に当たる定例行事も少なく(私は「坐禅会」に参加していましたが)、日常的にお寺に接することが少ないために、葬式などの時以外、普段の生活ではなかなか信仰を意識する機会がないと思います。  こういった入信の儀式というものがないわけではありません。私は浄土教系の宗派を信仰していますが、そういった入信の儀式を「帰敬式(ききょうしき)」と呼ばれています。本来は本山や別院に出向いて受ける儀式ですが、浄土真宗の大谷派では多くの寺院で気軽に受けることが出来るようになっているようです。  また、定例行事に関してはそれぞれのお寺で月に何度か「お説教の会」や禅宗さんであれば「座禅の会」浄土系であれば「念仏講」が行われていると思いますよ。大きな法要ということであれば「花祭り」「お盆」「お彼岸」「それぞれの宗派の祖師のご命日の法要」等々年間行事を上げていけば結構ありますよ。 >>実際、若者で、自分は仏教に興味があるという人にはほとんどお目にかかったことがありませんし、仏教関係の集まるに行っても、参加しておられるのは、年配の方ばかりです。 又、お寺さんが管理している「檀家」の構成員も若い者はほとんど都会に出て、核家族を作っていますから、地方の寺を守り立てる檀家は衰退の一途をたどっていると思います。  ご指摘の通りであると思います。こういった問題に関しては、仏教は「自覚の宗教」と呼ばれることがあるそうですが、ここにネックがあるようにも思います。「自覚の宗教」というのは、「自分自身で問題意識を持って取り組まなければ意味がない宗教」とでも言えばよいでしょうか。こういった、仏教関係の行事に参加することは仏教者の義務ではありません。しかし、キリスト教さんはミサに参加したりすることは義務に近い強制力を持っていると思います。 >>このような隙間を埋めるように、「創価学会」、「立正佼成会」、「真如苑」などの仏教系の新宗教は、組織的活動を強化し、老若男女を問わず、集客に励んでいるように見受けられます。 また、ご指摘にあるような宗教団体の中にも、義務に近い強制力を持って人を集めていらっしゃるところもあるようです。  勧誘ということにおいても同じようなことが言えるかもしれません。私が信仰している浄土教においては「自信教人信(じしんきょうにんしん)」善導大師のお言葉にあります。「自らが阿弥陀仏を信じ、そして自分自身が信じる姿をもって他の方々に阿弥陀仏の教えて信じていただこう」という布教法です。こういった布教法は浄土教に限ったことではなく、仏教各宗派全体にも言える「自覚の宗教」であるが故の布教法であると思います。しかし、現在仏教を基盤とした新興宗教の中においては過激な勧誘によって被害を受けた方もなかりいらっしゃるようです。そして、そういった過激な勧誘をよしとする宗教の中においては、幾人か勧誘すると宗教的身分が上がるというようなことを言うところもあるようです。また、宗教的身分で言えば子供にテストを受けさ良い成績を修めたり、研修を受けさせたりすると親身分が上がるという制度のあるところがあるようです。話しがそれましたが、そういった勧誘を全ての仏教がよしとしているわけではありません。あくまで、仏教の布教法は勧誘ではなく共感という優しい布教法のはずです。しかもそれは、自分以外の誰かがやったことによって身分が上がるということもない様に思います。  しかし、これは逆の言い方をすれば非常に厳しい布教法です。強制や義務がないということは、自発的なものでなくてはならないということです。もちろん、私たち仏教を信仰する者は、そういった自発的な心を起こしていただけるよう努力は出来ますが、起こすかどうかは最終的な判断は相手次第です。これは「自覚の宗教」の厳しさであるようにも思います。ご年配の方が多いのは、生老病死という人間の持つ苦しみと向き合うという仏教的な叙情のようなものを自発的に感じておられるからだと思います。 >>お寺を預かる和尚さん方や、仏教関係者の皆さんは、このような現状と未来をどうみているのでしょうか?何か、若者や都会の各家族を捉える施策やイベントは考えておられないのでしょうか?「檀家制度」や「葬式仏教」からの脱却、ネットの活用や一般マスコミへの浸透策などについて、考えておられることがあったらご教示ください。  私は仏教であるない関係なく、まずはお寺のある場所を認知していただくことが大切あると思います。土地の名前でも、「~寺」や「寺町」などの名前があるように、寺はランドマークの役割の一端を果たしていたと思います。  また、「あのお寺はまた面白いことをやってるぞ」説きたくなる寺を造ることも大切です。そもそも、落語や浪花節、浪曲などの講座ものの話芸はお坊さんのお説教からの分派です。そういった意味で有名なのは、落語の祖浄土宗の安楽庵策伝、浄土真宗の節談説教などが挙げられます。つまり、お坊さんはエンターティナーであり、お寺はイベント会場の役割を持っていたわけです。  ですから現在、一部のお寺では寄席や美術展をひらいたり、寺の敷地内で高齢者向けのパソコン教室などのカルチャースクールなども行われています。またお坊さんのなかにはボーズバーなどのお店を開いたり、本山の中にカフェを設置したりしているところもあるようです。徐々にではありますが、こういった「人に来ていただける寺」「人が来やすい寺」を作っていこうとするお寺が増えているようです。  しかし、これも知る人ぞ知るどまりです。ネットやマスコミなどによる浸透策はあまり熱心ではありません。私の個人的な意見かもしれませんが、お寺がマスコミやネットにあまり出たがらないのは日本人が固有に持つ宗教者への固定観念にその要因があるようです。これは「お寺のお坊さんはそんな仕事しないでほしい」というものです。日本人は古来から宗教者への聖性を持っています。日本の民間信仰の中において、神と交流できる者は厳しい自己抑制のすえになされるというような信仰です。しかも、それはムラの当番制で回ってくるものでありました。私の知る限りでは、田畑を耕すという普段の生活をしながら、食事制限や睡眠制限などを三年間行うというようなものもあります。しかし、そんなこと誰もやりたくありません。だからこそ、それを専門で行う職が作られていったのだと思われます。つまり日本には古来から宗教者は厳しい修行や苦行をしていなくてはならない、自分たちとは違っていなくてはならないというものがあるようです。  しかし仏教においてお釈迦様は「中道」をとかれ厳しい修行や苦行には反対でしたが、西域、中国、朝鮮半島を経由して来るうちに、修行法がいろいろ整備され厳しい修行も復活していきます。その厳しい修行に日本人は飛びつきます。そういった厳しい修行に反対し念仏を説いた法然、親鸞、一遍などの浄土教の祖師たちがいても、日蓮が題目一行を説いても、未だに日本人の大半はお坊さんは厳しい修行をしていると思い込んでいます。その心は「自分は厳しい修行はしたくないけど、宗教者は厳しい修行をしていてほしい」という日本人が古来より持っていた民間信仰の心から日本人が脱却できていないことを示しています。まず、そういった固定観念を取り除かなくては、ネットやテレビラジオなどのマスコミという、ひざを突き合わせて話し合うことが出来ないものを使う危うさを仏教者は感じているようにも思います。    また、ご指摘の中にあるように檀家制や葬式仏教という言葉は批判的な意見で用いられますが、これは日本仏教の一つの文化体系ということも出来ると思います。この葬式仏教は変化し続ける仏教のなかでも、他の国では見ることがない日本独自の仏教進化の一つの形です。  葬式仏教の始まりは奈良時代までさかのぼることができ、756年聖武天皇の葬儀において、陵墓に向う行列の組み方のみのようですが中国仏教における葬儀形式が採用されています。天皇の中で仏教の受戒が流行すると、葬儀がより仏教色が強くなっていったようです。また、一般の庶民はどうかといえば、平安末期随筆家鴨長明は『方丈記』のなかで、飢饉や天災・疫病で鴨川には死体がいっぱいであったと描かれています。こういった死体の処理をしていたのが、私度僧とよばれるもぐりのお坊さんたちです。こういった死体を集めて燃やしながら、念仏を称えたりお経を読んだりしていたようです。中世においては代表的なのは菅原道真ですが、時として死者は生者に害をなし、それを抑止することが葬式仏教の役割でもありました。江戸時代に入れば制度的に生死の記述をを管理する戸籍の役割として葬式仏教が取り込まれました。つまり、日本仏教の歴史の大半は葬式仏教と付き合いがあるわけです。  しかし、今のままでいいと思っているわけではありません。今日の葬式は仏教はしばせば惰性的な儀式として、ただの寺院の収入源になっています。前述の通り、中世や江戸時代では、葬式仏教の役割が変わっているように、現代における葬式仏教もその意味を変えていく必要があると思います。日本においては葬式仏教という長い歴史を持っている。それは、葬式というイニシエーションをつかさどる力であると思います。「イニシエーション」とは宗教的な意味の要素も強く、オウム事件においてあまりいい印象のある言葉ではありませんが、分かりやすく言えば「心の方向転換」という意味なんだそうです。成人式なんかもイニシエーションの一種のようです。つまり葬式仏教の持っているものとは、愛する人を亡くした悲しみの心からの方向転換を助ける知識の集積であると思います。陰気くさいめんどくさい無意味な金儲け主義の葬式仏教から、やってよかったと思っていただけるような葬式仏教への転換をはからなくてはいけないのだと思っています。宗教を問わず葬儀というイニシエーションは、仏様や神様故人ご先祖様との接点であるということが日本人にしみこんでいるように思います。残された方々にとって「非常に良かったなぁ」と思っていただける葬式であり、また仏様の教えに興味をもってもらえたならばとても喜ばしいことですし、充分に意味がある「葬式仏教」になると思います。  このような充分に意味のある葬式仏教とはどのようなものであるか私も模索中ではありますが、日本仏教には千数百年という知識の集積があり、その中から新しいものが生まれてくる可能性はまだまだ見出せるように思います。  ただ、お寺もoozora2000さんのおっしゃるような、努力を怠っているわけではありません。仏教内部の保守派からの批判、外部からの批判、経済的地理的な問題、そういったものと折り合いを付けながら、多くのお寺が自分のお寺に合わせた努力はしています。まだまだ、始まったばかりなのかもしれませんが、成果を上げているお寺もあるようです。こういったことが、既成仏教これからの課題であるとお寺自身も認識しています。守っていくことと、新しいことを生み出していくことは、矛盾するものではなく助成しあっていくものだと思います。私も微力ながら努力させていただいています。もう少し、見守っていただけるとありがたく思います。 長々えらそうに書き連ねましたが、お答えになっていませんね。申し訳ないです。どうぞ、文意を読み取っていただきたく思います。  合掌 南無阿弥陀佛

oozora2000
質問者

お礼

キリスト教が、人間の誕生や結婚などの若い段階で、信者を囲いこもうとしたのに対して、仏教は人間の死の段階で「葬式仏教」という形式で、「檀家」にかかわろうとしたのはよく理解できます。 いずれのイベントも「イニシエーション」(「心の方向転換」)になりうる人生の大きなイベントであり、そのようなイベントのイニシアチブを取ることによって、宗教の有難さ、重要さを訴えようとしたことは当然だと思います。ただ、もう少し葬式だけでなく、人生の色々なイベントにもかかわろうとするバリエーションがあってもいいのではないかと思うのです。 キリスト教では、結婚式、葬式の他にも成人式や七五三、敬老の日などのイベントを積極的に行事に取り込み、お祝をしていますよ。 人間はなかなか気づかないものです。又仮想的な優越感もあり、宗教のような一見「不確かな存在」はなかなか認めようとしないと思います。このような存在に対して「自覚の宗教」という方向からではなかなか気づかせることが至難の業だと思います。年配になって漸く、生老病死という人間の持つ苦しみと向き合うという仏教的な叙情のようなものを自発的に感じられるようになるというのは事実でしょうね。 しかし、出来ればもっと早い段階で、キリスト教のように、華やかな結婚式や、欧米(キリスト教)文化のようなエサ(言葉は悪いですが)で若者の心を釣るのも一案かと思います。 個々の寺院が、住職さんの才覚、アイディア次第で、色々な工夫や努力をされていることは見聞きしています。音楽ライブを誘致したり、ネットを充実させたり、幼稚園経営や慈善活動などを通して、社会との接点を求めておられることも承知しております。 ただ弱いと感じるのは、個々の寺院が独立した宗教法人となっていて、同じ宗派ましてや仏教全体としてあまり連携が図られていないように感じられることです。(カトリックの場合は、個々の教会で宗教法人になっていることはなく、もう少し大きい組織でなっていると思います。)個々の独立性、個性を尊重しながらも、宗派内でもっと結束し、統一して大きな行動に出ることも必要と考えます。 長々と自説を述べたて失礼しました。 又、ご指導頂ければ有難いです。 P.S. 明日は久しぶりに坐禅会に参加します。心の平安を得て来たいと思います。

oozora2000
質問者

補足

お礼欄だけでは字数制限で書ききれないので、ここから書き始めます。 懇切丁寧なご回答恐れ入ります。 キリスト教の「ミサ」や「礼拝」にある程度強制力があるのに比べ、仏教が「自覚の宗教」と呼ばれていることに問題があるかもしれない、というご指摘はありうるかもしれませんね。 「仏教の布教法は勧誘ではなく共感という優しい布教法のはずです。」というご指摘も納得です。 落語や浪花節、浪曲などの講座ものの話芸がお坊さんのお説教から来ており、お坊さんはエンターティナーであり、お寺はイベント会場の役割を持っていたわけだとすれば、もう少しこういった芸能に出て行くのも手かもしれませんね。 ボーズバーやカフェを開いて庶民の忌憚のない話の聞き役になって頂くのも有難いですね。カトリックでもそういう神父様がおられます。 → http://www.epopee.co.jp/neyrand.html 「人に来ていただける寺」「人が来やすい寺」を作っていこうとする地道な努力は必要だと思います。 しかし、宗教者への固定観念(お寺のお坊さんはそんな仕事しないでほしい)も根強いのは確かですよね。宗教者には、孤峰のようにそびえ立っていて、崇めるような存在であってほしい、宗教者は厳しい修行や苦行をしていなくてはならない、自分たちとは違っていなくてはならないという願望も確かにあると思います。 (宗教者が自分たちがやりたくない、やれない厳しい修行を専門でやってくれる職として形成されて行ったという説、それからお釈迦さまがそのような難行苦行に実は反対だったという話は「目からうろこ」です。) でも宗教家は生き神様ではなく、神様と人間を橋渡しする方々ですから、良寛さんや一休さんのように、とっつきやすく、子供と戯れる慈父のような存在であってもらいたいというのはありますよね。 仏教系の新宗教はいずれも積極的に、義務に近い強制力を持って人を集めている面があり、確かに信徒は増えているのでしょうが、それによってトラブルも避けられないと思います。 (お礼欄へつづく)

関連するQ&A

  • 日本における仏教の将来は?

    縁あってカトリックの洗礼を受けていますが、仏教はじめ宗教全般にも親近感を感じている者です。 本日、私は、ある仏教団体の主催する講演会に行ってきました。大変面白く、ためになりましたが、周りを見渡すと、お坊さんを除いた一般の観衆の中では、50代の私でさえ、若く感じられた方で、かなり年配のいかにも「仏教徒」という感じの方ばかりで、若い人の姿はほとんどみかけませんでした。 仏教には、今若い一般信徒はあまりいないのでしょうか? (仏教には、キリスト教の「洗礼」のように入信の儀式がなく、「仏教徒」かどうかの定義は難しいと思いますが、一体、日頃からお寺に出入りされているような、真の「仏教徒」はどの位おられるのでしょうか?) そして、その年齢構成はやはり老>若なのでしょうか? 一般のお寺は、葬式以外に、信徒、具体的には檀家とどのようにおつきあいをし、お寺への誘致活動を行っているのでしょうか? (キリスト教のように、毎日曜日のミサ・礼拝などの定期的イベントを持っているようには見えないのですが、どのような信徒(檀家)特に若者を対象とした活動を行っているのでしょうか?)  「創価学会」、「立正佼成会」、「真如苑」などの仏教系の新宗教と比べても、組織的活動が希薄で、葬式の世話などだけでは、今後、信徒(檀家)も増えず、先細りだと思うのですが、仏教界は危機意識を持っていないのでしょうか? 尚、このサイトにも「宗教」関係の質問をする適当なカテがなく、せいぜい近いのは「哲学」か「その他カルチャー」位しかないのは、日本で如何に宗教が軽んじられ、うさんくさがられているかの証明のような気がします。宗教は人間の生き方を考え、心の浄化を助けるためになくてはならないものだと思います。歴史上「宗教」を「錦の御旗」に掲げて世界侵略を進めたり、今でも宗教・民族間の戦争が絶えないのは、全く本末転倒なことだと思いますが、近年は「宗教」の名を騙って世の中に危害をもたらすカルト団体も後を絶たず、宗教が人を惑わす危険なもの、というだけの印象しか与えていないのは誠に残念なことだと思います。 一体、仏教はこのような現代にあって、社会のニーズにあまり応えることのできない弱小宗教なのでしょうか? 僧職におありの方、我こそは「仏教徒」と任じておられる方、葬式しかつきあいのない一般の皆さん、他宗教の信者の方、宗教に懐疑的な方など、広くご意見をお願いします。

  • 仏教にはキリスト教のミサのようなものはないのですか

    キリスト教には毎朝のミサや日曜礼拝、聖書研究会があります。 仏教にはこれに似たようなものはないのでしょうか? 私は関西に現在住んでいます。 もしあれば参加したいです。 最近仏教に興味を持っています。 仏教を教えてくれるところを探しています。 知っている方、教えてください。 お願いします。

  • 真如苑の実態

    母が真如苑に入っています。 真如苑の信者は、真如苑は新興宗教ではなく、密教だと言っています。 私には立正公○会や、創○学会などと同列の新興宗教に見えますが、本当のところどうなのでしょうか。 一時、私自身母とともに、真如苑の精舎に通ったり、朝のお勤め(?)のようなものに参加したことがありました。 また、接心といって、霊能者の方にアドバイス(?)や先祖に○○の病を持った人がいる、というお告げ(?)を受けたことがあります。 私は雰囲気的なものがどうにもなじめなかったので、まもなく退会(?)しました。 この真如苑の実態はどのようなものでしょうか。 わかる方は教えて下さい。

  • キリスト教徒と仏教徒について

     私の家は、日蓮宗でその前が確か真言宗だったそうです。熱心ではありませんが、お寺の行事に祖母が参加しています。  でも私は、キリスト教のカトリックに興味があります。昨年、ヨーロッパを訪れた時に、たくさんの教会を見学し、お祈りに使う十字架も買いました。  洗礼も受けたいなあと思いますが、将来結婚するときやお葬式に出席するときのことを考えると迷います。  私の家族は誰一人もキリスト教徒ではありません。私はいま13歳です。  今、私はキリスト教徒なのでしょうか、仏教徒なのでしょうか、それともどこにも属していないのでしょうか。  そして、もしキリスト教徒になったとしたら、家族や友人とどう付き合っていけば良いでしょうか。   よろしくお願いします。

  • 創価学会にはなぜ病院がないんでしょうか

    天理教には天理病院 立正佼成会には立正佼成会病院 共産党にも共産党系の病院 キリスト教にもキリスト教系の病院などなど ありますのに、なぜ創価学会は創価学会病院が ないんでしょうかね? あんな立派な会館たてるぐらいだったら 自分たちの病院たてたらいいのにって思うのですが。 学会員さんたちも恥ずかしくはないんでしょうかね? ちなみに幸福の科学の勧誘がきたとき同じこと 言ったら、「恥ずかしいこれから創ろうと思ってる」と 言ってたんですけどね。

  • 立正佼成会の活動時間

    最近付き合ってる彼女が家族で立正佼成会に入ってることが分かりました。それ自体はかまわないのですが土日になると家族で教会に行くと言い朝から夕方まで会えないと言います。そこで質問ですが立正佼成会の集まりはその様に土日に朝から夕方までやってるのでしょうか?ちょっと教会にかこつけて嘘を言ってる気もします。家族で教会によく行く方教えてください。

  • 真如苑を脱会したい…でも友人との関係が…

    真如苑という宗教団体に所属しているんですが(現在は登録されているだけで、集会等には一切参加していません)脱会したいと思っています。しかし、それが仲の良い友人の紹介であったため、どうするべきか悩んでいます。 数年前、精神的に病んでいる時期があり、その友人が「良いお寺がある」と紹介してきたので、当時、私が無知だったこともあり、そのまま入信してしまいました。その後、数ヶ月はよく分からないまま活動に参加していたのですが、後々真如苑の実態や、私自身の宗教そのものへの不信感が募ってきたこともあり、それ以降は活動に参加しなくなり、真如苑から遠ざかっていました。 しかし、先日久々にその友人と再会し、話したりしていたら、真如苑に連れていかれました。そして、これまでの私の会費(年間2400円)は払い続けている、と告げられ、私がまだ信者であるこということが分かりました。 私自身は、もう真如苑を信仰するつもりはありません。しかし、その時はどうしていいか分からず、結局真如苑の中に入り、お参りのようなものをしてしまいました。そこで相談なのですが、この友人に悪く思われることなく、真如苑を脱会する方法はないか、ご助言頂けないでしょうか。 友人は、例え宗教をやっていようとも私にとっては大切な友人だと思っています。しかし、私がそのことを切り出した時の友人の反応を考えると…切り出すことをためらってしまいます。 どなたかアドバイスを頂けないでしょうか。 また、真如苑を脱会した経験のある方は、脱会手続きなどの詳細を教えて頂けないでしょうか。 宜しくお願い致します。

  • 伝統宗教の日蓮宗は

    日蓮正宗系の日蓮正宗・創価学会・顕正会はカルトですが、伝統仏教の日蓮宗はどうでしょうか? また、霊友会や立正佼成会はどうでしょうか?

  • お寺の檀家にならなければなりませんか?

     まだ亡くなった家族はいないのですが人が亡くなったらお寺の檀家に入るというのが当然の様になっているように思います。特に地方ではその傾向が強いように思います。収入が少ない世帯には、やっと葬式を終えてホットしたら今度は檀家の負担がかかってくるというのは大変なことです。若い世代だからと言われるかもしれませんが低所得者はこれが現実です。「わたしは○○会に入っていますからお葬式はするけれども檀家には入りません。」という大義名分でもあればいいのですがどのように皆さんは考えますか?宜しくお願いします。

  • 日本人はみんな仏教?

    私は無宗教です しかし家には仏壇があります お葬式はお寺に行きます お正月は初詣に行きます これは仏教ということなのですか? しかしふつう宗教に入信する場合 何かしら手続きをして入信という形をとるのですよね? 私は別に仏教に入信した覚えはありません 例えば、キリスト教の方がお祈りをしていたら それはイエス様にお祈りしているということですよね?(違ったらごめんなさい) しかし、私はなんの宗教にも属してないのに 初詣に行きますしお守りも買います テスト前とか神様助けてくれと思ったりします 無宗教の私はどの神様に助けを求めていることになるのですか 日本人は生まれながらして仏教ということですか? 自分で言っていてよくわかりません どういうことなんでしょうよろしくお願いします。